昨日配信したF太さんがゲスト会のVoicyのプレミアム配信では、ド直球に「スピリチュアル」の話題について語ってみました。
内容としては、だいぶ攻めた内容になったかと思います。
この配信の中で僕は「これからはもっとスピリチュアルに興味がある人たちに向けて語りかけてみたい」という話をしました。
ただし、そのド真ん中に行きたいわけではない。あくまでスピリチュアルの「いちばん端っこ」にいたいのだ、と。
立ち位置はこれまでとは変わらないけれど、語りかける“向き”を変えたい、という感覚がいま非常に強いです。
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僕自身、もともとはブロガー出身で、社会人になってからずっとインターネットで情報発信をしてきた人間です。
また、ここ数年で、人文や哲学、文学にも強く興味を持つようになりました。
今のインターネット上には、リアル社会と同様「人文・哲学系界隈」のコミュニティができていることも知っていますが、でも正直なところ、そこに集まる人たちに対して、あまり関心は持てない。
むしろ僕が気になるのは、「哲学」とか「教養」と言われてしまうと自分には関係がないと思うタイプのひと。
「批評家」「哲学者」「臨床心理士」などの肩書きを見た瞬間に、急に距離を感じてしまうひと。
でも、考えることは好きだ、というタイプの人たちに語りかけたいんですよね。
そういう人たちに向けて、肩書を持たない僕だからこそ、そのような本の中で語られていることを少しだけ薄めて、できるだけわかりやすく伝え、考える楽しさを共有し、共に問い続ける場をつくりたいなと思っています。
詳しくは、昨日のプレミアム配信を直接聴いてみてください。Twitterで頻繁にバズっているF太さんと共に話していたからこそ、お互いに共感できた話も多々ありました。
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じゃあ、それは具体的には一体どんなひとたちなのか。
昨日、F太さんに聞かれて、僕はうまく答えられなかった。インターネットが好きな人たちっていう言い方も生まれてきたけれど、それって結局どんなひとたちなのか。
強いて言えば、ずっと僕のブログやVoicyを聴き続けたり、Wasei Salonに参加したりしてくれているひとではあるのだけれど、それは結果論で。
じゃあ、漠然と「考えることが好き」「自ら問うことが好き」というそんな具体的な潜在層は一体どこにいるのか。
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最初は、漠然と「小説を読むひと」かなと思いました。でも、それだと少しハードルが高い気もします。
Podcastやオーディオブックを日常的に聴く習慣があるという人も当てはまるとは思いつつ、まだまだ全体のパイ自体が少ない。
そうではなくて、僕が今いちばんイメージしているのは、普段忙しくて本を読む時間はないけれど、それでも、映画だけは毎月1回程度は映画館に足を運んで観るひと、特に近年の邦画を観ている、そんな人たちです。
というのも、最近の若いひとたち、特に感度が高いなと思うひとはちゃんと映画を観ているなと思います。
僕らの若い頃よりもさらに映画館で映画を観ている印象。
映画館は、最後に残った数少ない「物語(真っ赤なウソ)にどっぷり浸かる場所」のひとつになっているのかもしれないなと。
「いや、劇場やライブ会場のような場所もあるだろう」と思う人もいるはずで、それはたしかにそのとおりです。
でも、あっちはどちらかといえば祝祭空間に近い。非日常を味わうための空間です。
その場で語られている「大きな物語」に、自分自身を同化させる快楽を味わう場だと思います。
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でも映画館で観る映画は、違う。
よくも悪くも、そこに一定の距離感がある。
そこで語られている大きな物語に同化はしなくてもいい。あくまで距離を取りながら眺めることができる。
劇場やライブのように手拍子やコール&レスポンスをすることもない。むしろ、それができないこと自体が、映画館の魅力なのかもしれません。
「没入はしたいが、同化はしたくない」という感覚を持っている人は、間違いなく潜在的に多く存在している気がします。
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で、そんなことを漠然と感じ取って、ここ数年は僕自身もだいぶ意識的に、映画を観ています。
最近も、映画「愚か者の身分」を観てきました。
この作品は、闇バイトにハマってしまう若者たちが描かれている作品。そこから転じて、いわゆるなヤクザものの映画。
ほとんど新宿歌舞伎町が舞台で、お金は全然かかっていない作品なのだけれど、評価が高いのも納得で、素直におもしろかったです。(ちょいグロ注意だけれど)
で、何がこんなふうにおもしろいと感じさせるのかなと思ったのだけれど、監督が永田琴さんで、女性であること。つまり、女性がつくるヤクザものの映画。
大河ドラマ「べらぼう」を観ていても思うけれど、監督や脚本に女性視点が入っていて、そのうえで闇社会・裏社会を描く作品が最近増えていて、そこにはまた、これまでとは異なるタイプの「救い」が描かれてあるなあとよく思う。
従来の男性監督作品にはなかったカタルシスが、そこにはある。
それは、制度的・社会的にきれいに救われるというような終わり方ではないかもしれない。それでも「たしかに、ここには救いがあった」と観客に感じさせてくれる何かがあるわけです。
その“救い”には、どこか慈悲のようなものが漂っていて、女性ならではの視点で描かれている気がします。
このあたりが、本当に勉強になるなと感じているし、これがどこか宗教的だし、スピリチュアル的でもあるなと。
