"ちょうど良い"って、意外と軽やかなものである気がしている。

落としどころというのは、無数に存在していて、決して眉間に皺を寄せて、「ちょうど良いって難しい」と思うものではない。ある程度、グッと踏み込んでみると、自身の中で何か感じるものがある。それを咀嚼していくと、"ちょうど良い"味になってくる。それは束の間の幻想ではなく、発見の喜びが伴う実感のあるものである。

踏み込むといっても、危険を顧みずにアクセルを踏み込むような行為ではない。むしろ、普段の歩行における、足の踏み出し方に近い。近所のスーパーへ買い物に行くとき、家の前の道を歩くような、特に意識をしないような行為であると思う。

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毎日、美味しいものを食べたいとそれなりに思ったりする。だが、どうやらわりと多くの人は、そのためならば、努力を惜しまず、無意識に他者を分断してしまうことに気付く。

食が絡んでくると、なぜか寛容ではいられなくなる人もいる。善意で差し出した食べ物を断られると、怒りを持ち出す人さえいる。各自、好きなものを持ち寄って食べて、嫌いなものは食べなければいい。いらないときは、はっきり断ってもらった方が気軽だ。

「その方が気楽で誰も我慢しなくて良くない?」と思うのだが、そうでもない場面に出会うと、食は儀式のようだと感じる。敵と味方を分けるための儀式だ。

たとえば、ジブリの「千と千尋の神隠し」で、異世界に迷い込んだ千尋に、ハクが「この世界のものを食べないとそなたは消えてしまう」と食べ物を渡すシーンがある。それはつまり、その世界(集い)に存在するためには、そこにいる人たちと共に"食べる"という儀式が必要であるということだろうと解釈している。

儀式が全て悪いのではない。こうして共に食べることで、場に馴染める効用は確かにあるのだと思う。というか、だからこそ儀式としての"食べる"があるんだろう。だが、自分はどちらかというと、「食の暴力性」に目が向いてしまうのだ。多くの人が「食は良いものだ」と思い込んでいるところも少し怖かったりする。意外とみんな食にうるせぇですぜって思っている。

おそらく、そう感じるのは自身の傷が、食とともにあるからだと思う。だが、その傷を克服するものだとは捉えていない。同時に、食の暴力性だけを見るようなこともしない。食を捉えることは、人間性への探求に繋がると思えるときもあるからだ。その上で、なぜだろうと思うことも多い。

たとえば、自分はチーズが嫌いだが、どうしてチーズが好きな人は「こうして食べてみたら美味しいかもよ」と、克服するように押し付けてくるのだろう。なぜか他の食べ物より、チーズ好きに限ってそんな気がする。あらゆる料理にチーズは"良かれと思って"乗っていたりするのも不思議だ。自分からすると、机を齧りながら「この角の部分が美味しいんだよゲヘヘ」と言われるぐらい、チーズは口に入れるような物体ではないので、まぁまぁ落ち着いてくれって思う。

この例だけで思ったのではないが、ある程度は放っておいてくれる有り難さを逆説的に感じたりすることが増えた。

上手い、下手ではないと思うが、人を見守るのが上手だなぁと思う人は、その相手に対して、毎回目に見える反応はしない。簡単に共感もしない。おそらく、過度な共感をしがちな人は、それが反転して簡単に排除へと繋がると知っているからだろう。

もしかしたら、その都度何かしらの活動を見ていたりするかもしれないが、適度に現れて関わっていき、また去っていく感じがある。それこそ、とても軽やかな"ちょうど良さ"だと思っている。

自分がこうして食に言及してみるのも、グッと踏み込んで違和感を表明してみて、そこからの落としどころを探るプロセスの途中であるのかも知れないとふと思う。

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最近、「嫌いでも仲良くできることもある」という話を聞いて、そのときは「いや〜そうか〜そうですよねぇ」と思っていた。だが、数日経って、じわじわと世紀の大発見をした気分になっている。真理なんてないと思いつつ、「これ真理じゃねぇか?」と脳内と実際の道をうろうろしている。

差異はある一定のラインを超えるまでは、もどかしく激しい拒否反応を抱くが、そこを超えてしまうと、なんだか可笑しみが生まれてくる。それこそ笑いであり、ユーモアの希望でもあると思う。

たとえば、「こいつ嫌いやなぁハハハ」と思えたとき、ちょうど差異がユーモラスに思えてくるラインに乗っかってくる感じがある。

どういうときかというと、話半分に聞いていたときである。嫌いでどうでもいいから、話半分に聞くのではない。とある側面に触れて、どうしても嫌いだと感じたとき、そういった自身の感覚は尊重する。ただ、同時に、文脈を全て把握できるとは限らないという意図を込めて、話半分に留めて聞いておくのだ。そうすると、そこに余白が生まれる感じがある。余白はユーモアを生み出しやすい。なぜか笑えてくることがある。

恐れはどこまでも付いてくる。疑心暗鬼は、その人の固有の傷によって立ち現れてくるものだろう。そういったものが、嫌いという感覚を形作ったりする。だからこそ、それらをなくすのではなくて、柔らかくすることはできると思うのだ。

つまり、それは"鈍さ"でもある。感覚を研ぎ澄ませて、全てを鋭くしていくことが、創作または生きることにおいて、正しいとは限らない。ただ、どうしても鋭さをもって、物事を捉えたい場面はある。だからこそ、鈍いからこその光は、きっと余白のあるものだと思うのだ。その先に、"ちょうど良い"落としどころがあるんじゃないかと思う。

今はフィルムに熱中しているが、何がそこまでそうさせるのか、今だにわからない。だが、フィルムに関することが、どこかでこの"鈍さ"という感覚につながっていく予感がしていて、とても楽しみにしている。

恐れは想定外に陥ったとき、自身の素直さを覆い隠そうとする。だけど、いつだって、ままならないまま、時間は流れ、はたらき、ぐるりと旋回するように生きていく。人々は螺旋のような軌跡を辿る。孤独も同じではないか。孤独という螺旋を巡って生まれた言葉は、剥がれ落ちるように書きつけることで、恐れや人々と共存していく道を紡いでいくのだと思う。「ままならず螺旋する」は、はたらくことと書くことを繋げる自身の試みであり、恐れや人々と共に生きていくための探求の記録である。


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中判フィルムカメラを手に入れて、使い始めてみると、「あぁこれは一生付き合っていくものだ」と思った。現像の結果もそうなのだが、撮る際の体験が変わるので、それがとにかくおもしろい。そして、奥行きがあるというか、中判で撮られた写真から感じる広さはなんなのだろう。単に技術的なことではない、もっと感覚的な話だ。この辺も撮り進めながら、もっと言葉を尽くしてみたい。