遠藤周作の小説『沈黙』の読書会の開催に合わせて、マーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙ーサイレンスー』を昨夜、見返しました。


2017年の上映当時に映画館に観に行ったので、この映画を観ることは2回目であるはずにも関わらず、最初から最後まで初めて観るような感覚でした。

それは内容を完全に忘れていたということではありません。

そもそも1回目は全く何も観ることができていなかったんだなあと、深く反省しているということです。

言葉では言いあらわせないぐらい、とてつもない映画だったんだなあと今は感じています。

本当に多くのひとに観てみて欲しい作品です。ぜひ、このブログを読んでいる方々にはこの映画は必ず観てみて欲しいです。

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で、今日は「なぜ、まったく新しい物語に思えたのか」そんな問いについて、この場でしっかりと考えを深めてみたいなと思います。

それぐらい、個人的にはとても不思議な感覚だったんですよね。

長編小説や、それをもとにしてつくられた映画などの物語には、このような作用というか論理を超えた感覚のようなものがあるから、本当におもしろいなといつも思います。

まさにヘラクレイトスが語ったとされる「同じ川に、二度入ることはできない」というあの話なんかとも非常によく似ている。

まずひとつ目に考えられる理由は宗教や思想、物語に対する認識がこの7年の間に自分自身の中でガラッと変化したことはかなり大きいと思います。

多くの書籍を読み込み、そこで得られた知見もあれば、4年間の無拠点生活中に訪れた宗教関連の神社仏閣や、そのような歴史的な地域も数しれず。

そのようなひとつひとつの体験の中で、自分自身が大きく変化してしてしまったことにふと気付かされました。

また、自分自身を取り巻く環境の変化もそうです。

「コミュニティ」という文脈が、オンライン・オフライン問わず、これほどまでに世の中のメインの潮流になってきて、自分自身がそこと真剣に向き合ってきた7年間であったことも、非常に大きいと思います。

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あと、直近で遠藤周作作品のオーディオブックをいくつも聞いてみたこともかなり大きいと思っています。

今月に入って4つの長編作品を聴きました。具体的には、『深い河』『影に対して』『沈黙』『イエスの生涯』の4作品です。

特に『イエスの生涯』は、この物語を理解するうえで非常に深い示唆を与えてくれました。

聖書の物語やイエスの生涯とどのような部分を重ね合わせて、この『沈黙』という物語がつくられたのか、その構造も含めてとても良く伝わってきたし、各登場人物が一体どんな役回りなのかも、本当によく理解できる。

特に窪塚洋介が演じる「キチジロー」という存在の多面性というか、その役回りみたいなものも、より一層理解が深まる感じがしてとても良かったです。

『イエスの生涯』はド直球にキリスト教の話なので、読む人を選ぶ本ではあるかもしれないけれど、気になる方はぜひ合わせて読んでみて欲しい一冊です。

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さて、今回この映画を観て僕自身が勝手に感じ取った一番大事なことは何だったのか。

それは、「どんなメッセージが届けられているのか、ではなく、何が問われているのか、のほうが大切だ」ということです。

それはまさに文字通り、「沈黙」との対峙の仕方です。

現代社会は、権威的な存在が一体どんなメッセージを与えてくれるのか、何が学ぶべきポイントなのか、それを他者よりも効率的に見つけ出す宝探しゲームみたいな状態です。

偉い人、権威ある人、既に成功した人、そんな人々から発せられるメッセージを読み解き、その後に続けと言わんばかりに、みんながずっと啓蒙されたがっているような状態です。

