昨夜、Wasei Salon内でドストエフスキーの『白痴』第2巻の読書会が開催されました。

『カラマーゾフの兄弟』から続いて、1巻ごとに丁寧に読書会を開催している連続シリーズになります。

ただ、この第2巻が、ビックリするほにどつまらなかった。

僕は文字は追うことができても、正直ストーリーさえ追うことができていなかったと思います。あまりにも内容が退屈過ぎて。

自分だけかなあと思って巻末の読書ガイドを読んでみると、以下のような記載も書かれてありました。

「第一部は完璧だが、第二部には、若干、 辟易させられるところがある」


もし、Wasei Salonの中で読書会が開催される予定がなかったとしたら、僕は決して最後までこの本を読み終えることができなかったと思います。

ゆえに、どんな読書会になるのか、当日少し不安でもありました。

でも、実際に読書会を終えてみると、これまでの読書会の中で一番楽しかったと言っても過言ではないぐらい、充実した読書会だったように思います。

その理由はなぜなのか。

今日は、改めてこのブログの中で、それを丁寧に言語化してみたいなあと思います。

ーーー

この点、この読書会に参加したみなさんも、本書はつまらなかったというご意見でした。(自分だけではなかったことに少し安心した)

そのおかげもあって、一体何がつまらなさの源泉だったのかを改めて、みなさんと一緒に考えることができました。

で、これは普段からよく思うことなのですが、本に限らず、映画でもトークイベントでも、つまらないものは「そのつまらなさとは何なのか」その正体を深掘りするときのほうが、自分の中で、学びや発見は段違いで多かったりするんですよね。

一般的に、サンクコストを説明する際の事例のときに、つまらないと思った映画を途中で映画館から退出できるかどうか、そこを損切りできる人間が優秀な人間だ、みたいな喩え話がビジネス書ではよく語られますが、あれって本当に馬鹿げた話だなあと思います。

僕はその行動が、一番人間として成長できないことにつながってしまうと思っています。

そんなときほど、この漠然としたつまらない感覚とは一体何のなのか、

この「入り込めなさ」は何かを徹底的に観察したほうがいい。そのほうが結果的に人間としても成長できる。

ーーー

この点、先日もご紹介した養老孟司さんの自伝本「なるようになる」という本の中にも、似たような話は語られてありました。

ここで少しだけ引用してみたいと思います。

面白い本はもちろん、つまらない本でも、「なんでこんなつまらないことをわざわざ書こうとしたのか」を考えながら読む。それは今だってそうです。だって、そうしなきゃ丸損じゃない、ゴミでも活かせるものは活かす。転んでもただじゃ起きない。その精神はありますよ、いつも。     そもそもゴミみたいなものだと思っても、それをどう料理するかはこっち次第でしょう。そこなんだよ。カッコ良く言えば、自分を育てるためにはつまらないことも活かすことが必要です。     だいたい世の中って、くだらないことが多いから、それをただくだらないと言っちゃうと、ないことになっちゃうでしょう。でも、世の中には、くだらないことがあるんだから、それを見落としちゃいけない。バカらしいことでも、バカらしいなと思いつつ、あるものとして受け取るしかない。そう思っています。


これは僕も本当に同意です。

この視座というか、スタンスを持ち合わせているかどうかによって、人生の総合的な充実度みたいなものは本当にガラッと変わってくる。

映画館のように、途中退出できる権利がいつも自分にあればいいですが、そうじゃないものだってこの世の中には山ほどありますからね。

ーーー

また、世の中のコンテンツのおもしろい理由というのは、いつも大体一緒なんですよね。

よく語られるような話で言えば、ジョーゼフ・キャンベルの「神話の法則」や「千の顔をもつ英雄」のような話で、おもしろい英雄物語のパターンというのははっきりしている。

『スター・ウォーズ』から韓国アイドルのBTSの成功物語まですべては、大体一緒です。

でも、つまらない理由というのは、千差万別。

トルストイの『アンナ・カレーニナ』の冒頭の有名な部分、「幸せな家族はいずれも似通っている。だが、不幸な家族にはそれぞれの不幸な形がある」という話にも、とてもよく似ている話だと思います。

