先日、いま公開中の映画「ナイトフラワー」を観てきました。
北川景子さん主演の映画で、借金取りから逃れ2人の子供と東京で貧しい生活を送る北川景子さんが演じるシングルマザーが、ドラッグの密売現場を偶然目撃し、自分の子供たちの生活費を稼ぐために、自らも違法薬物の売人になると決意して、実際に密売人になっていく物語です。
かなり重たい映画ではありますが、多くの方におすすめしたいと思える、とても素晴らしい映画でした。本当に観てよかった。
今日は、この映画を観て、素直に守りたい存在がいるときほど、人は“見えない悪”に手を染めやすいという気づきについて、このブログにも書いてみたいなと思います。
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まず、この映画を観て、僕がとても強く印象に残ったことは、誰かを意図的に傷つけるつもりはない悪意がない人間であっても、カンタンに闇に落ちてしまうということです。
その動機というのは、救いたい純粋無垢な他者がいるからであり、大抵の場合、その救いたい他者は、子供や自分よりも弱い「家族」であり「仲間」なんですよね。
この映画の中でも、この子達のためなら、少しぐらい悪いことをして、お金を稼いでも良いと観客側も思えてしまう。
そう感じさせられるぐらい、ものすごく感情移入するような形で、子どもたちが純粋無垢な描かれ方がなされていたなと思います。
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そして、この映画の最大の特殊性は、そんな自らの悪事によって傷ついているひとたちが、ほとんど画面の中には登場してこないことなんです。
このあたりは、映画「関心領域」なんかにも、とても近い構造だなと感じました。
逆に言えば、被害自体を見えないようにしてあげることで、ひとはいくらでも闇に落ちるということを、まざまざと描いてみせた現代的な作品でもある。
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罪の意識をなるべく感じないようにさせて、間接的にしてあげればあげるほど、罪の自覚のないままに、ひとは「守りたい人を守る」という善意によって、ドンドンと悪事にものめり込んでいく。
闇バイト問題とかもそうですよね。役割を細分化、それぞれをドンドン分業制にしていく。
そのなかで、直接の被害者さえもわからずに、悪の自覚や良心の呵責などがなくなってしまえば、ひとはいくらでも悪に手を染めてくれるわけです。
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もちろん、日常の中の罪だけではなく、戦争なんかもそう。
有名でわかりやすいところで言えば、アウシュヴィッツのホロコーストが、官僚的な事務作業の積み重ね(分業)によって、個人の罪悪感を麻痺させることで遂行されたというハンナ・アーレントの『エルサレムのアイヒマン』(悪の陳腐さ)の議論にも通じる話だなと思います。
また、明確に悪事、つまり犯罪だと判断されない場合であっても、ねずみ講やマルチ商法、それに類似した過度なアフィリエイト報酬を用いた情報商材なんかもそう。
それらも最終的にババを引く人がいるからこそ、成り立つ商売であることは間違いない。
そして、そんなババを引くのは、この映画のなかでは、北川景子さんが演じているような藁にもすがるような思いで必死にお金になる仕事を探しているようなシングルマザーかもしれない。
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でもそれは、インターネット上にいる「顔のない他者」であり、アカウントの先にはどんなリアルで生々しい生活があるかは見えないようになっている。
だからこそ、無慈悲に自己責任と言い切ることもできる。
そんなふうにインターネットやSNSによって、顔のない他者としてマスキングされているから、いくらでも最後にババを引く人がいて成立するようなビジネスでも多くのひとたちがのめり込んでしまう。
それっていうのは、プレイステーションの実際のコントローラーを用いて、ゲーム用のディスプレイに映る映像をもとにドローンを操縦し、敵国の生身の人間を殺すようなことと、あまり大差がないのだろうなと思います。
そのうち、あの戦闘だって、あえてゲームのように3D映像化されて、良心の呵責が起きないような仕掛けになっていくことはきっと間違いないと思います。
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そして、もちろん一般的な仕事の中においても、多かれ少なかれそのような要素が含まれている。
現代人の多くは、大企業など大きな社会の仕組みの中で、部分的な仕事だけを担わされているから、自分の仕事の因果の結果、搾取される被害者いても、気づくことはない。
逆に言えば、資本家や経営者は、あえてそうやって分業制にして、労働者には部分しか担わせない。それっていうのは、闇バイトの親玉とやっていることはほとんど同じです。
そうすれば、いくらでも人間は目の前の報酬につられて、多少の悪事でもカンタンに手を染めてくれるから。
古くは公害問題から現代ではデベロッパーの過度な開発などもそう。
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ほかにも、中毒性の高い「身近な薬物(アルコール・カフェイン・タバコ・薬)」の制作販売や、スマホゲームやガチャ、推し活なんかもそうですよね。
渋谷にきれいなオフィスを構えて、ポップでおしゃれな見た目の会社にすれば、いくらでも簡単に仕事にのめり込んでくれる。
そして、あくまで自分たちは消費者に対して「癒やし」を提供しているんだという自覚のもと、中毒性の高い商材を世界に広めることに熱中してくれる。
そうやっているうちに、自分の実の娘を推し活のカモにしていたことに気づく、そんな無自覚な悲惨さを描いた作品が、朝井リョウさんの『イン・ザ・メガチャーチ』という作品でもあったわけです。
決して、違法薬物や闇バイト、マルチ商法や戦場のドローンだけに限らず、僕らは、みんなこの映画の中で北川景子さんが演じているような悪事を、多かれ少なかれ、無意識のうちにしてしまっているわけです。
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もちろん、消費者として立場においてもそう。
