先日、ブログに書いた「いま一番書きたいことを書いたほうがいい理由」という記事。


読んでくれた方やVoicyで聴いてくださった方、それぞれに深く受け止めてもらえたようで、みなさんからの反響も大きく、本当に嬉しい限りです。

そして、Wasei Salonメンバーでもあるノマさんなども、すでにその内容を実際に実践してくださっていて、ご自身のスタエフでとっても大切なことを配信されていました。

まさにこのような循環が生まれてくることが、僕がWasei Salonの中で日々ブログを書きつつ、それをVoicyでも配信し続けている理由でもあります。

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とはいえ、言葉では簡単に「いま一番伝えたいことを伝えよう」と言えたとしても、「それを書きたいけれど、書けないんだよ!」ってことでもあると思います。

そんなときには一体どうすればいいのか。

変な話ですが、書けないときは「書けない」ということを素直に、そして正直に書くと良いと思うんですよね。

今日一番に伝えたいメッセージもここにありますし、これからのAI時代にはここが非常に大事になってくると思っています。

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この点、自分が何か明確に感じ取っている、でも感想を書くのが、めちゃくちゃむずかしい場面って、誰しもが体験したことがあるかと思います。

自分のなかには確かにその”何か”は存在するのに、と。

このような状態って、これまでだったら見て見ぬふりをされてきたというか、諦めたり無視されてきた。少なくとも外には発信されなかった。

それよりも、よりわかりやすいことを書いて、そちらのほうを伝えようという話だったかと思います。

でも、そうやってハッキリと言語化できることって、もうAIで簡単にできることでもあるわけですよね。

そして、言語化できないということは、最初からそもそもAIに書けることではない。

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人間の役割はむしろ、その言語化がほぼほぼ不可能なこと、でも確かにここに何かがあると思う場所、その周辺をぐるぐると彷徨うことしかできないし、それこそが、人間だけにできることでもあると思うのです。

ぐるぐると周囲をまわることで、逆説的にメッセージを発信することは、人間にだけしかできないわけだから。

で、きっとこれからは、こここそが、とても重要な部分になることは間違いないと思うのですよね。

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村上春樹さんも『職業としての小説家』の中で似たようなことを書かれていました。

村上さんは、戦争も革命も体験していない自分には書くことがないのではないかと悩んだ末に、「これはもう〈何も書くことがない〉ということを書くしかないんじゃないか」と気づいたそうです。

「書けない」ということを逆手に取って、それを正直に書くしかない、と。

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これは、とても共感するお話で、ありあわせの材料の中で、僕らは言葉を丁寧に紡いでいくしかない。

とはいえ、その作業がむずかしいし、非常に苦しいわけです。

この苦しさからひとは逃れたくて、余計に、わかりやすい言葉や論理、経済的なメリットや言語化を担ってくれるAIに頼りたくなってしまう。

つまり、ありとあらゆる苦しさから開放してくれそうな甘美な言葉や仕組みに、すぐに自らのいちばん大事なところを簡単に明け渡そうとしてしまう。

そしてひとは、それを古くから「悪魔の誘惑」と呼んだのだと思います。

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で、なぜ今日、こんなことをうだうだと書いているかと言えば、まさに僕が今そのような状況にいるからなんですよね。

昨日まで、長野県の中川村にあるnagareの新しい宿、Log・nagareに行ってきました。

ログハウスを基調とした、非常にnagare的な空間で、とても素敵な空間でした。

そして、そこで得てきたこと、感じてきたことを今ものすごく書きたいのです。

一緒に泊まったWasei Salonメンバーのみなさんや、この宿のオーナーである石川さんと、本当にかけがえのない時間を過ごすことができて、たくさんのものを受け取った。

「ああ、これが大切だ!これを書きたい」といま強く感じていること、その面影みたいなものが、自分の中には確かにあります。

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でもじゃあ、現地で実際にやったことと言えば、BBQをして、焚き火して、花火して、スイカ食べて、夜遅くまでメンバー同士で語り合って、本当にわかりやすく夏旅を満喫してきたような状態です。

