CNPトークンの登場で再び盛り上がってきているFiNANCiE。

僕も、初期支援の個人大口枠でCNPトークンは購入させてもらいました。

ガチホを強制されて、額面通りに現金化もできないFiNANCiEトークンに、一体何の意味があるの?それは絵に描いた餅では?という批判に対して、最近よく思うのは、初期のトークンの購入はデパ地下の優待券を買うようなものだなあと思います。

言い換えると、贈答品に対して割引やレバレッジを掛けられるようになる、みたいな感覚にとても近い。

過去にこのブログの中でも何度も語ってきたような話と重なる部分も多いのだけれど、このような考え方が割といま大切になってきているなと思うので、今日は少しだけまた異なる角度から、FiNANCiEトークンの価値について改めて考えてみたいなと思います。

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一般的に、デパ地下でご自宅用、自分のためのものってあまり買わないと思います。

いや、富裕層の人たちは日常の買い物が伊勢丹などのデパ地下だというひとも多いかと思うけれど、基本的には贈答用としておくるものを探しに行く人が多いはず。

で、デパ地下専用の優待券なんてものはこの世にはたぶん存在しないとは思いつつ、百貨店の優待券や商品券のようなものは多数存在しますよね。

それを購入することによって、その百貨店内だけでしか使えない、有効期限が存在する状態を許容することで、実質10%割引で購入できるようになるというような。

つまり、ここで語るデパ地下だけで使える優待券を買うということは、ある種の限定性をもたせることによって、最初に支払った金額以上の価値と交換できる権利のことを指しています。

それはリスクを背負った資産であれば、なんでもそう。

流通性のリスクや、期限切れのリスク、どこかで紙切れになってしまう可能性がある金融商品というのは、ありとあらゆる形で割増される可能性があるわけです。

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これは逆の視点から眺めてみると、お金というものは、あまりにも万能過ぎるという見方をすることもできるかと思います。

万能だからこそ、流動性は高く、どこでも何とでも交換できるわけだけれども、万能ゆえに、価値がそもそも低く設定されているということだって、考えられるわけですよね。

それは万能すぎる商品は、結果的に高いお金を出さないと買えないことにも、とても良く似ている。

自分にとっては不要であり余分な機能に対してまで、余分なお金を支払っているという、あの話ともなんだか非常によく似ているなと。

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で、そもそも、人はなぜお金自体を際限なく求めてしまうのか?

それは以前もご紹介した、南直哉さんの『仏教入門』という本の中に書かれていた話が、一番わかりやすいかと思います。

今日の内容ともダイレクトに関わる部分なので、再び同じ箇所を引用しておきます。

貨幣それ自体はただの紙であり、ほぼ無価値である。
しかしそれが市場の取引関係を媒介する役割を負わされた結果、それ自体に価値があるかのように錯覚される(何とでも交換できるもの)。
市場経済社会では、貨幣の「何とでも交換できる」機能は、「思いどおりにできる」という力の実質的な意味になる(「金が無いのは首が無いのと同じ」という諺)。するとそれは、「何でもできる」という意識を喚起する。その結果、貨幣への欲望は際限がなくなるであろう。なぜなら、その欲望は具体的な物に向かっているのではなく、「思いどおりにできる」という観念、すなわち所有の欲望それ自体に向かっているからである。


まさに、これ以上でも以下でもないと思います。

じゃあ、デパ地下で贈答品を買うというのは、一体何をしているのかといえば、そのことで円滑になる人間関係というのは山ほどあるからそうしているわけですよね。

つまり、自分のお金と引き換えに、その贈答品という商品に交換をし、それを他者に贈ることをするわけです。

このお金を使う一連の行為の中で一体何をしているのかといえば「人間と人間の健やかなコミュニケーション」を根本的には欲しているわけですよね。

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で、FiNANCiEトークンは、そのような優待券や商品券を買っているようなイメージに近いと僕は思うのです。

初期トークンを買うことの意味は、たとえガチホが強制されて額面通りに現金と自分が交換することができなくても、同じコミュニティに属している者同士であればそれを購入額以上の価値としてトークンのやり取りができる可能性が高くなるということ。

