今月のPodcast番組「なんでやってんねやろ?」のテーマは、IKEUCHI ORGANIC、坂ノ途中それぞれの企業がリアルイベントを開催し続ける理由と、そのイベントを開催する際に意識していることについて語られています。

今週配信された最新回では、坂ノ途中さんが農家さんとの勉強会など、リアルイベントを開催されているときに、いつも大切にされている3つのお話で、このお話が本当に大きな学びになりました。


今日はこの内容についてこのブログの中でもご紹介してみながら、深堀りしてみたいと思います。

先に3つを挙げておくと、

①ちゃんとしようとしない
②初歩的な質問には価値がある
③プライベートなことは外へ持ち出さない

この3つになります。これはWasei Salonでもぜひとも大切にしたい価値観です。

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まず1つ目の「ちゃんとしようとしない」。

坂ノ途中の小野さん曰く、どうしても、みんなええかっこをしようとしてしまう。でも、そうやってええかっこしようとした大人同士の話にはあまり学びが存在しない。

本音と建前における、建前ばかりで話されてしまって、結局予定調和的な内容になりがちですもんね。これはとても共感するお話です。

小野さんが仰っていて、特に印象に残っているのは「そうやってええかっこしようとして言語化しようとする手前の話が大事」という内容で、これは過去に何度もご紹介してきた西田幾多郎の「純粋経験」みたいな話にもつながるなあと思っています。

「なんて言えばいいのかわからないこと」のほうに実は大切なことは内在していて、そのことについてほかのひとと、あーだこーだと言っているあいだに、それが言語化されていく。

本来は、そこにこそたくさんの学びや発見があるはずで、一番最初に排除されがちな「なんか、いやだ!」みたいな意見を言い合うことが実は大事だというお話は、本当にその通りだなあと思います。

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2つ目は「初歩的な質問には価値がある」です。

これはもともとは、「アホな質問には価値がある」という言い方だったそう。ただ、それだと流石に角が立つからという理由で、「初歩的な質問」に変わったとおっしゃっていました。

「こんなこと聴いたら、アホやと思われたらどうしよう…?」と考えすぎて、初歩的な質問をすることを、誰もがためらってしまいがち。

でも、そこで口火を切ってファーストペンギンになってくれるひとがいるからこそ、みんなにとっても、何を言っても良い場であるという認識に変わっていく。

そうすると、場の空気もガラッと変わって発言しやすい雰囲気になってくるわけですよね。

また、基本的なことがしっかりと全員に共有されることで、場に集うひとたちの知見も底上げされていくわけですから、こちらも本当に素晴らしい視点だなと思います。

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そして最後、3つ目は「プライベートなことは外へ持ち出さない」というルール。

腹を割って話すような議論においては、お互いの内情も語り合うことになるから、ぶっちゃけ話になることも多くて、それがこの場だけではなく外でも喋られてしまうと思ったら、萎縮して何も離せなくなってしまう。

「ここで語られたプライベートな話は、外には漏れない」という共通認識、その信頼関係があるからこそ、自由闊達な議論ができるわけです。

これも腹を割った議論や対話を行う場合における必須のルールであり約束事だなと思います。

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以上、どれも本当に素晴らしいグランドルールだなあと思いました。

「心理的安全性」という言葉で語られるよりも、よっぽどわかりやすいですし、現場の実践から生まれてきた知恵そのものだなあと思います。

このルールに則って議論や対話に踏み出してくれるひとたちがいるから、その姿に心を打たられて、後につながる人たちも出てきて、場に集まる全員の学びにもなっていく。

以前も書いた、信用と信頼の違いにも繋がりそうです。

信頼で駆動する空間をつくり出すことの価値や意味を、再認識させてもらえるなあと思います。

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そして、まさにこれが「実践」から導かれた学びそのものでもある気がしています。

理屈やロジックで考えると、この逆を試してみたほうが何か有益なことが、その場に立ちあらわれてきそうな予感があるはずです。

たとえば具体的には、

・人前ではちゃんとする。
・初歩的な質問は、自分でググる。
・個人情報保護の観点から、プライベートなことは絶対に話さない。

実際にそのようなルールで回っている企業や自治体、大学なども山ほど存在するはず。

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でもそんなものは、もはやAI同士でもできる会話であって、生身の身体が持っている人間が直接対面して行う必要がないことであることはもう間違いない。

むしろ、生身の人間が集まっているからこそ、まだまったく言葉にならない初歩的な質問、それをお互いの信頼のうえで、提示し合うことにこそ価値がある。

これもまた、北風と太陽理論みたいだなあと思います。

理論武装をするよりも、実はお互いに信頼し合い、お互いに鎧を脱いでいったほうが、良い議論や対話になりやすい好例です。

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あとは、最後にこれはかなりメタ的な視点になってしまうけれど、ぜひ今回の配信は、直接本編の音声を聴いてみて欲しいなあと思います。

