昨日に引き続きジブリにまつわるお話。
先日もご紹介した、宮崎駿さんのインタビューをまとめた書籍『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』。
Wasei Salonメンバー・ぴあのんさんに勧められ、今このタイミングで改めてこの本を読み返すことができて本当に良かったです。
10年前にも一度読んだことがあったにも関わらず、当時は一切感じなかった驚きや感動がたくさんありました。
特にマルクス主義に興味を持ち、過激な左翼思想を持つ宮崎駿さんのお話には、ものすごく強い衝撃を受けた。
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たとえば、90年代にインタビューされている内容は本当にすごい発言だったなと思います。
実際に読んでもらったほうが早いかと思うので、以下で本書から少し引用してみたいと思います。
やっぱり八〇年代っていうのはねえ、僕は終末も甘美に見えたんです。だけど、そういう甘美な終末は来ないんですよ。なんて言うんでしょうねえ、例えば関東大震災がきたとしてね、『焼け野原になったらどんなに気持ちいいだろう』って僕はずいぶん思ってましたよ。実際起こったら大騒ぎするだろうと思うんだけど、そういう気分になっちゃう。だけど、焼け野原にならないんだっていうことがわかっちゃったの。ビルの耐震化が進んでますからね、みんな残るんですよ。これはすごいイメージなんですよ(笑)。
この内容は、今だったら誤読されて、大炎上することは間違いない。
90年代という当時の時代背景だったからこそ、そしてインターネットがなくて雑誌のインタビューで、読む人だけが読む内容だったからこそ、許された発言だったのだろうなあと思います。
そして、それゆえにものすごく的を得ている部分も大きいなと思います。
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このあとに続いて「21世紀は、今までとは違う、もっと強烈な生命力がないと生きていけない」という話もなんだか、とても腑に落ちるものがありました。
もう一度、本書の続きの部分から引用してみます。
友人でマンションの管理組合の理事長やってる奴が何人かいるんですけど、意見がまとまらなくて大騒ぎなんです。くだらないエゴでね。(中略)
なにが起こるかっていったら、『俺はまだ住めるからいい』とかね、『お気の毒ですが、どうすることもできません』とかね。そりゃあ琵琶湖のほとりに建ってれば一軒や二軒爆破もできるでしょうけど、そんなことできないですから。全部が一緒にクズになるんだっていうのが、どうやら二十一世紀の逃げ道みたいですね(笑)。これはね、今までと相当違うもっと強烈な生命力がないと。生きてくってことについてもね、どっかに根っこを下ろした形の根拠を持たないと、こりゃあやってけないぞっていうね。
これは本当にそうなりつつありますよね。
特に現代は、これだけ建築資材の価格も高騰し続けるなかで、莫大なメンテナンス費用がかかるタワマンや大規模ビルばかりが、東京では建築され続けているわけです。
当然、耐震強度も相当なもので、たとえ関東大震災のような大災害が起きたところで、ほとんどはそのまま。もう焼け野原にさえなってくれない。
じゃあ、関東大震災が起きたときに、その部分的に壊れた箇所を修繕することができるのかと言えば、きっとそうじゃないわけです。
お互いに協力しないし、インフレを見込んでつくられてもいないから。修繕積立金だって、あくまで平時においての修繕範囲であって、大震災のような想定外の場合は見込まれていない。
それは原発なんかとまったく同じことなんだろうなあと思います。
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で、これっていうのは、日本人特有の「水に流して、ご破算で願いましては〜」が、実現しない社会でもある。
養老孟司さんは、2038年に起きると予測されている南海トラフ巨大地震が起きれば、「この国も根本的に何かを見直す、私はそれを待っているんですよ」という話をよく語られるけれど、もしかしたらそんなことさえ、もう起きないのかもしれない。皮肉なことに。
この国が焦土と化す、といのは、もはや願っても起きないことになりつつある。
ご破算にならないのが、21世紀。
これは、今までには体感したことがない日本的な風土感覚だと思うのです。
つまり、関東大震災や、戦後の焼け野原や、阪神・淡路大震災のようなゼロに近い状態からの復興ということは起きなくて、それぞれが他人事になってしまって協力し合うことさえ起きない世の中。
それはなんというか、本当に悲惨なことだなと思うし、宮崎駿さんが語るように、21世紀はこれまでとは全く異なる、人間の生きる力が試されるだろうなあと思います。
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また、きっとこれは日本人の文化感や精神性にも大きく影響をする。
日本の「古くなったものはすぐに壊す、新しいもの好きだ」という話は、使い捨て文化と揶揄されるけれど、
でもそれは、伊勢神宮の式年遷宮のように、このような日本的なアニミズムから生まれた価値観であって西洋的な「消費文化」とは一線を画するもの。
にわとりたまご、みたいな話でどちらが先かはわからないけれど、少なくともそのような破壊と再生の中で自然と「なる」ものに対して畏敬の念、畏怖の念を感じる存在が日本人。
そして、その精神性を基盤にしながら、文化を構築してきたのが、僕らまで連なる日本人なわけですよね。
だからこそ、僕らは『もののけ姫』の最後のシーンのような、すべてが消え失せたあとに草木が生えてくるシーンに対して、言いようのないようなカタルシスを感じわけです。
でも、あれがもう起きない。つまり、禊ぎ祓いが起きないということです。
夏草や兵どもが夢の跡
国破れて山河あり、というようなことが起こらない。
「国破れて、半壊の瓦礫だけがあり」という状況。
