若松さんは「読む」「書く」について、よく「食べる」行為でたとえているように思う。

言葉は私たちの生活、もっというと私たちの存在に深く結びついている。その言葉とはなにかを考えるとき、日常生活に近づけてみると「読む」という行為があります。読むとはなにかを考えないで、人はなにを読んだらいいかに夢中になるんです。何の本を読んだらいいか聞かれるが、それは難しいし「効率よくなにを読んだらいいか教えてくれ」という気持ちだと思うがオススメできない。

例えば「食べる」ことは、我々は相当鍛錬されていますね。日に三回は食べますね。「食べる」っていうことをなにかを明確に語ることはできなくても、なんとなく体でわかってるんですよね。ここまで食べるともう食べちゃいけないってわかるように、人は好きなものばっかり食べちゃだめだってことを「食べる」という行為を繰り返すことで学んでるです。「良薬口に苦し」という言葉もありますが、ときどき私たちは苦みを感じるものを必要とする状態があるって知ってるんです。だから、お皿は食べない。コップをかじらない。甘いものばっかり食べない。

でも「読む」ってことはどうですかね。我々は甘いものばっかり食べないように、自分を認めてくれる情報、自分が役に立つ情報、自分が得する情報、そういうものを取り入れがちじゃないかっていうのはちょっと考えてみたいですね。

だから「読む」とはなにかを真剣に考えると、自分に本当に必要なものが見えてくる。それは必ずしも心地よくない。そして、自分が望んだものとも違うかもしれない。


どうだろう。

私は自分に必要な情報を得たいために何度も本を読んできたように思う。

「答え」が欲しいからだ。ただそれが正しいとは限らない。
それもわかっているのに「答え」を求めることが多かったように思う。

食べてばっかりだったのかもしれない。
わからないから情報で太ってばかりだ。

続けて若松さんはこう語った。

「言葉」ってのは文字で見えますよね。声で聞こえますよね。「意味」はどうですか。意味は見えますか。見えませんよね。

みなさんは、言葉が大事ですか。意味が大事ですか。もちろん、意味ですよね。意味のない言葉を私が話し続けるとみなさん二分も耐えられないと思います。私たちをここにあらしめているのは意味の力ですよね。当たり前のこと言うなと思うかもしれませんが、言葉と意味は同じではないです。全然違います。

言葉とはなにかを考えるときに、言葉をたくさん覚えるとか、広く言語に通じていくのではなく、意味と深く関係できるようになるといいと思うんです。広がるんじゃなく深めていく。広がっていくことは悪くはないですが、深まるのは決定的に重要です


書いてある文章から情報を汲み取り、その答えを読む。
それは必要なときはあるかもしれないが、たしかに浅いのかもしれない。

自分たちの言葉でもっとその意味を深く味わい、書く。
それが必要なのかもしれない。

ーー

これは私の解釈だが、ここにある「意味」はその言葉の辞書的な「意味」だけではない。
あえて辞書の力を借りるとすれば、以下の2.の要素のことだと考えた。

1.言葉が示す内容。また、言葉がある物事を示すこと。
「単語の—を調べる」「愛を—するギリシャ語」

2.ある表現・行為によって示され、あるいはそこに含み隠されている内容。また、表現・行為がある内容を示すこと。
「慰労の—で一席設ける」「—ありげな行動」「沈黙は賛成を—する」

3.価値。重要性。
「—のある集会」「全員が参加しなければ—がない」


しかし。しかしだ。

言葉は知る対象だけではなく、カタカナで「コトバ」という、言葉では表せないものも包括し、意味はひとりひとり違うものとして存在している。と若松さんは言う。

これはのちにまた書こう。

ーー

ここで考えたいのは答えとして書かれている言葉に私たちは囚われがちだということだ。
これには本当に驚いた。当たり前で、わかっていたはずなのに、という点で。

現代にはたくさんの本があるだけではなく、noteをはじめとした記事やYouTubeやInstagramなどの動画コンテンツがあふれている。

そこに人は溺れている。そんな言葉の海から一度抜けてみるときが人には必要なのだと教えられたように思う。

そして自分のコトバを深く考えて、行為として書く必要があるはずなんだ。