前回は、できることを更新し続けるほど、「挑戦している自分」という立場から降りられなくなるのではないか、という話を書きました。

参照:何にでもなれる時代に、「今の自分」をやめられない。

今日は、その更新を続けられなくなったときの話を考えてみたいと思います。

体力も、気力も、そしてそもそも「次の挑戦」に本気で心が動く回数も、決して無限ではない。

それは年齢を重ねるほど、自分自身の心と身体を通して深く理解できてくるところだよなあと思います。

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そして先日も、このブログで、中年危機について書きました。

参照:中年危機は、人生から届いたプッシュ通知。

新しいテクノロジーに夢中でいれば中年危機なんて来ない、と語るおじさんたちへの違和感から書いたものです。

そんな大学までの知見を持ったまま小学校からやり直すような「強くてニューゲーム」を、いったいいつまで続けるのか、と。

いま思えば、AIは、この「強くてニューゲーム」を何度でも始められるようにしてくれるんですよね。

ChatGPTの新モデルAstraで、また新しい画期的な能力が手に入るように、です。

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でも、今日、中年危機の話と重ねて考えてみたいのは、これまで自分を支えてきた頑張り方や、成功の意味や、人から求められる役割では、もう自分の人生を支えきれなくなる、ということです。

「もっと頑張れば、昨日までの延長に未来がある。」そう思って進んできたのに、その延長にあるはずの未来を、自分が本当に望んでいるのか、もうわからなくなってしまう。

それは、道がなくなるからじゃなくて、AIによって道がドンドン先へと伸び続けてしまうから、なんですよね。

どれだけ進んでも、「ここまでやってきた」と思える区切りが来ない。

たどり着いた場所を味わう前に、もう次に目指せる場所が勝手に現れてしまう。

そこで「もっと頑張る方法」を渡されても、逆に苦しいだけなんですよね。

そもそも、頑張って守ってきた自分が、これからも守りたい自分なのかさえも、わからなくなってくるのだから。

そしてAIの進化によって、こうした行き詰まりが、人生の中盤を待たずに、あるいは一度きりではなく、何度も何度も繰り返し、これからの未来には各人に訪れるようになるのではないか。

進める道があることと、その道を進みたいと思えることは、決して同義ではないのだと思います。

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で、前回、若松英輔さんの本を読んで考えた「改心」と「回心」の違いにも触れました。

「私」という主語はそのままに、できることや振る舞いを書き換えていく変化と、自分が生きているという前提そのものが変わってしまうこと、その違いです。

「私はできない」から「私はできる」へ。そうやって、いくら述語を書き換えても、応答できない問いが、ずっと最後まで残り続ける。

そのとき問われているのは、「次に何ができるか」だけではなく、「自分が主人公であり続けなくても、生きていけるのか」という、回心の側の問いなんだと思います。

文字通り、これからはもう新しい若い世代だけじゃなく、AIのほうが世の中の主役になるわけですから。

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AIのスピードに人間が追いつかなくなるというのも、新しい機能を覚えきれない、ということだけではないと思っています。

できることが更新される速度に、自分に起きた変化を受け止め、生き方や関係を結び直す速度自体が、追いつかなくなる。

昨日まで大切にしていた仕事の意味が、突如として一日でガラッと変わる。その仕事を通じて得ていた誇りや、誰かに必要とされていた感覚なんかも、見事にその瞬間に揺らぐわけです。

でも、そこで生まれる喪失をちゃんと受け止めて、弔う前に、「次はこれができますよ!」と、新しい可能性ばかりをAIから提示され続けてしまうわけですよね。

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そして、実際に無限の可能性がそこにあるからこそ、立ち止まれない。

