今日は、先日書いたの「豊かさ」についてのブログの続きのような内容です。


サロンのつぶやきに投稿したものを、更に膨らませました。

さて、たとえば、フリーランスのひとにとって以下の2つの業務が、同時に目の前にあるとする。

・強固なコミュニティを持つ中小企業の10万円の業務委託の仕事。
・社会的な認知がなされている大企業の20万円の業務委託の仕事。


この両方の仕事も選べる立場にあったら、明らかに現代において選ぶべきは前者になってきているということが、僕が最近ずっと主張したいことなんですよね。

2023年にAIが出てきたことによって、自分の中にハッキリと確信として変わった今年一番の主張かもしれません。

この点、後者の場合は、たしかに報酬自体は前者よりも良いんだけれども、その仕事が終わったあとに残る「無形資産」のほうはほとんど存在しない。

そして、大企業側から見ても、そんなフリーランスというのは使い捨ての外部業者のひとりに過ぎなくて。

その仕事に対して、社内の人間も本質的には誰も感謝なんかしていない。自分が責任を負わされなくてよかったなあ、うまくいった場合には、自分の評価につながって良かったなあぐらいです。

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一方で、前者に対してであれば、顔のある個人として関わることができる。その仕事を請け負うことで、その強固なコミュニティの一員にもなることができるし、共同体を共に耕していくためのかけがえのない同士になることもできるわけですよね。

でも、多くのひとは、反対給付として受け取ることができる有形資産(つまりお金)の多寡とその企業の知名度のみで、仕事の質や、良し悪しを判断してしまいがち。

そうすると、たしかに大企業の業務委託のほうが圧倒的に稼げる金額は大きいと思うのかもしれないけれど、「無形資産+有形資産」の合せ技で考えた場合においては、前者のほうが圧倒的に、その「合計の価値」は勝るわけです。

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つまり、コミュニティの基盤があり、ファンベースを築いている中小企業のほうが沢山の報酬(見返りやリターン)がある時代に突入しているということなんだけれども、でもそこに人々はまだ気づかないでいる。

そして、フリーランスで目先のお金がないと、すぐに後者のほうに飛びついてしまうわけです。でも繰り返しますが、それが今、一番やっちゃいけないこと。

お金に余裕があることの大切さというのは、一番の理由はココなのだと思います。

別に、日々贅沢な生活をするためとかではなく、明日食いつなぐための日銭(裕福な暮らしでも日銭を稼いでいるひとはいっぱいいる)を稼がずに済んで、人生を通じて本当に価値のあるものに投資していくことができるようにするためには、必ず金銭的な余裕が必要なのです。

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さて、ここで話は少しそれますが、先日のブログにも書いた通り、この年末の12月だけはテレビ東京の「ガイアの夜明け」をまとめて見るようにしています。

番組内では、30代半ばぐらいのビジネスパーソンが、大企業の現場責任者として抜擢されて、金額が大きいプロジェクトを任され、日々密着取材をされています。そして日本中、世界中を孤軍奮闘しているシーンがよく描かれている。

そして、その現場に創業者や経営者が黒塗りの車で乗り付けて、現場に叱咤激励しにやってきて現場責任者が褒められるというシーンまでが、一連のテンプレ的に描かれている。

こども時代の僕は、こういうふうに世界中を飛び回っているビジネスパーソンが「理想の仕事人」だと思っていたけれど、今は客観的に見ていて「これは、地獄だよなあ」としか思えなくなりました。

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右肩上がりの時代であれば、誰がやってもそのような仕事はある程度うまくいっていた。そして、会社から大した監視もされず、仕事に公私混同も混ぜて、個人の体験にもさまざまな恩恵が受けられたはず。

でも現代は、過度に複雑な社会になり、必ずうまくいくとは限りません。また、そこに少しでも私的な何かを絡めようとしたら、すぐに糾弾されて首にされてしまう。常に会社側から監視されているような社会です。

そして、だからこそ、必死で企業に自らの全リソースを捧げるわけですが、こんなに企業に人生をかけて奉仕してみたとしても、ただの企業戦士のひとりで、一コマに過ぎないという悲しい現実があります。

その見返りとして、お金だけは人並み以上にもらえるのかもしれないけれど、それ以上のものが特に存在するわけでもない。

そこから、独立しようと思っても、お客さんは自分ではなく、自分の肩書や名刺についてくれているだけであって、自分自身のことを慕ってくれているわけでもない。

40代を過ぎた頃には、会社の看板がないと、何の仕事もできない人間に成り下がってしまうわけですよね。

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このように、従来は存在していた大企業の価値というものがことごとく目減りしていっているなあと思います。

