昨日配信されてたおのじさんとのVoicy対話回の中でも少し話題になったのですが、「どっちも大事」という考え方は、とてもズルい考え方、ズルいスタンスだなあと最近よく考えてしまいます。
具体的にはあの中でお話もあった「リベラル・アイロニスト」のようなスタンスが持ち合わせているそのズルさ。
それは以前、社会学者・橋爪大三郎さんのリチャード・ローティの批判においても、ご紹介したとおりです。
僕も「どっちも大事」というのは、普段からこのブログの中で頻繁に語っていることではあるけれど、それゆえに、やっぱりこれって客観的に観ると何かを言っているようで、実際は何も言っていないなと思うんですよね。
だから、自分自身に対して、それはズルいと感じてしまうという話なんです。
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そして、日本人、または東洋思想は、特にこういうことを言いがちだなあと思います。
仏教でも道教でも、武士道や禅なんかでもそう。哲学者・西田幾多郎も「絶対矛盾的自己同一」みたいなは話だってそう。
そして、それは圧倒的に正しいわけです。
二項対立ではない形において、矛盾することを同時に実現しようとすることが大事であるという思想は、既に答えが出ていることだとも思います。
だから、「右も左もどっちも大事、経済も道徳も文化もすべてが大事」でもそれを言って、僕らはそこで満足してしまう。「中庸」というに文字で、正しいことを言った気になれてしまう。
じゃあ、全員がその考え方に理論において納得をし、さらにそれを実生活の中で実践していけるかと言えば、そうじゃないわけですよね。ここに大きな問題がある。
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これはきっと、東洋思想は民主主義や資本主義を前提にしていないから言えたことでもあるはずだと思います。
一部のエリートやトップが国家を牛耳る官僚国家であれば、それで良いかもしれないけれど、今の日本は民主主義であり資本主義を採用している。
そのため、結局「どっちも大事」という理論が、どんな結果を生むかと言えば、「どうやら全員がそのような価値観を持つことはできないらしい」という現実と、それに漬け込む資本の論理やハックが誕生するわけですよね。
そして、そこに衆愚化やポピュリズムの付け入る隙のようなものを生みだし、まさに混迷を極めているのが、2025年現在だと思うのです。
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たとえば、この10年間ずっと「表現の自由と、メディアリテラシーやネットリテラシー、どっちも大事」と世間では言われ続けてきました。
だからこそ、それを改善するためにはどうすればいいのかという議論がひたすらに繰り返されて、そのための改善点だって多方面で語られてきたわけです。
それ自体には非常に意義があり、もし全員がそのような価値観を持つことができたら、確かにすばらしい世界になるだろうなと思います。
でも結局は、ソレは無理だったわけです。実践できるのは一部の人たちの間だけであって、スマホやネットを触る全員が獲得できる価値観ではなかったという事実を突きつけられている。
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また、それを強いれば強いるほど反動が起こり、まさにいま完全に優り戻しの状況にあるんだと思います。
具体的には、それでも世の中は変わらなかったという絶望から余計にポピュリズムに傾倒していくことになる。
そして、耳を傾けて実践してくれたひと賢いひとたちも、実践はしてみたけれど、リベラリズムを実践した結果、物価は上がり、税金が上がり、生活が全く良くならないことを理由に、自分たちの思想をドンドンと鞍替えしていく。
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この点、少し話は逸れますが、先日NHKで放送されていた経済学者・斎藤幸平さんのドキュメンタリー番組「人新世の地球に生きる 〜経済思想家・斎藤幸平 脱成長への葛藤〜」を観ました。
斎藤さんが現在住まれているドイツでも、一時期のような「緑の党」の躍進は鳴りを潜め、極右政党が躍進しているそう。
ニューヨークの大学でも、斎藤さんが主張する「脱成長」の思想が、聴衆側から手厳しく批判されている様子なんかも、番組内では描かれていました。
言い換えると、「脱成長」のような思想に期待をして、実践してみた結果としての絶望が深ければ深いほど、反グローバリズム、反ポリコレ、反ダイバーシティの思想に人々は流れてしまう。
「結局、ダメだったじゃないか!」というお墨付きを与えている状態になってしまう。それが辛辣に描かれていた番組だったなあと思います。
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つまり、何が言いたいのかと言えば、実践しようと試みてもダメだったという絶望というのは、ポピュリズムや反ポリコレに対し養分や肥料を与え続けている状態でもあるわけですよね。
