Zoom会議において、カメラをオンにするのか、オフにするか問題。これはとってもおもしろい意見対立だなあと思います。

もちろん、どちらが正しいとか間違っているとかの話ではない。

そのうえで、日本人の合意形成の仕方について、その前提をちゃんと理解しておくことが大切なんだろうなあと僕は思います。

今日はそんなお話を論じたうえで、自分のスタンスについて改めてこのブログにも書いてみたいなと思います。

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この点、とてもわかりやすい話をしてくれていたのが、過去に何度もご紹介してきた社会学者・橋爪大三郎さんの『4行でわかる世界の文明』です。

この本は、世界の文明のもとになっている宗教を4行で説明してみようというとても意欲的な書籍。

そして以前もご紹介したように、世界の主流の文明は、すべて4行で説明できて、最後の1行だけが異なる、と。

1.まず、自己主張する
2.相手も、自己主張している
3.このままだと、紛争になる
4.〇〇〇〇なので、紛争が回避できる


そして、それぞれの宗教の4行目におけるスタンスは、

[西欧キリスト教文明]…「法律」があるから、解決する。
[イスラム文明]…「イスラム法」があるから、解決する。
[ヒンドゥー文明]…真理のもと「別々の法則」に従っているから、解決する。
[中国儒教文明]…「順番」が決まっているから、解決する。


以上のようになります。

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で、そのなかで4行のすべてが異なる、異例の国があると語られています。

それはもうおわかりだと思うのですが、僕らのこの国・日本なんです。

じゃあ、日本人はどのような宗教観をもって。紛争解決を行っているのか。

4行であらわすと以下のような形式になるそうです。

(1)自己主張する前に、まず相手の様子を見る。
(2)相手も、同じことをしている。
(3)このままでは、何も決まらない。
(4)そこで、みなで話し合って、決める。


これは、自分たちがまさにその当事者なので、とてもよくわかりますよね。

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じゃあ、なぜ日本人は自己主張はしないのか?

日本人も自己主張したい気持ちも、やまやまであって、自分の希望するように、ものごとが進んで行ってほしい、と切実に思っている、それでも、自己主張をためらう。それは、自己主張することが、危険だと考えているからだ、と橋爪さんは語るんですよね。

「自己主張をすれば、人びとから突出して目立ってしまう。ほかの人びとと横並びでなくなるから危険」だと。

「自分のことだけを考えて、周りを考えない、無神経な人間だと思われる。格好の攻撃のターゲットとなる。かえって自己主張が通りにくくなってしまう。それよりも、誰がどういう自己主張を持っているのかということの様子を先に見るほうが賢明だと日本人は考えているんだと、橋爪さんは語るのですよね。

このあたりは、会社や何かしらの組織の会議を思い出してみれば、すぐに誰もが思い当たるフシがあると思います。

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そして、このような態度は、さらに掘り下げれば「自己主張しなくても、結局は誰かが自分のことを配慮してくれて、自分の主張は(いくぶんなりと)聞き入れられるはずだ」という想定が、暗黙のうちに隠れている、ということでもあるのだと。

橋爪さんは、このような日本人のスタンスに対して、はっきりと「甘いと言えば、甘い。」と語ったうえで「こんなことが、世界で通用するはずがない。けれども、日本では通ってしまう。むしろ最適戦略であったりする」と語っています。

日本人としては、本当に耳が痛くなるような話ですが、実際に本当にそのとおりですよね。

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じゃあ、これらが前提となったうえで、会議はそのあとに一体どのように話が進んでいくのかと言うと、その黙っている状態に対して「みなさん、どうしましょうか。」とメタレベルで発言をする仲介者が現れると橋爪さんは語ります。

そして、それに対して、みんながホッとして、少しずつポツポツと発言をし始める。

そのひとの導くままに一通り話し合いが進んだところで、仲介者がまた以下のように切り出す。

「みなさんの考えもわかったところで、それでは、こういうことで行きたいと思いますが、よろしいでしょうか?」そう言いいながら、話し合いに参加している人びとを見渡すのである、と。

で、この「見渡す」という作業が、今日の話の一番のポイントです。

つまり、参加者がお互いに、お互いの顔を観ていることが、とても大事なわけですよね。

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じゃあ、そうすることで、「みなさんの考え」は本当にすべて明らかになったのだろうか?黙っているのは、同意したからなのか?と橋爪さんは問いかけます。

本書から少し引用してみたいと思います。

黙っているのは、同意したからなのか。「こういうこと」に、賛成なのか。そうではない。反対しないほうがよい、と思っているだけだ。 なぜ、発言しないのか。なぜ、質問しないのか。なぜ、異論を言わないのか。それは、自分の立場を悪くしないためである。 (中略)そこでみな、黙っている。すると、仲介者が念を押すように言う。よろしいですね。では、こういうことでよろしく。こうして、「こういうこと」で決まったのである。こうして、「4行モデル」の「みなで話し合って、決める」が完了する。


こうやって最終的な「落としどころ」を決めようとするのが、日本人なんだと本書の中で語られてあって、僕はめちゃくちゃ強く膝を打ちました。本当にその通りだなあと感じます。

