昨日、Wasei Salonの中で、一汁一菜でおなじみの土井善晴さんが書かれた『学びのきほん    くらしのための料理学』という本の読書会が開催されました。

https://wasei.salon/events/8da25f2a03ec


この本の中で語られていた、「手を抜くと、力を抜くのは違う」という話が、すごく面白かったので、このブログの中でもご紹介しておこうかなと思います。

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では早速本書から、該当箇所をまずは引用してみます。

私は料理研究家として、メディアなどでレシピを提案するようになって、 30 年以上が経ちました。その間に、社会の変化に伴って、テレビや雑誌では手抜き料理や時短料理が 流行りだしました。それは今も続いています。

何度もそういう仕事の依頼がありましたが、一度も受けたことがありませんし、これからも受けません。その理由は、家庭料理をしている人を尊敬するからです。だから、手抜きなんて言葉を使って自分や家族を傷つけて欲しくないのです。手抜きをして、らくをしても、しんどいという心の重さは無くならないからです。

そこで私が勧めたいのは、手を抜くのではなく、「要領よくやる」「力を抜く」ことです。

プロの料理人は、時間通りに料理を仕上げないといけませんから、1時間かかる仕事を半分の時間でこなさないといけないこともあります。それは手抜きでもなんでもなくて、手順の軽重をはかることです。忙しさや、状況で判断することです。     ですので、力を抜くなら堂々と自信を持って抜いて欲しいのです。


さて、いかがでしょうか。僕はこれを読んだときに目からウロコでした。

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僕らはどうしても、「要領よくやること」「力を抜くこと」イコール、それがそのまま「手抜きをすること」だと思ってしまっている節があるかと思います。

だからこそ、「生産性を高めましょう!」みたいな議論のときにも、両極端に意見が分かれてしまう。

「そうだそうだ、もっと生産性を高めないといけない!」という意見のひとたちと、「生産性なんてけしからん。もっと心を込めろ!」という意見のひとたちです。

でも、「手抜き」と「力を抜く」ことには明確な違いがあるのです。

だから「本質的な生産性」とは、「力を抜いて要領よくやること」であって、決して「手を抜く」ことではありません。

世の中の大半の人々が、ここを一緒くたにして捉えてしまっているからこそ、様々な勘違いが生じてしまっている。

つまり世間の人々の解釈の問題であり、この解釈の誤解が「生産性」の議論を、いつもややこしくしてしまっているわけです。

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「力を抜く」こと自体は、全人類において絶対に重要なこと。関係がないひとなんていない。

じゃあ具体的には、手抜きと力を抜くの違いはとは、一体何なのか。

こうやって言及されるとわかったような気にもなれるけれど、実際の実務レベルに落とし込むとなると、それが一体どちらなのかがわからなくなりやすいため、大きな問題となります。

この点、ひとそれぞれにその基準はまったく異なるのだと思います。何か明確に決まった基準があるわけではありません。

人によっては力を抜いていると思われることも、手を抜いていると他人に思われてしまうこともある。

それは何に「価値」を見出すのかの問題であり、つまりそれは属している社会の「文化」の問題だからです。

文化の違いによって、それが真逆で捉えられてしまう場合もある。

わかりやすい話で喩えるなら、たとえば「何事も大事な話は電話で伝えることが丁寧だ」と思う人がいれば「電話なんてありえない、チャットで送ってくれ」というひともいます。

これは完全に文化の違いですよね。どちらが正解という話ではない。

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ただし、自分(たち)にとって、何が手抜きで、何が要領よくなのかは、それぞれが自らの基準で考えてみることは、いま非常に大事なことだと思う。

なぜなら、AIの登場によって、この技術をいくらでも「手抜き」をするために使えてしまうから。

力を抜くと思いながらも、実際のところは単に手を抜いていたとなりかねない。

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参考までに僕の場合は、何よりもその施策が「エンドユーザー」のためになっているかどうかが大事な判断基準となっています。

人間だから、自分の中の悪魔が顔を覗かせるのは仕方ない。「もっと楽したい、サボりたい、お金を稼ぎたい」などは頭によぎることもあるでしょう。

問題はより少ない労力で最大の成果をあげようとするときに、それが本当にエンドユーザーのためになっているかどうかが、一つの判断基準となります。

近江商人のいうところの「売り手よし、買い手よし、世間よし」の、「買い手(受け手)と世間」のためになっているかどうかを常に真剣に考えたい。

売り手(自分)のためだけだったら、それは完全に手抜きです。

でもそれが、買い手と世間のためになっているなら、「要領よくやるべき」ことだと思います。

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しかもそれは、短期的にではなく、中長期的な目線に立ったときに本当に必要なことでもあることです。