少なくとも、初期支援の場合、同額の現金をそのまま持ち続けるよりも、そのやり取りの間においてはソレ以上の価値が生まれるわけです。

この点、現代は、価値観が多様になり、どのようなプレゼントであっても、相手にとっては「ありがた迷惑」になってしまいかねない世の中です。

FiNANCiEトークンは、その価値がはっきりと見えちゃっている贈答品といってもいいかもしれない。

とはいえ、百貨店の商品券をそのまま渡したり、アマゾンギフト券を渡すことよりも、体温が乗っかった商品でもある。

だから、ガチホを強制されようが、額面通りの現金化ができなかろうが、それで十分だなあと思います。

変な話、とらやの羊羹を原材料価格で入手できるようなものですよね。

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ここで少し話はそれるけれど、似たような話としてビットコインという存在やその仕組が、ドルや円などの国家が発行している貨幣に問いかけたことって、地味にめちゃくちゃ大きかったんだろうなあと最近になってよく思います。

アメリカでニクソンショックが起きて、金本位制ではなくなったのが1971年。

本来、そこまでは金の保有量に合わせてしか、国は紙幣を擦ることができなかったはずが、その縛りがその時点でなくなったわけです。

結果、国はいくらでも恣意的に紙幣を刷ることができるようになった。でもソレが当たり前の時代に生まれてきた僕らは、貨幣が希薄化するということの意味を、いまいちよく理解できていなかったと思うのです。基準となるものさしが、最初から金銭的価値だったから。

でも、第三の存在としてビットコインのような通貨が出てきて「発行上限が決まっている」という概念を知ったからこそ、そのような仮想通貨と国が発行する紙幣を比較して価値が目減りして希薄化していくということを、本当の意味で理解できるようになった。そんな若い人たちが一気に増えたわけですよね。

それが今、NISAなどの投資ブームが巻き起こっている理由でもあるかと思います。

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僕は、トークンのようなものも、これと似たような気づきを与えてくれるきっかけになっていくんだろうなと思うのです。

具体的には、そもそも「お金」の交換価値って一体何だったのか?それをトークンというものを触れ続けることで、より解像度高くその「機能面」に目を向けられるようになると思う。

この点、最近よく語られているような話で、web3になったことで一番の変化、そして唯一の変化は「通貨をコミュニティごとに発行できるようになったことだ」みたいな話があります。

非中央集権など様々なweb3の革新性は語られているけれど、実際的には独自通貨の発行が最大かつ唯一の変化であるという話は本当にそのとおりだと思います。それこそが大きな革新性。

ただし、その話をもう少し解像度を高くすると、用途を絞り、リスクに晒せば、価値は上がる可能性もあって、もしその用途のみに使いたいというのであれば、本当はもっともっと価値を見いだせるもの、価値を共創できてしまうものがあるということが少しずつバレてきはじめた。

それが貨幣を独自で作り出すことができるという話における、より高解像度の高いひとつの理解だと思っています。

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つまり「何に用いるために、自分はお金そのものを増やしたいと思っているのか?」それを自らに問いかけてくれることが、今のweb3の革新性のひとつだと思うのです。

漠然と「お金があればいい」それは確かにその通りなんだけれども、じゃあそれは一体何のために必要なお金だったんだっけ?という根本の部分まで問い直すことができて、それに合わせた「通貨(トークン)」を同時に作り出せること。

ここにきっと、web3のおもしろさは眠っていて、そのような気付きや発見というのはビットコインがなかったら、僕らが国家が発行する紙幣が希薄化するという概念を理解できなかったことと、同じような話だと思います。

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これは、今僕らが何を問い直しているのか、という話でもある。そちらの問いのほうが、圧倒的に重要であるはずです。

だから、最初の問いに戻りますが、FiNANCiEトークンも額面通りに現金化なんかできなくても、現金と交換して持っておくことには、意味があると思っている。

それを他者と贈り合うことで、その額面通りの「価値」をやり取りできるわけだから。

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贈与にレバレッジをかけたいと思っているひとにとっては、とてもオトクな行為だと思います。あえてこんな言い方をしたいですが、非常にコスパがいいものだということも、強調しておきたい。

トークンの登場により「物品以上、金銭以下」の汎用性を持つ独自通貨を自由に生み出すことができるようになってきていて、それが流通するコミュニティも、自由に作り出すことができるようになってきた。

それがいま登場しつつある新しい経済、トークンエコノミーの可能性だと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても何かしらの参考となっていたら幸いです。