昨夜、Wasei Salonの中で「歓迎会イベント」が開催されました。

今月から参加してくれた新メンバーのみなさんを、既存メンバーのみなさんと一緒に歓迎しようというオンラインイベントです。

このイベントは、新メンバーが増えるタイミングごとに毎回開催しているものですが、既存メンバーのみなさんもこのイベントに参加してもらえるのが、本当に嬉しい。

今日は、そんな歓迎会イベントの中で話題になった、仕事や働くには興味があっても「キャリアには興味がない」というお話について、少しこのブログでも考えてみたいと思います。

あー、完全に盲点だったけれど、この意見は本当にそうだなと思いました。

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僕も、世間一般的に語られるような「キャリア」の話には、あまり興味がありません。

何を目指して働いて、どんなポジションを獲得して、その結果として、どんなステータスや報酬を得るのか、そういった直線的な成功物語としてのキャリアには、どこか毎回違和感を覚えます。

それは「ああすれば、こうなる」の脳化社会の末路のような感じを受けてしまう。

最近、オーディオブック化されていた経済アナリスト・森永卓郎さんの『官僚生態図鑑――ズレまくるスーパーエリートへの処方箋』なども非常に興味深く聴きました。

ここに書かれている官僚の話が、どこまでが本当の話なのかは定かではないにしろ、このようなキャリア官僚の人々が存在しているということも、なんとなく理解できる。

彼らにとっての「キャリア」とは何なのか、その世界の物語はとても興味深いのですが、自分はそちら側の世界にはあまり関心はありません。

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一方で、「はたらく」ということには、めちゃくちゃ興味関心があります。

一生涯かけて、働いていたい。先日もご紹介した手塚治虫のドキュメンタリー番組のように、ずっとニコニコしながら働きたいし、病院のベッドの上でも、働きたい。


FIREのようなことをして、セミリタイアなんかもしたくない。僕には「はたらく」こと自体に価値があり、それが人生の喜びでもあるような気がしています。

そして、そんな風に「はたらく」ことに深く興味関心を持つひとたちにこそ、Wasei Salonに参加してみて欲しいと思っています。

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この点、現代社会はなぜか「仕事」か「暮らし」そのどちらかに偏りがちです。

先日、YouTubeで公開されていた批評家・宇野常寛さんの動画を見たのですが、宇野さんが何度も繰り返し動画内で語られていた「グローバルの市場からの評価、ローカルの共同体からの承認、そのどちらでもないものが、いま必要」というお話は、本当にそう思いました。


宇野さんは、公共空間と私的空間のあわいとして「庭」という概念が大切で、その庭において、ハンナ・アーレントの語る労働・制作・活動の3つの「制作」ができるような状態を再び取り戻していくことが大切だと主張されています。

以前もこのブログの中で『庭の話』の本の内容はご紹介しましたが、これは本当に素晴らしいご提案だと思います。


市場からの評価と、共同体からの承認に惑わされることなく、孤独を愛して、制作に励むのもひとつの新しいライフスタイルであり有効なアプローチだと思います。

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ただ、僕はもう少し他者性や共同性を重視したい、熟達ではなく「成熟」を重視したいと考えています。

なぜなら、人間はどこまでいっても他者と共に生きる存在だからです。

ハンナ・アーレントの『人間の条件』の中に出てくる「労働」「制作」「活動」という3つの概念で言えば、これらすべてを内包する表現に置き換えると、僕は「はたらく」だなと思うんです。

そして、僕らが掲げているテーマ「私たちの"はたらく"を問い続ける」というのも、旅も暮らしも、生活もすべてが"はたらく"だと捉えています。だからこそ、ひらがな表記をしていたりもします。

日本人にとってのみ理解できる「はたらく」感覚って、間違いなくあるなあと思っていて、それはつまり、他者に”働きかけるもの”です。

ゆえに、日本人にとってのコミュニケーション全般が"はたらく"だと思うし、そこに存在するのは、他者であり共同体であり、成熟の概念です。

つまり、その他者に働きかけるなかにおいて、大切になる成熟を問い続けたいという意味だったりもするんですよね。

もちろん、自己という存在においても、自己が複数のこころを持つ存在だと認識すれば、無意識部分は圧倒的に「他者」であり、そんな他者に働きかける、つまりセルフケアをする対象にもなるわけで。