なぜこの商品がこんなにも安く、自分たちの手元に提供されているのか。それは、明らかに日本国外で搾取されている人たちが存在するからですよね。
つまり、自分たちの国の被害ではなく、海外にアウトソースすることで無きものとすることができる。それが生み出した悪に対しての無自覚な状態でいられる。
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そして、さらにこれからの時代に一体何が恐ろしいのかと言えば、そんな因果関係が、さらにドンドンと加速度的に曖昧にされていくということです。
具体的には、自動運転など「AIによる意思決定」の議論なんかを見ているとそれがよくわかる。
まさに「責任」の所在の話をめぐって議論しているわけですから。
つまり、AIが行った意思決定、そこからの「エラー」や「犯罪」は、一体誰の責任なのか。
そして、これもきっと被害者を直接目にする必要がなく、罪の自覚を持たせないようにしてあげれば、いくらでもひとはカンタンにAIに対して指示していくことは間違いないのだろうなと想像します。
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「実際に手を下すのは、あなたじゃない。あなたは、ただAIに指図してくれればいい」。いや、もはや直接AIに指図する必要さえないのかもしれません。
気分みたいな曖昧なものでで、AIに対して態度を示すだけでよくなる。
そうすると、あなたのAIが、そのあなたの気分の先にある意欲みたいなものを勝手に忖度して、「勝手にやっておきました」ということになる。
そうすれば自然と、責任の主体である人間側の罪の意識は軽くなる。
まさにドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中に出てくるイワンとスメルジャコフの関係性のように、です。
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川上から川下までに起きることに対しての責任と自覚。実際の被害から、目をそらさないことってことが、本当に大事だなと思う。
僕が尊敬するイケウチオーガニックさんや坂ノ途中さん、建築設計士の黒木さんは、このあたりの自覚意識が本当に強い。
そこまでの想像力を広げたうえで、本当に自分たちがやるべきことを淡々とやっている印象です。
でもそれは決して、何か理想主義的なものにかぶれているわけでもなく、むしろ現実主義的におこなっていることなんだと思う。
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これは何度もご紹介してしまうけれど、思想家・吉本隆明の「いいことをしているときは、悪いことをしていると思うくらいでちょうどいい」という言葉は本当にそうで。
この言葉の意味するところは、自分がこの仕事に手を染めることによって、一体誰の何が傷つくのか、どこで誰がどんな被害を被っているのか、その結果としてのリターンなのかに対して、に自覚し続けようという呼びかけでもあるのだと思います。
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もちろん、今日のこの議論を突き詰めれば、動物たちの命をいただく、ことなんかにも繋がってくる。
苦しむ動物たちの屠殺現場は眺めずに、スーパーで並んでいるパックに入ったきれに処理されたお肉を食べることはどうなんだ、みたいな話です。
そして、そこまで考えた時に、この世界は圧倒的に弱肉強食である現実も気づく。
そうじゃない世界、つまり弱肉強食じゃない世界を作り出そうとすると、一気にユートピア思想にまっしぐらです。
そんなユートピア思想の世界観を具体的に実現するためにこそ、強いリーダーや強い父性を求めてしまうようにもなってしまって、結果的に、既に人類が経験した悲惨な全体主義や社会主義国家のような失敗にもつながっていく。
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こっちも、ちゃんと直視しているようで、現実から目を背けていることにほかならない。
もしくは、今話題の反出生主義者みたいになってしまう状態なんかもそうだと思います。
つまり、「自分たちは被害者だ」と嘆くのでもなく、「理想郷をつくろう」と極端な全体主義に走るのでもなく、また「人間は生まれてこないほうがよかった」と反出生主義に逃げるわけでもない。
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そうじゃなく、その自然の摂理、弱肉強食の原理を受けて、自然と湧いてくる「負い目」に対して、ちゃんと自覚的になることが大事なんだろうなと思うのです。
どちらかに割り切ったり振り切ったりして、楽になろうとしないことが大切なんだと思います。
キリスト教でいうところの「原罪」みたいな感覚です。最所あさみさんの言葉を借りるなら、透明な十字架を背負う感覚。
逆に言えば、その罪の意識に押しつぶされそうになるから、どちらかに振り切りたくなる、でもそこをぐっと堪える「胆力」が大事なんだと思います。
そして、「いただきます、お邪魔します、失礼します」といった他者への敬意と配慮と親切心を持ち続ける。それが本当の意味での「宗教性」なんかにも繋がっていく。
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とはいえ、現代社会では、そんなことはひとりでは実行不可能だと思います。
それぐらい襲ってくる津波は抗いがたい。
だからこそ、その胆力をそれでも持ち合わせたいと思っている者同士が励まし合う、勇気づけし合う場が大事だなと思うのです。
そのためのコミュニティや共同体を僕はつくりたいですし、日々淡々とつくっている気持ちもとても強い。
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これから、ますます分業化が進み、自分の犯している罪はドンドン見えなくなる。
スマートフォンやAIを介して、スーパーに並ぶきれいなお肉のように、すべて綺麗にデオドラントされていく時代だからこそ、自らに日々問い続けたいことだなと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2025/12/14 20:34
