今話題の『チ。』を描いた漫画家・魚豊さんの新作『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』全4巻を読み終えました。

陰謀論にハマっていく高卒の青年にまつわるお話です。

前作の『チ。』ほどおもしろかったかと問われると、巻数も少ないので、全然そんなことはないのだけれども、『チ。』が完全に前フリになっている事それ自体が、素晴らしい作品だなあと思いました。

具体的には、「現代の陰謀論と、当時の天動説と地動説の対立は、一体何が違うの?」と、そんなことが直接的に書かれているわけではないけれど、出版順的にそういうメッセージ性も読み取れなくないなと。

「人が何かを追求しようとする探究心とは、一体なんだろう?」みたいな、作者の意図を、ついついそれこそ”陰謀論的”に考えてしまいます。

一番、最後の最後、予定調和的な終わり方ではなく「開かれた問い」のような形で終わっていくのも、なんだかとても良かったなあと思います。

それゆえに、1巻を読み始めたら、ぜひ最後まで読んで欲しい。途中離脱はあまりオススメしません。

全4巻でサクッと読み終えられるので、興味がある方はぜひ読んでみて欲しいなと思います。

とはいえ、なかなかに辛辣な展開ですので、社会派な苦しむようなタイプの漫画が苦手な方はやめておいたほうが無難だと思います。

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さて、この漫画を読みながら僕は、心理学者•河合隼雄さんの「事実と真実」にまつわるお話を思い出しました。

河合隼雄さんの書籍として、最近初めてオーディオブック化された『河合隼雄の幸福論』に書かれていたお話です。

この本の中では、林寛子さんという方の書籍『子ども産みます』という本が取り上げられていました。

林さんは本書の中で、妊娠や出産、育児について、自身の体験を率直に語り、その中で「事実」と「真実」の違いを深く考察していたそうです。そして、河合隼雄さんが特に印象的だったのは、彼女が妊娠について以下のように述べている部分だと、書かれてありました。

“自分の中にあるが、自分の物ではない。何か天から降りてきた命を、たまたま自分が預からせてもらっているような感覚。そのありがたさ、豊かさ。”


“『コウノトリが赤ちゃんを運んできたんだよ』という説明の方が、私の卵子と夫の精子が結びついて…などという科学的事実より、よほどしっくりときた。”


この林さんの表現に対して、河合隼雄さんは「事実」と「真実」の違いを見出していくのですが、その話がなんだかとてもハッとさせられました。

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この点、「科学的な事実」としては、妊娠は生物学的なプロセス。でも、精神的な実感としての「真実」はそれ以上の何かを孕んでいるのだ、と。

ここで、河合さんはユング心理学の論文で掲げられていた5歳の女の子の性的関心にまつわる詳しい論文の一例を挙げながら、説明してくれます。

以下で本書から少しだけ引用してみたいと思います。

この少女はなかなか聡明な子で、大人に対する質問や観察によって、子どもが生まれてくる仕組みについて相当に知るようになる。それでも、時に「赤ちゃんはコウノトリが連れてくる」と真顔で言ったりする。
これについてユングが考えたことは、いろいろと事実がわかってきても、五歳の少女の心のなかで一番しっくりくるのは、「コウノトリ理論」だということである。つまり、その子にとっての「真実」としては、コウノトリ理論がぴったりくるのだ。人間は身体的存在であるとともに精神的存在でもある。


だからこそ「精神的存在としては、それにふさわしい空想の方が意味をもつことがある」と河合隼雄さんは語るのですが、これがとてもおもしろい話だなあと思いながら、僕はこの部分を聴いていました。

で、なんとなくですが、わからなくもないなあとも感じる。確かにそういうことってあるよね、と共感することができる。

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そしてこの「コウノトリ理論」の話は、現代における「陰謀論」とも共通するものがあるなと感じるんですよね。

