僕らは、会社組織における「ビジョン」や「ミッション」という言葉に慣れすぎています。
それゆえに、ひととひととが同じ組織や空間内に集まり、同じ方向を向くためには、ひとつの「焦点」のようなものが必要不可欠だと思ってしまいがち。
でも、本当は「他者と共にいる」という状態を生み出すとき、大切なことは視点を統一することではなくて、あえて意図的にその視点をズラすことなじゃないか。
最近はそんなことをよく考えています。
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というのもこれは、先日、愛媛県の今治市から岡山県の高梁市までを一緒に旅をした、建築設計士・黒木裕行さんに教えていただいて、強くハッとさせられたことだからです。
黒木さんは、株式会社ルーフスケイプの代表をされていて、南は九州、北は北海道まで各地の建築や古民家再生のプロジェクトを手掛けてきた一流の建築設計士さんです。
詳しくはぜひ「イケウチなひとたち。」のインタビュー記事をご覧ください。
手掛けられた京都の伊根にある一棟貸しの宿の写真が本当に素晴らしく、どのような空間づくりをされている方なのか、きっと理解していただけるかと思います。
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今回、岡山県の高梁市では黒木さんがプロデュースされた「町家ステイ吹屋」にお邪魔させてもらい、一緒に一晩を過ごさせてもらいました。
夜遅くまで熱心に語り明かし、そのあと早朝にもダイニングテーブルに座って、何気なく外を眺めながらお話をしていたら、そこから見えるお庭をつくったときの裏話を聞かせてくださって、そのお話が今も非常に強く印象に残っています。
「お庭には、あえて焦点を定めるようなものは置かなかった」と語られていて、その理由は視点がズレていたほうが、ここに泊まるひとたちがきっと居心地が良いはずだから、というような主旨のお話だったと思います。(ちなみに、これはたくさん語ってくださったお話を僕なりにまとめた意訳です)
なんというか、僕はこのお話を聞かせていただいたときに、本当に全身に衝撃が走ったんですよね。
もう、2週間も前に聞かせてもらったお話にも関わらず、毎日のようにこの話を思い出しては、自分の中で繰り返し問い続けています。
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この点、たとえば、日本庭園って見る場所から全然違う味わいがありますよね。
そして、どの地点から、何を見れば良いのかというのは意外とわからなかったりする。
でも、西洋の庭園って左右対称だったりして、明らかに中央や中心というものがあって、それを眺めるための特等席なんかも存在します。
でも、京都や奈良の神社仏閣の日本庭園って、決してそうじゃない。
左右非対称だし、そもそも、1枚の写真の画角ではすべてがおさまらなかったりする。つまり人間の視野におさめきれないわけです。
だからこそ、好き嫌いがわかれるし、実際、海外からやってきた方々がそのような場所を訪れて、フォトスポットを悩まれて、いろいろな確度から写真を撮りながら試行錯誤をしているのを、本当によくみかけます。
そうなることが最初からわかっているから「導線」や「順路」、「撮影スポット」なんかがご丁寧に指示されていたりもする。大体パンフレットで撮られている写真と同じ写真が撮れる位置を、先方のご厚意で明確に示してくれているわけですよね。
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でも本来、日本庭園の場合は、あえてそうやって視点がズレるように設計されているはずなんですよね、きっと。
それぞれの立っている位置や、観ている人間が持ち合わせている価値観や感性によって、焦点がひといひとり異なるように。
決して何かひとつの価値観をそこで押しつけてくるわけではありません。
でも、全員が同じお庭を観て、それぞれの中で感動をし、そうやって同じ空間内に共にいることができるわけです。
決して、眺める場所を奪い合うわけでもない。訪れたみんなで「本当に来てよかったね」と語り合えるわけです。
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で、この話は、前日の深夜の深い時間帯に黒木さんに教えてもらった「春の小川」の話にもきっと関連してくるはずで。
この「春の小川」のお話も、合わせてきっとここでご紹介したほうがいいかと思います。
黒木さんは、「春の小川を想像してみてください、というふうに人々に促したときに、そこに客観的なものは存在しない」と語ります。