だったら、代わりに大企業の株式でも買っておいたほうが、よっぽど儲かる。

上場している企業であれば、200万程度置いておけば、10%の株価上昇で仕事なんかせずとも、その企業から勝手に20万の利益が生まれるわけですから。

もちろん、もう少し大きな金額を用意すれば、配当だけでそれぐらいの金額がもらえる場合だってあるでしょう。実際に、そうやって暮らしているひとたちもたくさんいる。

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つまり、どこまでいっても大企業の場合は、現場の労働の成果はすべて、株主や経営者に還元されているわけですよね。だったら、こっちも割り切って、株主としてその企業に付き合わないと。

大企業と心中しても、何もいいことなんてない時代に入ってきたなあと思います。

これが昔は、ちゃんと企業戦士を「家族」だと思ってくれていた時代があった。それこそ、松下幸之助や本田宗一郎、稲盛和夫などの名だたる経営者たちが、現場でオヤジと呼ばれていたような時代です。

でも今はあくまで、労働力として数字やコストで計られて、社員もAIも立場は完全に一緒。

だからこそ、AIの発達でホワイトカラーの社員とAIが置き換えられてしまうかもしれないという話も、まことしやかに語られてしまうわけで。

一般的な多くの家庭は、家族の中で他愛もない雑談しかしていないと思いますが、それでも「じゃあ、家族がAIに置き換わるね」なんて思っていないと思います。だから、そもそもAIが人間に置き換わるという議論自体が本当はおかしいはずなんです。でもそれが当たり前のように語られる世の中。

だったら、コミュニティのあるところに対して、しっかりと自らの人的リソースを淡々と投資していった方がいいに決まっている。

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きっと、今日のこの話というのは、わかりやすく置き換えるとパパ活みたいなもんで。

たとえば、20歳の若い女の子が、同じ大学生の誠心誠意溢れた男の子が必死でバイトで稼いでくれた3万円の温泉旅行と、金だけあるおじさんのひとり10万円の温泉旅行が両方選べた場合、どちらを選んだほうが良いのかという話にとても良く似ている。

無駄にキラキラしているから、後者についていってしまうんだけれど、本来ついていくべきは、というか一緒にお金と時間を生み出して、共に育むべきは前者の男の子との関係性であることは明白で。

もし仮に、その彼と将来的には別れてしまったとしても、明らかにそちらのほうが人生の体験としてプライスレスで、その体験を軸にしながら、次の人生にも進むことができるはず。

にも関わらず、後者のおじさんの無駄に豪華な振る舞いによって、使い捨てされることのほうがプライスレスだと思ってしまうジレンマって現代には間違いなくあります。

でも、それだとマジで何も残らない。

こうやってパパ活に置き換えてみると、すぐにわかる話なんだけれども、仕事だとなぜか、労働の対価はすべて「お金」で得られるものだと僕らは思ってしまいがちなんですよね。

労働の対価は、「お金」じゃない。厳密に言えば、お金だけじゃない。

そのような従来的な思考の当たり前から一刻も早く抜け出さないと、対価としてもらえる「有形資産」のほうばかりに目を向けてしまい、本当にこれから価値が相対的に高まっていく「無形資産」を完全に見落としてしまうと思います。

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本来はもっと自らが増やしていくべき資産を「有形資産+無形資産」の組み合わせで考えないとダメで。

「日本円だけ持っているのは単純に資産が目減りしていく」というようないま世間で広く語られるあの話とまったく一緒です。

そのことが広く喧伝されて世間も理解し始めて、やっと今、少しずつ証券口座をつくって新NISAなどを活用し始めようとしているひとたちは増えてきたけれど、でも、そのような金融資産のような有形資産自体がもう終焉に近づいているとも言える。

有形資産だけ持っていると、無形資産のほうの価値が爆上がりしていくタイミングにおいては、ただただその価値が目減りしていく一方です。

ここからその価値が半減、もしくは価値が全くなくなってもおかしくない。価値というのはいつだって相対的なものなんですから。

もちろん、生きるために「お金」が必要であることは間違いない。だからお金を中心とした有形資産は、絶対に必要です。

でも、それは昔、米や醤油、胡椒などが現在の「お金」のかわりに取引されていたことと何も変わらない。

今は、それらの食材が食べ放題なんかで好きなだけ食べられたり、そもそも誰でも無料で使えるようにとテーブルの上に当たり前のように置かれているような時代です。

この事実のほうに、ちゃんと目を向けたほうがいい。

日本円の価値が下がるということを理解していても、これから無形資産への価値が相対的に高まっていくであろうことを理解していないひとは、まだまだ少ない。

仕事の対価として、自らに与えてもらえる反対給付を、真の意味で「生き金」や「生きた資産」にするためにこそ、有形資産と無形資産の両方に意識をちゃんと向けて、それらを同時に得ながら耕していくことが本当に大事だなあと。

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来年からはこの議論はより活発になると思うので、「コミュニティが大事、無形資産が大事だ」ということの意味を、もっともっと解像度高くちゃんと理解していきたいものです。

このWasei Salonというコミュニティも、本当の意味での「無形資産」の価値も正しく見定めることができ、それらを共に増やしていける場を目指していきたいなあと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。