そして、それが今まさに自分のもとにやってきた、この瞬間に与えられた意味を、自分自身で考えられるかどうか。

そこにはものすごく胆力が必要な作業なのだけれど、その胆力を持ってくぐり抜けた先に広がっている景色は本当に唯一無二だと思います。

ーーー

じゃあ、このような作業を行うときに、どんなつまらない本でも良いのかと言えば、決してそうでもないとも思っています。

少なくとも、読書会のような複数人が集まる場合にはそう。

世の中には、出版する価値さえないと思われるような駄作は無限に存在しますが、これが、つまらない「古典」であることが、本当に何よりも重要で。

しかも、難しくて理解できないものではなく、内容はちゃんと追えているのに、つまらないということに意味があったなあと。

作者(今回の場合は、ドストエフスキー)に、何か意図があるんじゃないかと全力で妄想をすることができるからです。これがむちゃくちゃ大事。大いに作家の胸を借りることができますからね。

誤解を恐れずに言えば、それが実際に作家の意図と合致しているかどうかは、まったく関係ないと思っています。

それを考えるだけの余白というか、考えるだけの価値があると、その場の全員が思えていることが本当に重要で。

いま自分たちのこの妄想には価値があると思えたら、いくらでもその本質看取にのめり込んでいくことができて、それぞれの頭を働かせることができますからね。

ーーー

あとは、昨日の読書会を開催した仲間たちと事前に築かれた信頼関係みたいなものがあったのも、めちゃくちゃ重要だなあと感じました。

というか、昨日の読書会における一番の肝は、この信頼関係があることだったように思います。

過去にも、読書会を定期的に開催してきた仲間たちであるということ。

あの圧倒的につまらない本にぶち当たったのが、このメンバーで本当に良かったと感じます。

「つまらなさ」の本質看取は「楽しさ」や「おもしろさ」の本質看取以上の「楽しさ」がある。変な話に聞こえるかもしれないのですが、これは本当です。

これは仲間が居ないと、なかなかに享受しにくいことでもある。

「あー、楽しかった!」は一人で完結できても「あー、つまらなかった!」って感情はひとりで完結することは難しい。

でも「あー、つまらなかったね!」というのは成立し得る。そんな感じです。

ーーー

この点、最近よく思うのは、客観的な「おもしろい」「つまらない」という基準があるわけじゃないということ。もちろん、それと同時に正解・不正解があるわけでもない。

誰と、どのように共有するのか、という話なのだろうなあと感じます。

目の前のものをなんとしてでもおもしろくしてやるんだ、この時間を価値あるものにするんだと、常に前向きな人々がその場に集まっていること。

もちろん、このときに欺瞞や嘘偽りがあってはいけなくて、正しく評価・観察をしたうえで、そこから学びとれることは一体何かを各自が真剣に考えること。

先日ブログにも書いた、ローカルのビジネスには正解があるわけではないという話にもとてもよく似ているかと思います。

そして、これがどのような時代においても、楽しく生き延びるための知恵でもある。

このサロンのメンバーのみなさんとだったら、たとえこれからどんな困難や苦難が日本や世界単位で訪れようとも、お互いに助け合って「色々とあったけれど、楽しかったね!」って言い合える気がしています。

ーーー

ありがたいことに、オンラインコミュニティを運営していると、こういう発見が本当に山ほどあります。

これもすべて、みなさんの真剣で前向きなスタンスのおかげです。

きっとこれからの無形資産を蓄えるうえで、本当に選ぶべきは、そのような前向きな姿勢の人間が集まる「場」なんだろうなあと思います。

どれだけ目の前の「もの」自体が良かったとしても、そこに集まる人間が残念だったらどうしようもない。

でも場が良ければ、つまらないものでさえも、最高に楽しめる。発見する力強さや胆力は本当に人柄、修練の為せる技だと感じています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。