悲しんでいることさえ、対応が遅いだけのように見えてしまう。

次の挑戦は、今日からでも、今すぐにでも始められてしまう。ただ、昨日までの自分が何を大切にしていたのかは、今日すぐに整理できるとは限らないわけです。

そのうえ、前の物語の中で誰かと交わした約束や、期待して参加してくれた人との関係や、そのあとに必要になる手入れは、次の物語にカンタンには切り替わってはくれない。

AIの進化で「何ができるか」は爆速で増えていく。でも、「起きたことをどう引き受けるか」は、同じ速度では決して育たないということです。

この速度差の中で、僕らは何度も何度も、これから立ち止まらざるを得なくなるのだと思います。

昔だったら、人生で一度か二度の大きな転機として考えていたことが、これからは毎年のように訪れるのかもしれません。いや、数カ月おきに起き続けてしまう。

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そう考えると、修行というものには、単に苦労して能力を高めることだけではない意味があったのだろうなあと今振り返ってみて思います。

思いどおりにならない相手や現実に出会ってしまって、自分の望みや振る舞いのほうが否応なく変えられてしまう。

それは、述語だけでなく、主語のほうまで揺さぶられるような体験なわけです。

もちろん、AIとの対話が、そのきっかけになることはあると思います。実際、僕自身も、AIと話すことで、自分の前提を問い直すことがある。

でも、そこで気づいたことを、誰かとの関係のなかで生き直す時間まで、AIが代わってくれるわけではない。

むしろAIは、うまくいかなかった経験にさえ、きれいな意味を与えてくれてしまいます。

以前のブログで、僕はそれを「回心の顔をした、究極の改心装置」と書きました。

「私を手放したい」と相談しても、手放そうとしている「あなた」が、AIから丁寧に磨き直されて返ってくる。

自分を説明する言葉が整ったことと、自分の生き方が変わったことは、同じではなく、その違いまで、わからなくなってしまうことが、これからの時代のほんとうの怖さなのだと思います。

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さて、ここまで書いてきて、いよいよ僕自身にも問い返さないといけません。

この文章を書いている僕は、「AIに踊らされず、本質を見抜いている人」というキャラを守ろうとしていないだろうか、と。

「あの人たちとは違う」と線を引いて、安心しようとしていないだろうか。

これは免責のための自虐ではなく、本気で怖いなと思っていることです。

前のブログでも書きましたが、「回心が大事らしい。じゃあ回心できる自分になろう」と思った瞬間、それはもう改心です。

同じように、「主人公を降りられる自分になろう」と思った瞬間、僕はまた主人公に戻っている。

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もし僕が「Wasei Salonには、そういう成熟をした人たちが集まっている」と言ってしまえば、それはもう同じ線引きの繰り返しです。

AIに踊らされる人たちと、本質がわかっている自分たちと切り分けて、自分たちの価値をただ一生懸命証明しているだけになる。

だから、「誰が本当に価値ある人なのか」をもっと正確に見極めることでは、この問題は解けないのだと思います。

だからこそ、問いのほうを、少し変えたい。

価値ある人間として、どうすれば生き残れるのか。そんな問いから少し離れて、述語を更新し続けられなくなったとき、自分で自分の価値がわからなくなったとき、僕らはそれでもどうやってお互いを支え合っていけるのか、という問いです。

僕がWasei Salonなどで考えていきたいのは、まさにこちらの問いなのだと思います。

AIを使って何ができるようになるのか。その先の話が盛り上がっている今だからこそ、その更新を続けられなくなったあとの生き方までを、今から淡々と考えておきたいんですよね。

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で、この問いに対して、僕の中で明確にあるのは、昨日までの自分の価値を、証明し直さなくても会い続ける場所をつくりたい、ということです。

それはただ、「価値を証明しなくても、ここにいていいですよ」というだけでも、まだ少し足りない気がするんです。

だって、それはともすれば「価値はなくても、居場所はあげます」という、上から目線の許可にもなってしまうから。

これまでの物差しで市場価値が測れなくなったからといって、その人の価値までなくなったわけではない。そんなのは当然のこと。

そのことを、関わり続けるなかで、お互いに確かめられるような場を僕はつくりたい。

すぐに代替されない価値を見つけ直さなくても、その人と対話を、いや世間話レベルの会話でも構わないから、言葉を交わし合える関係性を続けられるようにするためにはどうすればいいのかを考えたいのです。

