最近、Wasei Salonの中で、クラファンの企画を共に支援し合ったり、共に持てる能力を持ち寄ってコラボをし合ったりして、お互いの事業の交差点を探っていく形が、自発的に増えていて本当に嬉しいなあと思います。
僕から何かを積極的に提案していかなくても、メンバーさん同士でそれぞれに動き始めてくれていることそれ自体が、めちゃくちゃ良いなあと思いながら眺めています。
そして僕は、ずっとこの状態になることを待ち望んでいたんだろうなあと。
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とはいえ、正直ここまでくるまで本当に長かったし、ものすごく葛藤がある部分でもありました。
僕の方から、みなさんの個性に合わせて「あれしてください、これしてください、あなたとあなたでコラボをしたほうが良いですよ」とか、「この事業をみなさんで一緒に大きくしていましょう」とも間違いなく言えたはずなんですよね。
そして、それで結果が出る方法もなんとなくわかっている。
実際に売上が立てられる状態(三方よし)まで持っていけただろうなとも思いつつも、それをこちら側から指示するのは違うなと直感的に思って、ここまでずっとやってきてわけだけれど、やっと本当のあるべき理想みたいなものが、少しずつ芽生えてきているなあと思います。
7年という時間軸の中で、ものすごく時間もかかりましたし、それを見守るあいだの葛藤なんかも山ほどありました。
でも、いまそれぞれがそれぞれのペースで、自らの自発的な意志で始めてもらえることに大きな価値があると思っていて、それを信じて待ち続けてきて本当に良かったなと思います。
きっとここからは、最初の芯の部分ができた雪だるまのように転がっていくはずです。
もちろん、これからも決して無理強いはしないですし、それぞれがそれぞれの勇気づけをお互いに循環させながら、しっかりと受け取り合って、自身にとって納得感のある道をバラバラに進んでいって欲しいなあと思っています。
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で、今日の本題はここからであって、この感覚ってきっと「キリスト教的な隣人愛」と「仏教的な慈悲」の違いにもつながる話だと思っています。
じゃあ、それは一体どういうことなのか?
この点、これは以前もどこかでご紹介したことがあると思いますが、中島岳志さんの『ガンディーに訊け』という本の中で禅僧・南直哉さんが語っていた話が非常にわかりやすいと思うので、再度ここでもご紹介してみたいと思います。
あの本の中で南直哉さんは「仏教の世界では『愛』は最高の価値を持った存在ではないんですよ」と語られていました。
なぜなら、愛には所有と支配の側面があるからだ、と。
誰かを愛すれば、自分も愛されたいと思う。その思いには、「自分の中に相手との関係を集約したい」という欲望が含まれている。それは平たく言えば、「俺のものになれ」ということであり、仏教では所有を否定するので、こうした欲望は肯定されないと南さんは語ります。
では、仏教では愛のようなものには価値がないのかというと、そういうわけではない。
それは「敬意」だと南さんは言うんですよね。愛の根底には相手を所有し、自分の思い通りにしようとする気持ちがあるが、敬意にはそうした思いが全くない。ただその人が、その人であり続けてほしいと願う気持ちだけがあるだけなのだ、と。
このお話にはとても共感します。
そして、僕がコミュニティ運営をするうえで「敬意」にこだわる理由のひとつも、まさにここにある。
また、最近読み直したエーリッヒ・フロムの『愛するということ』の中でも似たような話が語られてあり、愛は衝動ではなく「技術」の問題だというフロムの主張にも見事につながる話だなあと思います。
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ここで誤解されないように注釈を入れておくと、決して「キリスト教的な隣人愛」が間違っていると言いたいわけではありません。
なんなら、表面的、そして短期的にはものすごく感謝もされるし、それこそが成功に見えると思うのです。
そして、インターネットの世界ではそちらが圧倒的に尊ばれる。なぜなら、より短い時間軸で、よりわかりやすい成果が求められること、それがインターネットの世界の鉄則だからです。
ドンドン軽薄短小になっていくのが、インターネットの定め。
でも、それだけでは満たされないものがあるよね、と僕は思うんですよね。
その表面的、短期的な感謝や成果に甘んじてしまうことがインターネットが世間に広く一般化した現代における一番の罠だなとも同時に思います。
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たとえば、カウンセリングのような場面でも、「先生のおかげで自立できました」は依存のままであり、それはカウンセリングにおいては失敗なのだと、エーリッヒ・フロムの研究者でもある岸見一郎さんは、よく各所で語られていますが、本当にそうなんだと思います。