それぞれに「春の小川」を想像するときに、それぞれの心象風景が存在するだけだ、と。
これって、実は本当にすごいことなんですよね。
何か完全に同じ客観的なものを想像しているわけではないにもかかわらず「春の小川」というあたかも客観的な存在がありそうなもの、言葉の同一性の中で、みんなが今同じように「春の小川」を想像しているんだと信じることができる。
つまり、客観的な対象は別々でも、僕らが想起する感情みたいなものは一緒だから、春の小川を思い浮かべるという行為によって、ひとは一つにまとまることができるわけですよね。
だから本当はむしろ、その自分の内側から立ちあらわれてくる主観、そこから生まれてくる感情の実感自体が大事なんですよね。
これは、哲学者・苫野一徳さんが、Voicyの中でいつもフッサールの現象学を説明されるときに、話されている内容なんかにも非常に近い気がしています。
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でも、僕らはどうしても、客観の同一性にばかりこだわってしまう。
「これこそが春の小川なんだ!」という「春の小川の写真コンテスト」のようなことを表現や言語を用いて、日々開催してしまっている。
その客観性の統一こそが、人類が共にいるためには絶対に重要なんだと信じ込み、だからこそ、ビジョンやミッションなんかにも執拗にこだわるわけです。
でも、ここまで話してくればわかる通り、実際にはそんなことはないわけですよね。
むしろ共にいることが目的であれば、その焦点というのは積極的にズラしたほうがいいのかもしれない。
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で、話は少し飛躍するのですが、これはきっと「一神教ではなく、多神教のほうが実は人間は共にいられる」みたいな話にも近いのかもしれないなあと思いました。
まったく同じ、ひとつの神を信仰していたほうが、ぼくらは一緒にいられると思いがちです。
だって、それを信仰する者たちは、教義も戒律も一緒なんですから。生きる上で守るべきルールや法律も統一できると疑わないわけです。
でも、実際にはそうじゃないわけですよね。
一神教の国ほど、今も世界で争っている圧倒的な真実が、それを僕らに教えてくれています。
それは焦点(つまり神)をひとつに定めようとするからです。神を眺めやすい席を巡って、彼らは今も必死で争っていたりもするわけです。
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そして、この「焦点をズラしたほうが、ひとは共にいられる」というのは、宮崎駿さんの映画みたいだなあとも思いました。
子どもから大人まで、一緒に楽しめるジブリ作品というのは、きっとそういうこと。
何か明確なハッキリとしたメッセージがそこにあるわけじゃない。観るひとそれぞれに、それぞれがフォーカスできる見どころがある。そのズレにこそ、価値があるわけです。
「千と千尋の神隠し」なんかはまさに文字通りそうですが、画面の中にたくさんの「神様」が存在している。まさに多神教の物語なんですよね。
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今回、黒木さんから、古民家を改装した宿というひとつの空間内、ひとつの世界の中で、僕はそれをハッキリと教えてもらいました。
「こちらを御覧ください」とあまり作為的にならないほうがいい。古民家という空間の中では、焦点は逆に定まらない方がいい。そのほうが、ひとは共にいられる。
繰り返しますが、これが、なんというかものすごく個人的には衝撃でしたし、今、世界全体を生きる上でも、とても大事なことだと思います。
もちろん、コミュニティを運営する上でも、非常に重要なこと。
それぞれが、それぞれのスタンスや立場、考え方によって、その視点をズラすための仕掛けが大切であり、きっとそれっていうのは、何か人為的に仕掛けるものではなく、借景など、何かそういうもっと「自然の力」みたいなものを同時に利活用したときに、そこに無理なく立ちあらわれてくれるんだろうなあとも思います。
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最後に、黒木さんが手掛けられた一棟貸しの宿は、本当にどこも素晴らしい宿なので、ぜひみなさんにも一度訪れてみて欲しいです。というか、みなさんと一緒に合宿で訪れてみたいなと思っています。(↓こちらから一覧を見ることができます)
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2023/12/01 16:12