その体験はどれも本当に素晴らしくて、それだけでも行く価値はあるとは言えるのですが、僕がいまここで書きたいことはそういうことじゃない。

ここに、他のエリアの一棟貸しの宿とは異なるものが存在し、雲泥の差があると思っているのに、それを言葉にすることができない。

具体的には、nagareだけに流れている時間とは何か。Wasei Salonの合宿としての価値とは一体何か。

それを今いちばんに書きたいのに、それはうまく言語化することはできないで苦しんでいるわけです。

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だから、この記事も、何度も書いては消してを繰り返しています。

そして、言葉にはならないけれど、言葉にすることを諦めてしまうのではなく、書けないときは、書けないということを素直に、正直に書くことが大事だなあと思ったんですよね。

なぜなら、繰り返しになりますが、こちらのほうが間違いなく価値のあるものになると強く実感しているから。

そして、それが世の中のありとあらゆるわかりやすい言説に流されない秘訣でもあるかと思っています。

自己の確かな体験を頼りにしながら、言葉にならない言葉の中に、大切な何かがそこにあることを認識して、その周辺を積極的にうろうろしてみること。

その輪郭や面影に、なんとか触れてみようと努めてみること。

そこに、アンカーを下ろしていく作業が、これからは必要不可欠だと感じています。さもないと、AIがつくったわかりやすいものにドンドンと流されてしまうから。

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で、今かろうじてここで一つだけ言えることは、今回の合宿においては全員が場を良くしようと、そこには敬意と配慮と親切心の循環が、いつにも増して存在していたことは大きかったなあと思います。

そして、全員がそのような文化感をそれぞれの解釈やスタンスのもとで、それぞれに大切にしようとしてくれていた。

そこに、何か具体的に求められている立ち振る舞いがあるわけでもなく、自分には一体何ができるのか、それを全員が自分なりに考えて関わってくれていました。

しかもそれは何か能動的なアクションではなく、私は何を受け取ることができるのか、という「聴く」や受け取る態度から始まる姿勢です。

さらに、今回は新メンバー、新しい世代として、大学生のわたちゃんさんが入ってくれたことで、より活性化していた気がしています。ちゃんと次の世代にも、そのバトンリレーが続いている感じも強く味わえました。

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そんなふうに、わからないなかで、それでも今回の僕が確かに感じ取ったひとつの希望というか、僕が今回のnagareの体験を通して強く感じたのは、「周囲を信じること」だなと思いました。

その場にいるひとりひとりへの信頼。

言い換えると、自分自身ですべてを言葉にして、ブレイクアウトする必要はなくて「自分じゃなくてもいいんだ、パスすればいいんだ」って思えたこと。

今回も、それぞれのメンバーの持ち味から出てくる思わぬ言葉ひとつひとつに、「なるほど!」という場面もたくさんあった。

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そして「その手触り感なら自分も確かに知っている、私もそれが大切だと思っていた」という方たちと一緒に、そんな状態を静かに着実に広げていけばいいんだなと思ったんですよね。

冒頭でご紹介した、ノマさんの配信なんかもまさにそうだなと思います。あくまで僕は、そのきっかけを与えたにすぎなくて、本当に突破してくださったのは、ノマさん。

それが、僕を含めて、他のメンバーの心も強く打つわけです。それがまた誰かのいま一番伝えたいことを伝えようとする勇気にもつながり、その勇気がまた思わぬ形で他の人々へと伝播していく。

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それを言語化はできない、でも確かにそれはここにある、いやここに”いる”、という存在自体のまわりをグルグルと彷徨うことで、確かに共有できるようになるんだろうなあと。

これはAIには不可能で、人間だけができることだと思います。

つまり、今日何が言いたいのか、その結論を述べると、僕らは美しく言語化された言葉だけでなく、その面影のような輪郭だけであっても、ちゃんと深くつながれるし、共にいられるし、相手への信頼やそこから確かなものを獲得できる。そこにこそコミュニティの「文化」も生まれてくる。

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次の時代に人間が行うべきは、コレなのだと思います。

全然うまく書けた自信はないのですが、2日間の合宿の実体験を通して、これがいまとっても大切なことだと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。