なぜなら、これを小野さんの関西弁、京都弁で聴いてみて欲しいから。

京都という街が、これまでずっと続いてきた理由みたいなものが、今回の配信でも、とてもよく伝わってくる。

これを標準語で語られても伝わりにくいし、その価値が半減してしまう。

ものすごく絶妙な塩梅が、言葉の間や抑揚の中に含まれているなあと思います。

まさに今この時代に、音声配信をやる意味みたいなところにもダイレクトに繋がってくる。

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内容と共に、感情豊かな表現と同時に、エモーショナルな部分にも訴えかける要素があるのが京都弁の特徴だなあと思います。

そう考えると、意味だけを抜き出してテキスト化、情報化することによって抜け落ちてしまっている部分が、山ほどあるなあと思います。

京都の良さだけを東京に持ってくると、意外と伝わらないのもこのあたりに理由がありそうです。

むしろ、標準語の中に混ざってしまうと、「いけず文化」のようにして批判されるものになる。あまりに強烈な共同体感覚に縛られすぎてしまっているように見えてしまう、文化感が強すぎるなと感じてしまう。

それは標準語のマイルドさと比較されてしまうから、致し方ない。

でも本来は、暮らしの実践から立ちあらわれてくる学び、ハイコンテキストからの洞察のほうが重要であって、京都にはこのような知見が山ほど溢れているなあと思います。

その歴史の中で磨かれに磨かれてきた文化と共に、言葉としての方言も共に進化してきているということなのでしょう。

そう考えると、つくりたい文化に最適な道具としてのツールとして、方言があるということなんでしょうね。

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この点、以前にも何度かご紹介して来た養老孟司さんと久石譲さんの対談本『脳は耳で感動する』という本の中に「言葉が先か?実態が先か?」というお話が語られてあって、その話をふと思い出しました。

近年の日本は「納期」を重視しすぎてしまって、現場の職人の考え方を軽視した結果、マンションの耐震強度偽装のような問題や事故が頻繁に起きるようになってしまった。

そこでは一体何が変わってしまったのか、についてお二人が議論している内容です。

少し本書から再び引用してみたいと思います。


養老    納期とか人間の約束の方が重要になってしまったということですね。現場の職人の考えよりもね。最近、ずっと言葉の問題を考えているんです。一言でいえば、「言葉が先か?実態が先か?」ということ。日本人のいいところは実態を先に置いてきたこと、つまり実態を優先してきたということなんですね。

マンションの例でいえば、現場、職人という実態を優先してきたんですね、これまでは。ところがここへ来て、「納期」「約束事」という言葉が人間よりも優先されてきている気がします。日本人がヘタに言葉を優先し始めると、とんでもないことをし始めるので危惧しているんですけどね。


で、養老さんは、それが戦争中でいえば「一億玉砕」「本土決戦」みたいなことだと語ります。

そんなことは無理に決まっているし、言っている人も無理だということがわかっている。なのに突き進んでいく、そんなことになりかねないのだと。

そして、実際にいま世界中がそうなってきているんですよねと、養老さんは言います。

これは、本当にそう感じる。現場よりも論理や言葉が優先して、ロジックとしての正しさばかりを主張し合う。

その裏返しで、実態側はトランプのような人間に見事にハックされてしまうわけです。

養老さんは「日本人は物事が起こって言葉が生じてくる傾向が強いと思う」と、本書の中で語っていました。

その事例として、日本人は季節が変化して、折に触れて何かを感じる。それを「もののあわれ」だと表現をするのだ、と。

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このように日本人の、現場に芽生えている”自然”な作物、そこにあるものを育む感覚のようにして養われている叡智、現場の知恵のようなものを、もっともっと大切にしていきたいなと僕は思います。

歴史の中で何度も似たような物事を体験して、養老さんの言葉で言えば「実態」の方から育まれた価値観や考え方のほうを大事にしたい。

もちろん、だからこそ理屈重視、合理化重視のひとたちからはひどく嫌われがちではあるのですが、でもそのような人たちは、アメリカを中心に世界中に多く存在していて、そしてそれを一番得意とするのは、もはやAIなんだから。

そんな世界線においては、逆に実態の方を優先した「押してダメなら引いてみろ」的なハイコンテキストのほうが可能性はあって、そのハイコンテキスト文化のほうがとても日本的だと思います。

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京都という町や文化の中には、それが未だに色濃く残っている。

色濃く残してきたからこそ、未だにその文化が継続しているということでもあるはずです。

圧倒的に正しい助言をしてくれているはずなのに、全くうまくいかないAIの取り組みが世の中に増えれば増えるほど、身体という「実態」を持ち続けている人間の価値、その存在意義や役割も、徐々にこちら側に移っていくはずです。

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いつもご紹介している「暮しの手帖」の花森安治の言葉「手は低く、眼は高く」みたいな話ももきっと、今日の話につながる話だと思っています。

いつもこのブログをよんでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。