だから、岸見一郎さんはアドラー心理学を根拠にしながら、「幸福の本質は、貢献”感”である」という話を繰り返し論じていたりもするわけですよね。
相手の反応や感謝の言葉によってのみ得られる「貢献」それ自体ではダメなわけです。
で、「ケア」も似ているようで異なるなと思います。それよりも「労う、慈しむ」という感覚が理想に近い。
「ケア」というのは、良くも悪くも、どこまで行っても、相手を自分の「善い」と思う方向に導こうとする一神教的な「隣人愛」がベースになっているように、僕には思えてしまいます。
もちろん、そうではないという反論も一定数存在すると思いつつ、そして実際にその点があることも認めるけれど、でもやはり世間一般的に語られる「ケア」は、それ自体が外来語であるように、どこかキリスト教的、一神教的な感覚がそこにはつきまとうなあと思います。
でも「労うこと、慈しむこと」の意味は、ケアとは似て非なるもの。
具体的には、私が愛する人々が、私のためにではなく、その人自身のために、その人なりのやり方で成長発展していってほしいと願う心。
それが仏教の「慈悲」なのだろうなと僕は理解しています。
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つまり何が言いたいのかと言えば、インターネット空間の中で、キリスト教的な隣人愛ではなく、どうにか仏教的な慈悲を実践できないかと躍起になってきたのが、Wasei Salonの運営の歴史だと言っても過言ではないのかもしれない、という話です。
繰り返すけれど、隣人愛的な「ケア」や「サポート」のほうが、世間ではよっぽど喜ばれるし、実際に一定の価値があります。
というか、資本主義下において尊ばれる成功や、他者貢献の数々というのは、ほとんどここに集約されると言っても、決して過言ではないはずです。
実際に、相手からはものすごく感謝されることですし、世間からも称賛されて、まさに三方よしが生み出せる。現実問題として、そんなケアやサポートに救われたという人も現代には無限に存在していると思います。
でもそんな中でも、僕は、もっともっと仏教的な慈悲のほうを大切にしていきたい。
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この点、こちらも以前もご紹介したことのある社会学者・橋爪大三郎さんと大澤真幸さんの対談本『ゆかいな仏教』という本の中でも、仏教の慈悲のお話が語られてありました。
大澤真幸さん曰く、仏教の慈悲というのは、キリスト教の隣人愛と比較して「距離ゼロの他者、仏性という価値のある他者」に向けられると語られています。
多少わかりにくい部分があるかもしれないのですが、なんとなく雰囲気だけでも掴み取ってもらえたら嬉しいなあと思うので、少しだけ本書から引用してみたいと思います。
”ブッダは、すでに、自己も他者もない、自己と他者の区別がないという境地に入っていますから、普通に見れば最も縁遠い他者ですらも、ブッダにとっては、自分自身なのですね。その他者は、実は自分自身なのだから、それに対しては「慈」の感情を抱くのでしょう。
それから、「悲」というのは、他者にある「価値」を認めるからこそ感じる愛ではないか、と思いました。その他者にも、ほんとうは仏性があって、覚る可能性を秘めているのに、まだ覚っていない。その意味では、ブッダから見ると、劣位にあるわけですが、「ほんとうは覚りに至りうるはずなのに・・・・・・」と思うから、「悲」の感情がわいてくるわけです。その「覚りうる」というポテンシャルが「価値」ですね。
要約すると、キリスト教の愛は、最も遠く、価値がない他者に向けられる。仏教の慈悲は、距離ゼロの他者、仏性という価値のある他者に向けられる。”
まさにこのような感覚なんですよね。
僕がWasei Salon内で、メンバーのみなさんに見出している何かが、「仏性」と呼べるものかどうかは一旦横に置いておいたとしても、相手の中にある(覚りうる)そのポテンシャルのほうにしっかりと目を向けていきたい。
その開花自体を、決して誘導的に導くわけではなく、ただただ、自発的に発露する過程を見守りたい。
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実体験を通して強く思いますが、これは本当に長く続けていかないと、立ちあらわれてきてはくれないものだなあと思います。7年目にしてやっと、その芽が少しずつ出てきた感覚です。
でも、インターネットの空間においても、着実に芽が出るのだということもハッキリと分かりました。
だからこそ、これからも、インターネットの世界で、淡々とここを突き詰めていきたいなあと思います。
これは、他の誰もやらないような挑戦だと思うからです。だったら自分がやろうと思います。きっとこれからの世界において必ず必要になってくる考え方や価値観のひとつでもあると思うから。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。