でも、本来の学びというのは、そのような状態においては決して立ちあらわれてきてくれるものではないはずなんですよね。

以前、思想家・内田樹さんの師弟関係にまつわる『張良の沓』の話をご紹介したことがあるけれど、この映画はまさに、ただただ靴が落とされ続けるだけ。

でも本来は神も師匠も、当に大事なことは明確なメッセージとして教えてくれるものではない存在であるはずです。

更に厄介なことは、その沈黙に耳を澄ませるという行為というのは、基本的には「苦しみ」の連続であり、受難の連続でもあるわけですよね。

どれだけ献身的に信じ抜いたとしても、それ以上の苦痛や困難がドンドンと私に訪れて「なぜ神は、私に語りかけてくれないのか?」と思ってしまう。

つまり、それでも沈黙を貫いてくる「何か」に対して、真剣に向き合うということが宗教的な深まりの始まりなのだと思います。

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この点、よくコミュニティ文脈やスタートアップ文脈おいて「宗教をつくっている」って軽々しく語られるし、僕らもそのような言葉を日常的に用いてしまうけれど、それはカルト的な熱狂の話であって、それらはまったく宗教とは関係ないなと思います。

それを宗教と呼んでしまうのは、とても失礼なことだよなと今ではとても強く反省しています。

そうではなく、自らが何を祈り、沈黙のなかでそこから何を聞き取るのか、それこそが宗教的行為なのだというふうに感じます。

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それはメッセージを正しく聞くことではない。この無言の沈黙の中で、問われていることと、どれだけ真剣に向き合うことができるのかがきっと試されている。

もちろん、何度だって繰り返したいのですが、この問われていることを発見できても、何かが報われるわけでもないし、ともすれば一番望まぬ状態にまで転落するわけです。

このわからなさ、そしてそこからうまれる葛藤、僕らはそれらを本当に怖がるし、望まないからこそ、より声の大きなものに流されてしまう。自ら積極的に長いものに巻かれるように、です。

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ここで話は少し逸れますが、「社会人には、メンターが必要だ」というよくある話があると思います。

この話も、論理としてはとてもよく理解できるけれど、なんだかいつも気持ち悪いなあ、と思っていました。

最近も「鳥井さんには、メンターがいますか?」と聞かれて、「メンターと呼べるようなひとは一人もいません」と答えました。

で、その気持ち悪い理由が最近なんとなくわかった気がします。

以前、河合隼雄さんの言葉をご紹介しながら、養子に対して「自分は実の両親ではない」と告白する親の中に存在している甘えの話をしました。


そのような苦しみから逃れたい人間がメンターを求めて、メンターの言う通りに行動しよう、そんな魂胆が透けて見えるからなんだろうなと思います。

でもそうじゃなくて、「おまえがおまえ自身で苦しめよ、ちゃんと」って思っているんだと思います。

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つまり、沈黙と向き合え、声をかけてもらえるなんて思うな。声をかけてもらえると思うから、足元がすくわれる。

そして、本当の意味で求めているものは、到達点ではなく「状態」でしかないんだということを、ちゃんと理解することが、本当にとても大事だなあと思わされます。

結果や成果、正解やゴール、そんなものがあると思うからその答えらしき声を大声で叫んでいる存在を、無闇矢鱈と探しまわってしまう。

でも、そんなものはない。

「沈黙」のなかで、もがき苦しむことが何よりも大事なんだと思います。

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最後に、映画のネタバレになってしまいますが、そう考えると、この映画の一番の見どころは、主人公の宣教師・セバスチャン・ロドリゴが様々な拷問的屈辱を与えられるなかで、棄教をさせられたあと、その余生のほうなのかもしれません。

そこにこそ、価値や意味があるなと思います。

ドラマチックなクライマックスよりも、そのあとの最後の十数分にまとめられている、その後の長い長い人生の中での見えない葛藤のほう。

そこでは何か大きな事件が起きるわけでもなく、大したドラマにもならない。でもその余生のほうが、実はものすごく大きなドラマが眠っている。

ロドリゴが棄教をして和名を名乗るようになってから、一体どのような内的な葛藤を持ちながら日本で暮らし、日本で死んでいったのか。

ぜひそんなことも思い出しながら、この映画を観てもらえたら嬉しいです。

なにはともあれ、自らの願望実現ではなく、私に何が問われているのか、それを「沈黙」に対して耳を澄まし続けること、そうやって問い続ける胆力が今、僕らに強く求められているのだと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。