その時の日本人の精神性は、全く異なるものになってしまう。それでも、この島国に生きている以上、巨大地震は都度都度やってくる、そのたびに中途半端に壊れ続けていく。
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さて、話を書籍全体に戻して、僕があらためて強く思ったことは、この宮崎駿さんの中にある極端な左翼思想を、よくぞここまでデオドラントしてきたなと思いました。
しかも、それを行っているようには気づかせないように、です。
言い換えると、その軸は一切変わっていないように見せながら、宮崎駿さんの極端なまでの独創性が隠し通してこれたこと、それが本当にすごいことだなと。
プロデューサー・鈴木敏夫さんの手腕を改めて深く感じ取りました。
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ただ、昨日のプレミアム配信の中でもご紹介した、最近NHKで放送されていた番組『ETV特集 火垂るの墓と高畑勲と7冊のノート』を観るとその印象も少しずつ変わってきます。
正直、この番組を観る前までは、「ジブリファンなら誰もが知っているような高畑勲さんの話」が語られているんだろうなあと思っていました。
戦後80年という節目にそのブームに乗っかって、テキトーにお茶を濁す程度だと思っていた。
あとは、今回のNetflixでの配信で初めて見るひとたちにとって、わかりやすくまとめられているんだろう、ぐらいに思っていました。
でも、実際には全然違った。
ジブリが大好きで、特にお三方の関係性が大好きな僕のような人間としても新しい発見だらけで、完全に風向きが変わった感じがしました。
きっともう、その抑えが効かなくなってきたんだと思います。
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僕が番組の中でいちばん驚いたことは、鈴木敏夫さんがあくまで証言者のひとりという立ち位置だったこと。
そこに同列に、もしくは優位に並ぶ学者たち。
従来はこんなこと決してなかったと思います。やはりそこにはハッキリと主従の関係性があった。
あとは、高畑勲さんの奥さんや息子さん、そして兄弟としての実のお姉さんの証言までが出ていたことはかなり衝撃的でした。
少なくとも僕は、過去にこんな番組観たことがなかった。お姉さんの顔は初めて観た気がします。それぐらい、これまで親族の方々は前に出てこなかった。
逆に言うとこれまでは、鈴木敏夫さんが見せたい、鈴木敏夫版のジブリ史観みたいなものが僕らが観てきたジブリ史観。
そして、これまでは、それがものすごく時代に合わせて上手につくり込まれていた。
でもそれが今、失われ始めているんだろうなあと思います。
今はもう歴史的な遺産として「高畑勲作品」があまりにも大きくなりすぎたし、良くも悪くも日本史の一部となった。
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きっと、どこかのタイミングで、ジブリのキャンセルカルチャーも始まっていくはずです。それはディズニーのキャンセルと同様に。
もしくは日本で言えば、ジャニーさん死後のジャニーズや、日枝会長のちからが相対的に弱まってきたフジテレビのように。
徹底して解剖されて検証されるものになる。
その時には、見せたいものと見せたくないもののコントロールができなくなる。
僕は結構不思議だったんです。
なぜジブリがこんなにも多くの展示会を近年になって仕掛けているのか。
歴史を振り返るようなありとあらゆる展示を行う、その理由。
それはきっと、この気運を感じ取ったからこその、そして時代の酸いも甘いもすべて見てきて清濁併せ呑んできた鈴木さんなりのファンへのメッセージということでもあるように思う。
その物語を必死で伝えていたんだろうなあと思います。
その名も『スタジオジブリ物語』という分厚い本が2023年に鈴木敏夫さん名義で出版されたことが、まさにその予兆だったのかもしれない。
それはつまり、公式の「正史」を今のうちに確定させておきたい、という意志の表れでもあるのだろうなと思います。
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昨日のプレミアム配信の中で語ったような、決して表では語ることができないタブーにまつわるお話も、過去の発言などを文脈を無視して切り貼りして、見せたいように見せて、チェリー・ピッキングされた結果として表立って語られるようになれば、それは大炎上の火種となってもおかしくない。
本当に、いくらでも現代人が見たいように、見せられてしまう。
前述した宮崎駿さんの発言も、先日亡くなられた渋谷陽一さんのインタビューだったからこそ、ここまで語っているということでもあるはずで。
そこに明確な信頼関係が、存在している。でもそんな渋谷陽一さんも既になくなってしまった。一番そばで見守っていた語り部がいなくなったようなもの。
これからは、戦時中の歴史が検証されるように、ものすごく好き勝手にメスが入っていくはずです。
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だからこそ僕は、ジブリの価値観を丁寧に語り継いでいきたいなあと思う。
本当の意味で、何を伝えたかったのか。僕は変わらずにジブリが目指していた「月」それ自体の価値を問い続けたい。
それがたとえ、物心つく前からジブリ作品を観続けてきて、完全に洗脳されているからそう思っているだけなんだ、ストックホルム症候群のようなものだと言われたところで、構わない。
下の世代から「前時代的な発想だ」と揶揄されようとも、僕は変わらずにジブリの価値を語り続けたいし、これからも書き続けたいなあと思います。
それぐらい、僕の中にはやっぱり一番深く根付いている思想であり、その根源にあるものでもあるからです。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。