「いや、それはちゃんと実践できていなかっただけだ」という反論も一方で間違いないのだけれども、世界の時流はそんな言い分では待ってくれない。
つまり「どっちも大事、その複雑さ、割り切れなさ」のことを言い過ぎて、ひとりひとりの責任として要求しすぎた弊害みたいなものが、今の世界各国のポピュリズム政権を生んでいるのだと僕は思うのです。
また、頭が良すぎる一部のエリート層の中においても「そんな面倒なこと考えるのはいいから、さっさとテクノロジーで解決してしまおうぜ」というテクノ・リバタリアンたちも生んでしまっているような状況です。
このような土壌を、全員で意図せず整えてしまっている状態が、まさに今だと感じます。
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これはみなさんがよく知るところで喩えてみると、『嫌われる勇気』の最後の結末と、『幸せになる勇気』の冒頭の青年の変化みたいなものが、まさに世界の現状なんだろうなあと思います。
あれだけアドラー心理学に感化されて「世界は変わった!」と思った青年が、自らの理想に燃えて、学校の先生へと転職し、学校内でアドラー心理学を実践しようとしてみた結果、それが全くうまく行かなかった。
それゆえに『幸せになる勇気』の冒頭では、より一層、哲人及びアドラーの思想に対しての恨みつらみが積み重なる状態で始まるわけですが、現代社会全体がまさに、あのときのときの青年のようになってしまっている。
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つまり、それぞれ個々人の技術の修練、熟達性を求めて、突き放す態度それ自体が個々を苦しめてしまった。
社会や思想側に、突き放す気はなくても、突き放されたと感じてしまう環境や構造の問題なんだと思うんですよね。
左派的な文脈、その正論にハッとさせられて、実際に行動をしようとしてみても、諦めずに持続し続けるための実践し続けることが、非常に困難であるわけですから。
だとしたら、孤立に陥らないための方法を探る必要があるはずであって、マルクス・アウレリウスの『自省録』の話のように、僕らは「善い人間とは?」を語りすぎたということなんでしょうね。
もう2000年近く前から言われていることは同じ。
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もっとわかりやすく言い方を変えるなら、それぞれに「熟達しろ」と言い過ぎた。「どっちも大事」論は「お前自身が考えろよ!」と相手の責任にしすぎてしまったわけです。
そして、その技術の修練がままならない場合においては、すべて自己責任にされてしまう。
現代人にとっては、それがあまりにも辛いから、そしてその技術の修練においては個人差もあるから、あまり得意じゃなかったり、いま置かれている環境的に熟達に専念できなかったりする場合は、ポピュリズムや衆愚化問題、もしくは陰謀論のようなものに流れていく隙のようなものを与えてしまうわけですよね。
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きっと本当に大事なことは、自分自身が「善い」を実践する人間にになってみようと思ったときに、絶望しないための環境が存在していること。
ひとりで考え続ける、問い続けるというスタンスはそれぐらいにとても厳しく険しい道だと思うから。
だから、「善い人間とは何か」その理論や理想をTwitter上でぶつけ合うのではなく、それが大事だと思ったときに、個々がそれぞれに実践しようとする人たちが集う「コミュニティ」が必要なんだと僕は思います。
「この空間だけでも、それは小さな現実として確かに立ちあらわれてくるよね」と実感と手触り感をもって味わえる場。
そうじゃないと、理想と現実の対立が深まるばかりだし、そんな残酷な現実に絶望すればするほど人々は余計に分断していくし、反グローバル、反リベラルに傾倒していってしまう。
それぞれに「善い」を実践し、つながり続けるコミュニティの意義はきっとここにあるんだろうなと僕は思っています。
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誰か声の大きなひとが「どっちも大事」と諭し、啓蒙的になってしまうのではなく、ひとりひとりが、自らの実践の中でそれを発見すること。
またそのときには、決して相手に対して無理強いはしない。それよりも、ひとりひとりが自らの内発的動機において、ちゃんと「循環」していると思えることが大事なんだろうなあと。
それで何かが大きく変わるわけではないけれど、間違いなく大事な小さな一歩にはつながるはずで、改めて今、そんな小さな現実を生み出していくことが急務であるような気がしています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2025/01/13 20:34