地味に、ここに大きな落とし穴がある。現代は、全員の“目先の”利益のためにエンドユーザーを甘やかしてしまうことも、往々にしてあります。

逆に言うと、少し強引でも、中長期的なメリットがあると思ったら、一度少し落ち込んだり批判が飛んできたりしても、その長期的な発展に向けて舵を切っていく必要があるかと思います。

それは、子どもがどれだけ泣きわめいても、予防注射をなるべく打たせるのと、同じようなことです。

僕は、このときに明確な基準、その指針として何度も過去にブログにご紹介している京セラ創業者・稲盛和夫の以下の言葉を大切にしています。

「動機善なりや、私心なかりしか」

自らに対してこの言葉を問い直してみて「動機は善である」ということが胸を張って言えるような状態であるかを、常に確かめてみるようにしています。

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この点、たとえば先日もご紹介した大阪万博で展示されていた「人間洗濯機」も。当時は「手抜き」だなんて誰も思っていなかったと思うんですよね。

時代の熱狂の中で、未来の暮らしの中で必ず普及するものだと思われていた。

でも、その熱狂が完全に過ぎ去った現代に生きている僕らからすると、 タダの手抜きであり、豊かさからは、程遠いものだということがよく分かる。

でも、時代の熱狂というのは、それを完全に見えなくさせる。人々を盲目にしてしまう。

今のChatGPTの熱狂はまさに、そのような熱狂と同様です。

バブルが終わって初めて、お立ち台のバカバカさが理解できるように、これはパーティーや祭りが終わらない限り、何が誤っていたのかは決して見えてこないでしょう。

だからこそ、未来からの視点から、今を考えてみることはものすごく大事だなあと思います。

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また、手を抜くと、同時に魂も抜けていく。

で、魂が抜けると文字通り、死にます。

だから、テキトーに手を抜くぐらいなら、死んだほうがいい。

面倒事をすべて避けようとするなら、人間死んだほうが楽なんです。

これは、1990年代に心理学者・河合隼雄さんの話が非常に参考になる。

『カウンセリングを考える』という本から、少し引用してみます。

家族がおりますと、「今日の飯はやめた」なんて絶対に言えません。それで全部やっていかなければいけない。こんな煩わしいことをするぐらいなら、一人でいるほうがいいんじゃないか、というふうに思う人があって当然です。当然ですけれども、私は、逆に、これからわれわれがこの新しい世紀を生きていく上で、家族というのはすごく大事なものではないかというふうに思っています。     そこまで言えるかどうかはわかりませんけれども、これからは、家族ということを通じて、われわれは非常に深い宗教的な世界というものを、知るようになっていくんじゃないかな、ということさえ思っています。それほど大切なことだと思っているわけです。なぜかと言うと、非常に苦しいことは認めますけれども、そういう苦しいことを通じてでないと、人間というのはなかなか本当のことがわからないからです。

(中略)

そういうことを一つひとつやり抜いて、生きていくということが人生であって、そういうのを全部「うるさい」と言う人には、「何でもそんなにうるさかったら、もう死んだらどうですか」と、私はよく言うんです。「楽でっせ。うるさいことは何もないし、簡単なことです」と。生きてるということには、そういう大変なことがある。その大変なことのなかでも、ことに家族というのは重荷なんですけれども、その重荷をどう背負っていくかというところに、人生の味がある。


さていかがでしょうか。これは、非常に重要な視点だと思います。

そもそも、面倒事に向き合うのが人生です。

現代はどうしても「努力・辛抱・根性」を避ける傾向にあるけれども、それは完全に幻想なんだと思います。

僕らの本当の責務というのは、日常の諸事を要領よくこなし、その結果として、生きる上で本当に大事なものに「努力・辛抱・根性」を持って向き合うこと。

要領よくこなした上で、怠惰に、享楽的に振る舞うことでは決してない。

言い換えると、『7つの習慣』の「緊急ではないけれど、重要なこと」にちゃんと向き合うこと。

そのために「緊急かつ、重要なこと」は力を抜いて要領よくやる。

にもかかわらず、現代人は要領よくやった結果として、大して興味があるわけでもない「緊急ではなく、重要でもないこと」に時間を使いすぎだと感じます。

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そして河合隼雄さんが言うように、これは自然と「家族」や「共同体」へと向かうはず。

しかもそれは、核家族のような教義の家族ではなくもっと「広義の家族」の復興につながるはず。

いわゆる「一族郎党」というときの、一族から郎党まで含んだ広義の家族です。

その復権や復興がこれからもっともっと重要になる。

具体的にいえば、GHQの「財閥解体」によって日本が明確に失わされたものなんだと思います。まさに、骨抜きにされてしまった部分ですよね。

その骨を僕らが再度あらためて拾い上げて、世の中に再び実装していくこと。

もちろん、現代の時代背景に合わせて、それを創意工夫することは忘れずに。

でも、今それが一番大事なんじゃないかと僕は思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても何かしらの参考となったら幸いです。