もちろん、だからといって、陰謀論も「コウノトリ理論」と同様に、意味や価値があるんだと言いたいわけではないです。そこはくれぐれも誤解しないで欲しい部分です。

でも、なぜそれを「その人としての真実」だとして受け取り、捉えたくなるのか。その部分を考えることは非常に重要なんだろうなあと思った、ということです。

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河合隼雄さんも本書の中で、「事実」を教えない方が良いとか「コウノトリ理論」を推奨するべきだとか言っているわけではありません。

むしろ、性教育や他の教育においても、事実と精神的真実のギャップをどのように橋渡ししていくのかがカギだと指摘しています。

「事実を知りながらも、それを精神のこととしてどう受け止めるかについて、ずっと考え続けることにこそ意味がある」と。

これは、陰謀論に限らず、現代社会に蔓延する多くの問題に通じている、非常に重要な視点だと僕は感じます。

性教育のようなある種のタブーを含むものは、政治や経済などのタブーにも非常によく似ているわけですから。

タブーを含むものほど「科学的事実」だけを相手にひたすら押し付けても、逆効果になる場合もある。

それこそ、科学的事実を基に反論をすると「その否定するスタンス自体が、まさに隠したいことがある証拠だ」と受け取られてしまうこともあるということです。この現象は、まさに『ようこそ!FACTへ』のマンガの中でも描かれていました。

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じゃあ、一体どうすればよいのか。

僕たちが考え続けるべきは、「相手にとっての真実」がどのように形成されているのか、その背景や文脈を理解することなんだと思います。

さらに、「相手にとっての真実」が「科学的事実」と整合性が取れない場合において、一方的に否定するのではなく、相手の立場に立ち、対話を通じて、お互いの理解を深めていくこと。

河合隼雄さんはこのエピソードの最後を、林寛子は「コウノトリが赤ちゃんを運んできたというのを噓だと言ってしまうと、何か大切なものが見失われてしまうのではないだろうか」と書いて終えている、と語っていました。

だからこそ「われわれはその『何か大切なもの』を子どもに伝えられる性教育を考えねばならない」とと締めくくっていたのですが、これは本当にそう思います。

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学校教育を中心に「科学的事実」だけを押し付け続けた結果として、失われている「何か」がある。

それが失われれば失われるほど、「自分でたどり着いた真実」に人はしがみつきたくなるもの。

そして、今置かれている環境が苦しかったり、他者からの承認が得られなかったりすることによって、余計に意固地になり、結果的に陰謀論まで及んでしまう。

このような状況下で、さらに覆いかぶせるように「科学的事実」を述べ立ててみたところで、相手の心は閉ざしてしまうだけ。まさに「北風と太陽」でいうところの北風の効果を及ぼすだけだと思います。

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だからこそ、僕が大事だなと思うのは「今見失われそうになっている大切なもの」とは一体何か?それを問い続けることが大事なんだろうなと思います。

そもそも、「科学的事実」というのは反証可能性に開かれているということでもあるわけですから。それっていうのは、いつだって変更されうるものでもあるという前提の上で存在している不安定なものでもあるはずです。

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言い換えると、僕らが常に考えなければいけないことというのは、「科学的事実」と「相手にとっての真実」のズレは常にいつだって生じ得るということを自覚することだと思います。

人間にとって一番根源的な「出産」という営みにおいてもズレるわけだから、すべては異なるという認識を持ちながら、お互いに相手の立場に立ちながら、対話を行うこと。

このあたりは、陰謀論に限らず、本当に今の世の中で大事なことのように思います。

相手を自分の意図する方向、世間的、社会的に正しい方向に導こうとするのではなく、一方で「真実性」で争わないということが、大事なのだろうなあと思います。

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「真実はいつもひとつ」じゃないことに、そろそろ気が付きたい。

現代社会で認められている「科学的事実」の通説はひとつだけであっても、人間の数だけ「真実」はあると肝に銘じること。そのためにこそ、他者への敬意と配慮と親切心、そして礼儀が大事なんだろうなあと同時に思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。