今日も引き続き、日本人の合意形成やそこから導かれる組織構造について、考えています。

この点、最近読んでいる河合隼雄さんの『母性社会    日本の病理』という本に「場」の概念として、非常に興味深い話が書かれてありました。

河合さんは、中根千枝の名著『タテ社会の人間関係』の話を持ち出しつつ、大学で学生たちと議論をしていると、彼らが「タテ社会」という用語を誤って使用していることにしばしば気づくと語ります。

多くの学生は、この言葉を単純に「権力による上からの支配構造」のような意味で用いがちに見えると。

しかし、これは完全な誤解と言えるでしょうとして以下のように語ります。

少し本書から引用してみたいと思います。(ちなみに97年に発売された書籍です。)

タテ社会においては、下位のものは上位のものの意見に従わねばならない。しかも、それは下位の成員の個人的欲求や、合理的判断を抑える形でなされるので、下位のものはそれを権力者による抑圧と取りがちである。
ところが、上位のものは場全体の平衡状態の維持という責任上、そのような決定を下していることが多く、彼自身でさえ自分の欲求を抑えねばならぬことが多いのである。


そして、この構造が生み出す結果として、日本社会では本当に奇妙なことに「全員が被害者意識に苛まれることになる」と言います。

具体的には、下位の者は上位の者の権力による被害を嘆き、上位の者は下位の若者たちの自己中心性を嘆くのだ、と。

両者ともに被害者意識を強く持っているわけですが、実のところ、日本ではすべての人がこの「場の力」の被害者なのだと、河合さんは語るのです。

この事実は指摘されるまでは、完全に盲点だったなあと感じる部分ではありますが、一旦指摘されると、とても共感できるところですよね。

誰に帰属するわけでもない、この非個性的な「場」こそが、実は「真の加害者」であるというわけです。

それにに気づかずに、人々は互いに特定の誰かを加害者に仕立て上げようと、そんな押し付け合いを演じていると、河合さんは語るのです。

ーーー

そして、「場」の構造を単純な権力構造として捉えた人々というのは、それに反逆するために既存の集団から脱出し、新しい集団を作ろうとするのだとも、河合さんは言います。

ラディカルな左翼思想からオウム真理教に至るまで、もちろん、一般的な大型組織からの分派だって似たようなことは世の中で山ほど起きている。

そのような従来的な息苦しい「タテ社会」から抜け出して、もっと開放的なあたらしい組織をつくろうと夢見るわけです。

しかし、このような「場」の本質的な理解をしていないため、彼らがつくり出そうとする新しい集団もまた、結局は日本的な「場」を作り出してしまうと河合さんは主張します。

これは、日本社会における組織の形成と、その変革の難しさを如実に示しているんだろうなあと、僕なんかは思うんですよね。

だからこそ僕は、昨日も語ったように、日本人が作り出す合意形成の無意識のクセと、そこから生まれてくる「場」自体が持つ力について、その前提から丁寧に考えてみる必要があるなあと思うのです。

ーーー

で、この文脈を読みながら思い出されるたのが、社会学者の大澤真幸さんによる「無意識の信仰者」についてのお話なのです。

大澤さんは橋爪大三郎さんとの対談本『アメリカ』という本の中で、人間の表面的な行動が、その人間の内面の意識よりも、実は重要であることを指摘してくれています。

その具体例として、アメリカの大富豪によるありがちな寄付行為を例に出しながら「彼らは本当に神の国に救われると信じて寄付をしているのでしょうか?それとも、道徳的評判を高めるための戦略的な行動なのでしょうか?」と問いを立てたうえで、以下のように語ります。

「俺はいちおう、戦略的にそういうふりをしているだけだ」と言う人がよくいるじゃないですか。「ほんとうは信じてないけど、そのほうが都合がいいからさ」とか。でも人間って、どういう意識をもっているかよりもどう行動しているかのほうが重要なんですね。

「俺はほんとうはそうじてないけどさ」と言いながらそう行動している人は、ある意味でそう信じているんです。

たとえば北朝鮮で、「金正恩なんて馬鹿だと思ってるけど」とか内心で思いながら命令を聞いている人がいるとするじゃないですか。内面の意識よりも命令を聞いていることのほうが社会的な現実をつくっているわけで、その人は、結局、命令を拒絶できなかった、命令に逆らえなかったということのほうが重要です。


ーーー

これは言われてみると、本当にそのとおりですよね。

普通に考えれば、表面的な行動は、内面の劣後に置かれると思われがちなのだけれども、大澤さんの主張はそうじゃない。むしろ表面的な行動のほうが、そのひとの信仰を無意識にあらわしているんだというのです。