そして、お互いの顔を見渡せるなかで「相談」をちゃんとしたという既成事実をつくって「まあまあみなさん、中取って」という決め方をして前に進めていくのが日本人。

そのためにお互いの「顔」が見えていることが、とても重要になるんですよね。

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そして、僕がこの本を読みながら、真っ先に思い出したのは、民俗学者・宮本常一の『忘れられた日本人』の中に出てくる「対馬にて」の話です。

具体的には、著者である宮本常一が、村に伝わる1冊の古文書を借りたいと申し出た場面においても、わざわざ船に乗ってまで、村の人々が集まってきて顔を突き合わせて、何時間も何日も村の寄り合いで集まって話し合う。

そのときにも、別に議論をするわけではない、なんならまったく関係ない話をしている時もある。でもそうやって顔を合わせて、相談をするのが村のしきたりであって、都市からやってきた宮本常一は、この様子をみて困惑してしまったという話です。

先月放送されていた『100分de名著』がちょうどこの『忘れられた日本人』で、この「対馬にて」もしっかりと解説されていたので、ぜひ気になる方は番組を観てみてください。畑中章宏さんが、ものすごくわかりやすく解説をしてくれています。


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日本人にとっては、このような寄り合いがとても大事なんでしょうね。繰り返しますが、これは議論でもないし、会議でもない、あくまで相談なんです。

で、その相談をなぜ行うかといえば、日本特有の4行モデルを忠実に再現するため。

それをくだらない、つまらないものだと捉えて、欧米的に立ち振舞うことももしかしたら大事なことなのかもしれないし、外資系企業なんかは、まさにそうやって「日本人」を変えようとしていくるわけですが、でも、本当の意味で日本人にそんなことができるのか。それが一番大事な視点だなあと思います。

言い換えると、日本人の4行の態度は、一体どれぐらい長く続いてきたのか。それを考えると、これはちょっとやそっとじゃ変わらないだろうなと僕は思います。

少なくとも僕らが生きている間においては、変わらないと思う。

だって、何度も変えようとしたにも関わらず、それは変わらずに、残り続けてきてしまった習性なんだから。

明治維新でも、敗戦でも、そして事実上アメリカの植民地になっても、これはなくならなかった。これがなくなったら日本人ではないという日本の気質そのものでもあるということなんでしょうね。

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で、だとしたら、ですよ。

最初の話に戻って、Zoom会議のカメラオン・オフ問題においても、なぜ日本人が顔出ししなければ会議ができないのか、とてもよくわかると思います。

その「会議」の本質は「相談」であり、相談はお互いが何も発言しない中でも、お互いの顔を見渡して、暗黙の了解において「落としどころ」を決めることに価値があるんだから。

この日本人の会議の本質がわかっている人は、顔を出してちゃんと反応せよ!ってガン詰めをするわけです。そうじゃないと、日本人同士では会議をしたことにならないから。

一方で、顔出しは無価値だと思っている人間は、あくまでお互いの意見を主張できると思っている人間であるという前提のもと「顔なんて出さなくていいですよ、面倒くさいだけだし」と寛容に振る舞うわけですよね。

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でも、そうしてしまうと、どちらも日本人にとっては不都合極まりないということは今日の内容からもきっと理解してもらえると思うのです。

だから、本当に大事なことは、「顔を出せよ!」ってガン詰めするわけでもなく「顔なんて出さなくていいよ!」と寛容になるだけでもなく、どうしたら日本人の合意形成の形式に合わせた場を丁寧に作り出して、そのうえで能動的に顔を出したくなるかを、考えることが大切なんだろうなあと思います。

顔出せよ!という圧力に対し、もう若い人たちはついてこない。だって、そんなことしなくても、食うには困らないぐらいの仕事と居場所は、インターネット上をはじめ、いくらでもあるのだから。

とはいえ、そんな新しいテクノロジーや若い世代に迎合した形で「顔なんて出さなくていいですよ」としてしまうと「なんで会議の決定が蒸し返されるんだ、毎回いいところまで進むのに、なんで最終的には空中分解してしまうんだ」と頭を抱えることにもなりかねない。

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ゆえに、その両方の弁証法的な発展を目指していく必要があるんだろうなあと思います。もちろん、Wasei Salonが目指しているのもこのスタンスです。

日本人の合意形成のかたちに合わせた場を丁寧につくり出して、そのうえでメンバーがいかに能動的に顔を出したくなる環境を作り出すのかが大切。

そもそもきっと、日本人は「何かを意思決定して、話を前に進めたい」なんて根本的には思っていないんでしょうね。資本主義的な会議の末に生まれてくる経済的発展に、それほどの愉悦感や恍惚感を感じていない。そういう価値基準で外国が攻めてくるから、それに合わせているだけで。

それよりも「和を以て貴しとなす」という「手段の目的化だ!」と西洋から揶揄されてしまいそうなことが、なによりも一番の生きがいに感じている民族なんだと思います。四季の巡りなどを通じて、歴史は進むのではなく、ただ巡るだけと直感的に理解しているからなんでしょうね。

これはまた別の文脈で話がずれてしまうので、また別の機会に書くことにします。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。