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この点、最近読み終えた内田樹さんの『新版 映画の構造分析』の中に、とても印象に残った指摘があります。
内田さんは、あらゆる芸術作品は「それについて語られた言葉」まで含めて初めて作品として成立する、と言います。
そして、僕たちが作品について語ることによって、その作品に「付加価値」を与えているのだと。
小説を書くとか、油絵を描くといった創作には基本的に単一の「作者」がいる。
でも映画は、エンドロールを見ればわかる通り、とんでもない数の人たちが制作に関わっているわけです。
あのしつこいほどの「関係者名の列挙」は、「これは一人の作者ではなく、多くの人の手による作品なのだ」という宣言でもある。内田さんは、そんなふうに映画を「集団の創造」と捉えていました。
そして、作品について語る批評記事や動画、読書会や感想会などの営みも、その「創造」の一部なのだと語るのです。
この視点は、完全に目からウロコでしたし、たしかにその通りだなあと感じました。
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だからこそ、映画を楽しむ習慣があるひとたちに対して呼びかけて、もっと映画を共に味わう場を増やしたいなと思いました。
(決して監督や映画史に詳しい「映画オタク」が来て欲しいという意味ではない)
本は頻繁には読めないけれど、映画館にはなぜか足を運んでいるというひとたちに対して、もっともっと積極的に呼びかけてみたい。
先ほどご紹介した『愚か者の身分』のような実存的な問い、そのさきにある「救い」に対して直感的に向き合おうとする人たち。
そしてその物語を通じて「物語る自分」を発見するひとたち。
そのひとたちと共に、対話する楽しさ、それぞれに考えたり問い続ける楽しさを改めて提案してみたいなと思うのです。
なぜなら、映画自体がそのような共同作業、いちばん余白があるコンテンツに思えるからです。そして誰もが触れやすいし、本のように能動的に読み込む必要もない。
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最近、映画を観たあとは翌日に必ずYouTubeでノーカット版の舞台挨拶を観てしまいます。
いい舞台挨拶は、短い時間の中で、この映画で描かれていたことは一体なんだったのか、という本質観取みたいなことが俳優陣の間で行われていることが多いなと思う。
最近観た映画の中に『平場の月』という作品もあるのですが、そこで主演の堺雅人さんが、本当にすばらしい物語の解釈を提示されていた。
ネタバレになるので詳しいことは書かないですが、「あー、これこそ小説を書いた原作者も、映画監督も気づいていなかった、でも間違いなくこの『平場の月』という作品で無意識に描かれている主たるメッセージでもある」と感じました。
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僕ら観客も、その作り手のひとりになれる創作物、それが映画。
そこに、あやかる余白があるということ。
真の祭りというのは、意外とこっちのような気もしている。逆に、ライブ感溢れる場所で「大きな物語」に巻き込まれていくということは、意外と危うい。
どれだけ感動的であっても、というか感動的であるからこそ、ものすごく危ういなと同時に思います。
そこでおこなわれる陶酔行動に対して自覚的に参加するならまだしも、大抵の場合、そのような感動や涙は抗いようのない興奮と共に襲ってくる。
この陶酔と中毒性(恍惚感)こそが、人類史上、何度も繰り返し取り返しのつかない悲劇を起こしてきたことは、歴史のなかでも、何度も証明されてきたことでもあるはずです。
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だったら、映画的な没入のほうを大切にしたい。
決して、大きな物語と自らを同化させないこと。むしろ、そこから意識的に分離する。
そして、その物語を通じて、それぞれが自らの物語を再解釈して、自らの再出発のために「物語る私」と向き合う勇気を与えてくれる作品との出会いを大切にしたい。
同じ色に染め上げようとしてくる劇場的祝祭空間から距離を取り、自らの色を再確認する。それこそが、物語る自分の価値なのだと思います。
結局は同じように、観客席から対象を眺めているのだから、紙一重だと思われるかもしれないけれど、僕はこれは完全似て非なるものだと思っています。
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そして、そこで興味が湧いてきたら、次は「ながら聴き」で構わないから、オーディオブックなどを架け橋にしながら映画の原作にもアクセスし、読書習慣をつけてみて欲しいなと感じます。
それは、学びとか教養とかそういう堅苦しい文脈ではなくて、「より自分にとって大切な問いを深めていくため」の能動的な一歩として。
それぞれの一歩を歩みだすきっかけや勇気を得て欲しいなと。
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映画自体を、文化的な「教養」としてではなく、自分にとって大切な問いを深めるための入口として位置づけていきたい。
もちろん、入口と言いつつ映画だけで完結してもまったく問題ないし、その物語を通じて「物語る自分」と出会い直し、そこから出てきた自分の思いを他者と共に対話できる空間をつくっていきたい。
そう考えると、映画って今とても大切な「媒介(メディア)」だなと思ったので、今日のブログにも書き残しておきました。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2025/11/19 20:20