この話は、実際に現在の北朝鮮や中国、ロシアなんかを観ていても似たようなことが今この瞬間にも起きているような気がしますよね。

そして、言い換えれば、そのような内面においては別の考えを持つ人々が集まっているからこそ、あのような国々がいまこの瞬間にも顕現しているというふうに言えなくもないわけです。

ーーー

で、この考えは、たまたま同時並行的に読んでいた村上春樹さんのエッセイにも通じるものがあるなあと思います。

そのエッセイが、どんな内容だったかといえば、村上さんがラフな格好訪れた旅館で、とても簡素な部屋に通された。村上さんは意外にもその簡素の部屋が快適だったのに、その次の日に、村上春樹だと旅館側に気づかれて、最終的には豪華な部屋に通されてしまったという体験を振り返りながら、そのときに村上さんが思い出した寓話の話が書かれていたのです。

以下『村上ラヂオ3―サラダ好きのライオン―』という本から少し引用してみたいと思います。

大富豪が貧民に変装して高級レストランに入る話を、その昔読んだ。たしかケストナーの小説だったと思うけど、あまり自信はない。そこは行きつけの店なのだが、変装がうまかったので、正体は見破られなかった。門前払いされると彼は変装をといて「おいおい、実は私だ」と名乗る。でも店の主人は「たとえあなたが誰であろうと、コジキのまねをすればコジキです」と言って追いかえしてしまう、という話だったと記憶している。狂人のふりをして通りを裸で走れば、それはすなわち狂人だ、というのと同じ理屈ですね。いちおう正しい世界観だ。


人は自分の表面的な行動によって判断されるのであり、内面の意識よりも、外的な行動が重要だというようなことを寓話的に語っているわけですよね。

ーーー

僕はこの3つの話を同時並行的に読んでいて、それぞれはまったくバラバラな話だったはずなんだけれど、どうしても、どこかで繋がっている気がしてならない。

階層社会やタテ社会というのは、お互いを「悪いあの人」「かわいそうな私」という構図をつくりだし、上にいる人間も、下にいる人間も、全員が相手のことを加害者認定しながら、常に自分を被害者の立場に置くことに終始することになる。

でも、実際にはそうじゃなくて、外形的な行動こそが「無意識の本質」を表しているんだということなのかなと。

ーーー

で、最後に、昨夜Wasei Salonの中で開催されたドストエフスキーの『悪霊』の読書会の話も同時にしておきたいなあと思います。

https://wasei.salon/events/7496819e21a6

ちなみにこの『悪霊』は19世紀のロシアを舞台に、急進的な思想に惑わされた若者たちの革命運動とその破滅を描いた作品です。

登場人物は、それぞれが自己を理性的で知性的だとみなしているのですが、この本の主題でもある「悪霊」というメタファーがまさに不吉な暗示をするわけです。

それは、自分たちは理性的で知的な行動をとっているつもりでも、そのような「場」には「何か」が宿ってしまうということなのかもなと。

ドストエフスキーが言いたかったのは「神」や「悪魔」といった概念というのは、このような「場」にこそ、宿るんだということだったのではないかと僕は思う。

ーーー

多くの人は、理性的に行動し、表面的に行動しているだけであって、心の中では批判的な態度を取っているから、自分は大丈夫だと信じ込みがち。

でも、そのような態度、「自分は他の人々とは違う」と全員が思っているときにこそ、何よりも構造の強化につながって、悲惨な状況を招くその一番の原因となるんじゃないかと思います。

でも、当事者の本人たちには、その自覚はまったくないわけです。

なんならそのような状態を一番に憎んでいる。憎んでいるにも関わらず、でもなぜかそこにドンドンと引きずり込まれていってしまう。「場」の持つ力やその構造自体を理解してないから。

それこそが「悪霊」の正体であり、人間はその悪霊には逆らえない。ドストエフスキーはそれが言いたかったのではないかと思うのです。

ーーー

この現象が現代において、最も顕著に表れているのがSNSという空間だと思います。

日常生活ではごく普通の働き人でありながらも、SNS上ではハンドルネームを用いて、自分の中にある善性や、正しい意見を述べ立てる。そして、そのクローズドな空間の中では、自分は特別なんだと感じたがる。

しかし、皮肉なことに、そのような裏表ある行動パターンこそが、実は既存の社会構造をますます強化していくわけですよね。
ーーー

「場」の力に引き出されることの危険性を認識しつつ、どのようにして本当の意味で、より健全で理想的な社会構造を築いていけるのか。

というか僕らは、本当はそれが強化につながると無意識下ではちゃんとわかっていながらも、というかわかっているからこそなお、そのようなアンビバレントな行動に出ているとも言えるのではないかとさえ思います。

僕らがちゃんと気づいていないだけで、そのことに対し警鐘を鳴らしてくれている作家や思想家たちは、歴史の中には、本当に多く存在しているだろうなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。