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そこで過ごした何気ない時間の意味は、その場ではわからないかもしれない。

でも、あとから振り返った時に「あのとき、すぐに励まそうとせずに、ただ話を聞いてくれたことがありがたかった」と、気づくこともあると思うのですよね。

その人が先に(市場)価値を証明したから関係が始まるだけではなく、関わるなかで、相手がいてくれたことの意味が、自然とわかってくることもある。

もちろん、それをまた「これからは、人に寄り添える人こそ価値がある」と、新しい生存条件にしてしまわないようにもしたいです。

人の話を聞く余裕がない日もあるし、自分のことで精一杯の時期もある。そのたびに、ここにいる資格を問い直されるような場所だけには絶対にしたくない。

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そして、Wasei Salonを主宰している僕も、その関係の外側にはいられないのだと思います。

言い換えると、僕がみなさんの価値を認めてあげる、ということでは決してない。

僕自身も、自分が何をしているのか、何を続けたいのか、わからなくなることがあると思います。そのときに、誰かとの何気ないやり取りのなかで、自分ひとりでは気づけないものを必ず受け取るはず。

自分が場をつくり、人を支えているつもりでいたけれど、自分もまた、その関係性に見事に支えられているわけです。

そのことに気づく経験は、前のブログで考えた「生かされている」という感覚にも、どこかでつながっている気がします。

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成熟した自分になってから、誰かを受け入れられるようになるだけではない。

成熟しきれない自分のまま、誰かと関わり続ける。そして、そこでの対話をやめないこと。

AIの進化で切り捨てられて、津波に飲み込まれる「愚かなあの人たち」と、それでも生き残っている「優秀な自分たち」。そんなふうに切り分けて、悦に浸るようなことは絶対にしたくないのです。

関わり続けるなかで、自分の望みや態度のほうが、少しずつ変えられていくこともあるのだと思います。

だからこそ、その時間を共に生きていけたらいいなあと、素直に思います。

AIも、そのためにこそ使えるはずです。事務や準備の負担が減ったぶん、すぐには結論の出ない話に、以前よりも長く付き合えるようになるはずですから。

逆に言えば、AIが速くなったからといって、人との関係性までを、同じ速さで更新しなくてもいいはずなのです。

でも、今は、対人関係までAIと同じスピードでこなさないといけないという切迫感というか、社会的圧力が強くなりすぎているような気がします。

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以前、Wasei Salonの読書会の最後に僕は、「わからないことを、わからないと言い合える関係性って尊いな」と深く感じていました。

今回考えていることも、きっとその話と地続きなのだと思います。

改心と回心の間を行ったり来たりしながら、自分は何を変えようとしていて、何を守ろうとしているのかを、一緒に問い続けること。

すぐに答えが出ないからといって、置いていかないこと。

新しい夢を語れない日にも、ちゃんと、お互いにまた会える。顔を合わせることができるような関係性。

昨日までの自分の価値を、新しいAIを使いこなして一生懸命証明し直さなくてもいい世界線で、また出会える場所を持っておくことに価値が出るはず。

なぜなら、表の世界では、日々そんな自分ばかりを求められるようになっていくのだから。

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だったら、そうじゃないサードプレイスやベンチのような場所こそ、僕は現代で必須の場所だと思っています。

そして、長年そうやって共に過ごすなかで、自分ではもう見えなくなっていた価値を、お互いのなかにちゃんと見つけていけるはずです。

何にでもなれる時代だからこそ、そんな関係のほうを、僕はつくりたいと思っています。

自分で自分の価値がわからなくなったときにも、互いのことまで、見失わずにいられるように、です。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。