生成系AIが出てきて確信に変わったことのひとつに、創作活動は完成するのを待っている「とき」が一番楽しいんだなあと。

たとえば、今年の夏に公開予定のジブリの『君たちはどう生きるか』も、今年公開せずに、あと5年ぐらいずーっとつくっていて欲しい。

冗談ではなく、今は割と本気でそう思っています。

去年までは一刻も早く、映画を公開して欲しかったのに。

2023年春現在は、そう願ってやまないほど、制作活動に時間も手間暇もかけられていないものを、受け手として丁寧に受け取ろうとは全く思わなくなってしまいました。

これはChatGPTが昨年末に出てくるまでは、まったくもって自分の中で抱いていなかった感情だから、本当におもしろいなあと思います。

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この現象が、一体何によく似ているかと言えば、使い捨て製品が世の中に溢れた時に非常によく似ているんじゃないかと思っています。

使い捨てカメラなど、世の中に「使い捨て◯◯」が大量生産が可能となったときの世の中の熱狂というのは、きっと尋常じゃなかったのだと想像します。

とはいえ、今は使い捨て製品は、ほとんど使いたいとは思わないはず。

そんなものは、何ひとつ便利だとは思わない。というか不愉快でさえある。

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この点、ほかにもとてもよく似ているのは、1970年に開催された大阪万博で展示されていた未来の生活の数々。

たとえば「人間洗濯機」なんかを見せられて、現代を生きる僕らが一ミリも豊かな暮らしだと思わないことに、とってもよく似ているのかなと思います。

だから、今後の行く末もそういうことになりそうです。この相似形を辿るはず。

奇しくも、2025年に開催予定の次回の大阪万博も、近未来やデジタルヒューマンのようなものがテーマとして行われると言われているけれど、それはちょっと皮肉な話だなあと思う。

歴史は繰り返すとは、まさにこういうことなのかもしれないなあと。

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つまり、オーガニックだと感じられない時間や成長に対して、僕ら人間は強い違和感を抱く生き物なのだと思います。

それは、急激に成長させられてしまったブロイラーのようなもの。

たしかに、世の中には「タンパク源」となる鶏肉を、安く安価に供給して欲しいニーズはあれど、やっぱりそのようなブロイラーのいびつさに対しては、違和感を感じてしまう。

これを違う例に喩えてみると、たとえば「桜の花」が毎日いつでも咲いているみたいなものなのだと思います。

生成系AIの登場は「これからは、誰でも自由に、そして簡単に桜の花をいつでも咲かせられるようになりました!」というものなのでしょうね。

でも「桜を美しい」と思っている僕らは、桜という花自体に感動しているわけでは決してないですよね。

いや、もちろんソレもあるかと思いますが、それと同じぐらい、その根本にあるのは桜は待っているときの「時間の経過の仕方」のほうにあるはずなんです。

具体的には、長い冬を耐えて、そこで力をいっぱいに蓄えて、やっと咲いたと思える桜だからこそ、毎年飽きることなく、桜の満開に強くこころを打たれるわけです。

それが、いつ何時でも自由自在に咲かせられるようになったという桜に対して、誰が心惹かれるのだろうかと、僕は真剣に思ってしまいます。

実際、数年前の紅白歌合戦の中で、CGで桜満開の状態を表現していましたが、本当に何も感じなかったとどころか、正直結構不快でした。

いま、僕らが日々目を輝かせながらやろうとしていることは、あれと全く同じことだと思うのです。

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生成系AIの誕生によって「みなさんが待ち望んでいた桜の花が、毎日咲かせられるようになりました!なんなら、花びらの色だって変えられちゃいます!」とか言われても、何も嬉しくない。

この点、子育てだって、オーガニックの成長と共に辛いことや悲しいことなど紆余曲折あるから、面白いし楽しいはずですよね。

生まれた翌日には、芦田愛菜や大谷翔平のようになって、感動するほど優しく親孝行してくれたからといって、それで本当に嬉しいと感じるかと言われれば、全く嬉しくない。

生成系AIがもたらす恩恵というのは、その物珍しさで一瞬は熱狂したとしても、やっぱり僕ら人間はそこに全力で熱狂できない「性格」を持ち合わせてしまっているのだと思います、残念ながら。

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つまり、これは、僕らが何に対して自然“性”を感じているのかから、きっと逆算したほうがいい。

桜の花の価値そのものではなく、人間が桜の花に心を打たれてしまう、その人間の習性や認知特性の方にカギがあるのだと言い換えればわかりやすいでしょうか。

どれだけテクノロジーが発達していったとしても、その受信機である人間のほうは、もう何万年も前から、何ひとつとしてその機能は変わっていないのだから。

僕らがどうして、その「感動」の構造、その呪縛から逃れられないのかのほうを、今こそ真剣に考えたほうがいいと思います。

花鳥風月を人工的に生み出そうとするのではなく、なぜ人間が花鳥風月をこよなく愛してしまい、それらを愛でようとするのかを、今一度考えたい。

人間がそれを見て感動しているからという理由で、桜の花を大量生産しても本当に意味がないのです。

非常に伝わりにくい話をしている自覚がありますが、ここが今日とっても強く伝えたいポイントです。

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生成系AIを使うな、とは言いません。

もちろん、AIがこれからはスマホ以上に世界に浸透していくことはもう間違いないでしょうし、それはきっと空気のようにそこら中に存在するようになるはずです。

それは、以前も丁寧にお伝えしたとおり。



でも、そうやって社会の中で遍く用いられるようになるものだからこそ、僕ら人間が心の底から楽しみにできるような「創作活動」の援助となって欲しいと、願わずにはいられない。

現段階においては、創作活動の先にある「経済活動」の最大化や、人間の「怠惰」を助長するためのAI活用ばかりに目が向いてしまっていて、本当に良くないなあと思ってしまいます。

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本来、人間の創作活動って、ある意味「自然」そのもの、であるはずですからね。

ひとりの人間の体内が科学では解明できない「自然」そのものなのだから、その体内で土を耕し、種を植え、毎日水やりをして、その結果としてやっと生まれてくる創作という花が、自然じゃないわけがない。

そのときには、必ず「とき」が重要になってくるはずなのです。

自然という概念は、時間と空間ときっても切り離せない。常に生成変化しているもの。

そう考えると、自然法則というのは、徹頭徹尾「時間と空間」の制約が司っているはずなんですよね。

時空が存在しない、もしくは歪んだ「ネイチャー」というのは、どこまでいっても「まがい物」。というかまがい物だと認識してしまう特性が、人間のほうに間違いなくある。

時空をコントールしようというのは、どこまでいっても“人工的”になってしまうんです。

これは、天然のマグロとまったく同様のものを数日で成長させられるように養殖技術が完璧に進化しても、僕らはそれを絶対に「天然のマグロ」とは呼ばないはずで。

ずっと、養殖のマグロと呼び続けて区別し続けるはずなのです。

それがなぜなのかを、ちゃんと考えてみたい。

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今日のお話は、「物自体」に客観的な「価値」があると信じているひとにとっては、まったく意味がわからない話になってしまったかもしれません。

でもその「客観的」な価値を定めているのは、紛れもなく人間なんです。

言い換えると、「物自体の客観的な価値」それらを僕らは毎日市場でやり取りしていると誤解してしまいがちなんだけど、物自体の客観的な価値なんてものは、この世にはひとつも存在していない。

それをいくらリアルに再現できたとしても、時空を恣意的にコントロールした時点で、必ずそれはレプリカになる。オーガニックだとは認められない。

現段階においては、僕は強くそう感じています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても何かしらの参考となったら幸いです。