この意味では、自己との対話なんかもまさに「はたらく」の一部と言えるはずです。

もちろん「自然」に対しても言わずもがな。

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で、今は、このような感覚としての「はたらく」を考えられる空間が世の中にはまったくないなあと思います。

どうしても、先ほどの話にもあったように、社会的に評価されるために資本主義社会で勝ち抜いてお金を獲得して社会的影響力を獲得するか、そんな馬鹿げた戦いの螺旋からは一刻も早く降りてしまって共同体の承認を得ながら暮らしを豊かにするか、という二択になりがちです。

でも、自らが起業し、その起業の結果として「暮らし」をテーマにしたウェブメディアを運営してみた経験、僕としてはどちらも微妙に違うという感じです。

近いところを彷徨いつつも、コレジャナイ感がずっとありました。

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もっと本当に大事なことは、その中間というか弁証法においてアウフヘーベンさせたところにあるように感じたんですよね。それがきっと「はたらく」に集約されるなと思ったんです。

特に日本人の労働感からいえば、やはりこの「はたらく」という一言に尽きるなあと思います。

昨日の歓迎会の中で、自己の仕事でも暮らしでもなく「学習」という話もあったけれど、学びの探求も「はたらく」のひとつだと自然に思えます。

それは、利己や利他を超越した、もっと大いなるものに対して奉仕している感覚。生涯学習におけることも、はたらくの感覚が非常に強いです。

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で、コミュニティというのは、その核心部分で求心力も非常に強いなと思う。

だからこそ、コミュニティや共同体が嫌われる原因でもあるんだと思うんです。なぜなら、依存の対象にもなるし、支配や隷属の対象にもなるから。その危惧感も、とてもよくわかる。

苫野一徳さんがVoicyの最新回で「何かに依存するのは、つながりを求めているから」という話がちょうど語られていて、この話は本当にそう思いました。


でも、苫野一徳さんの話を聴いていると、「依存」それ自体が悪いわけではなく、ひとはなにかに依存せざるを得ないことも同時に再認識できた気がします。

依存することに対して「ダメ、絶対」で断罪してしまうと、余計に孤立に追いやることになる。

そうじゃなくて、ひとは何かに依存しつつ、独立しつつ生きていく生き物であることを認めたうえで、だとすれば、依存する対象の「健全性」の問題に行き着くなと思うんですよね。

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それを自分たちの手で改めてつくりだしてみたい。そこに使われている材料や、中身や構造がちゃんとわかった状態において、です。

つまり、ハンドメイドで、健全な依存先(共同体)をつくりたいなと僕なんかは思うんですよね。

これは、きっと食べ物に喩えるとわかりやすくて、ファストフードや美食など外食文化に依存したり、真逆に振り切って健康思考が強くなりすぎてオーガニック原理主義になってもそれはそれで違う。

コミュニティそれ自体を、自分たちの手で「自炊」する感じにも近い。そこに納得感を持てるかどうか、という話だと思っています。

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コミュニティみたいなものほど、既に完成しきったレディメイドなものがあてがわれてしまいがちだし、そして選ぶ側も、それ以外に選択肢がないと思わされてしまっているのが現代です。

でも、こんな世の中だからこそ、それをゼロから、自分たちにとってヘルシーなものは何かを問い続けてみながら、手作りしてつくってみたい。

言い方を変えれば、キャリアを突き詰めるための共同体である霞が関や外資系のような会社は世の中に溢れんばかりに存在し、暮らしを豊かにするためのローカルの共同体も過疎が進んで、若い人たちを大歓迎しています。

でも、Wasei Salonにいるひとたちは、どこか両方に納得が行っていないひとたちだと思うんですよね。

もしくは、実際にそれらどちらかを既に実践しながらも、同時並行的に違うあり方も探ることで、そのどちらかへの依存や、一極集中を避けている印象があります。

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そのときに、コミュニティというハード面や枠組み、そこにキャリアでもなく暮らしの豊かさでもない、「はたらく」を問い続けるというソフト面やコンテンツを置くことで、「こんな場が欲しかった」と思ってもらえるんじゃないかと信じています。

この組み合わせに興味があるというひとには、ぜひともWasei Salonに参加してみて欲しいなと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。