既に何度かご紹介してきた、映画「平場の月」。
哲学者・苫野一徳さんがTwitterに投稿していた感想が、なんだかとても素晴らしかったです。
特に、「ロマンが突然、抗い難く、人生にねじ込んでくる」という表現が素晴らしい。
ちなみに、苫野一徳さんの恋の定義は「自己ロマンの投影と、それへの陶酔」。そして、愛の定義は「合一感情と分離的尊重の弁証法」。
で、今日は、この苫野さんの感想を受けて、自分なりに考えたことを書いてみたいなと思います。
なぜいま、中年クライシスが、世間で話題になるのか。
そしてそれは中年関係なく、実は、全日本人に対して起きていることなのかもしれない、という話を書いてみたいなと思います。
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まず、ネタバレがないように改めて「平場の月」という映画の内容をご紹介してみると、50歳のバツイチ同士、中年の恋愛物語です。
堺雅人さん演じる主人公は、埼玉の地方都市で、いわゆるマイルドヤンキーとして落ち着いて暮らしている。
都会的生活への憧れもなく、車ではなく自転車で暮らす。幼馴染を中心に友人関係にも恵まれていて、会社の人間関係にも満足しているご様子。
元妻との離婚や親の介護などいろいろと大変なことはあったけれど、いまの現状には“ほどほどに”満足しているような状態が冒頭で描かれます。
何者かになろうとする焦燥感なんかもない。つまり、主人公は「うまく中年と折り合って生きている人」なんです。
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ところが、そんな彼の人生にある日突然、思わぬタイミングで学生時代の忘れかけていた「ロマン」がねじ込まれる。
中学の同級生である井川遥さんの登場です。
しかもそれが、いちばん年齢を実感する健康診断の再検査なんかのタイミングで、無慈悲にねじ込まれてくるわけです。
そこで彼は、一体どうするのか。ネタバレ無しの場合、そういう映画紹介になるかと思います。
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そして、この前提条件が、これまでの中年の恋愛物語と決定的に違う点。
最近だと「秒速5センチメートル」あたりと比較するとわかりやすいかなと思います。
あの物語は、若い頃のロマンにずっと未練たらたらで、終わった物語を今もずっと抱え続けている主人公のお話。
幼い頃の過去への後悔を未来へ逆投影し、ずっとウジウジし続けている話でもある。
新海誠作品とは、一貫してそういうロマンへの「執着」が物語の基本構造にある。
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で、基本的には、ゼロ年代から2010年代までの物語って、そういう物語が多かったように思います。
つまり既に終わってしまった物語に対して、いつまでも固執し続けていて、その過去への後悔を未来に逆投影する話。
そして、それっていうのは、ものすごくデフレ経済下っぽい話だなと思います。
新海誠作品に熱狂してきた就職氷河期世代だけに限らず、バブル景気を忘れられずに、いつまでも当時の思い出を懐かしむ昭和生まれタイプの人たちにもウケる定型でもある。
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でも、「平場の月」はそうじゃないんですよね。
主人公は、古い物語をちゃんと終えている。あるいは、ちゃんともう忘れている。
そして、今の人生に満足している人間が主人公の物語なんです。
また、特に深い後悔があるわけでもなく、今と向き合い、真面目に生きている。
でもそうやって、「もう自分の青春は完全に終わった」と思っていた人間に対しても、突然ねじ込まれてくるロマン、それが新鮮だったんだろうなあと。
言い換えると、この映画の中のロマンというのは、ある種の「事故」や「自然災害」なんかにも近いものとして描かれているわけです。
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いわゆる「失楽園」のような、“中年の禁断の恋愛”みたいなギラついた都会の話でもないわけです。
どこにでもいるような、地方都市の中年同士の話。
でも、そんなひとたちに対してもロマンは無慈悲に突如ねじ込まれる。まさにねじ込まれるという表現がぴったりだなと思います。
若い頃のトラウマなんかも含めて、長い長い(セルフ)カウンセリングなどを通じて、再出発できたと思えていても、そこに突如「古い物語」が、また新たなロマンとして不意に再来してくる。
そんな誰のせいでもない無邪気で不可避な「自然災害」のような暴力性を、この映画は優しく描いているように僕には見えました。
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そして、これって決して「恋愛」だけじゃないはずなんですよね。
で、これが奇しくも「インフレ時代の物語」だなあと思うポイントです。
言い換えると、ロマンが突然ねじ込まれてくる機会が無限に増えてくるのが、これからの世界の潮流なのだと思います。
具体的には、インフレの波、AIの波、医療技術の進化の波、インバウンド観光の波など全部そうです。
たとえば、「こんなど田舎、一体誰が興味を持つんだ」と思って移住をして、そこで何不自由ない静かで穏やかな生活をしていても、InstagramやTikTokの“ひとバズり”で、突然大量の外国人が訪れて、バンバンお金を落としていくようになったりする。
それはまるで「金の斧・銀の斧」みたいな話です。
普通の斧で満足していたはずなのに、ある日突然「昔のロマンが蘇り、金の斧こそが私の斧だ」と言いたくなる瞬間がやってくる。
経済が上向いて、日本が再び元気になる可能性を秘めている、というのは、たぶんそういうことなんだと思う。
静かに暮らしたかっただけなのに、世界の方が勝手に熱を帯びてしまい、「あなたも熱狂しなさい」「もっと欲望を持ちなさい」と急き立ててくる。
「平場の月」の恋愛もまさにそうで、静かな生活(鉄の斧)で完成していたはずの人生に、圧倒的な輝きを持つ他者(金の斧)が不意に侵入してくること、それ自体への戸惑いが見事に描かれてある。
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そして、現代の「中年クライシス」というのは、むしろこっち、だと思う。
東京で、いつまでもチャンスを狙って若作りをしている中年の“ギラつき”からやってくる危機ではない。
ギラついて狙っていたわけでもないのに、突然ロマンがねじ込まれたときに生まれてくる、どうしようもない葛藤。
ちゃんと弔えたと思っていた物語、でもそれが忘れていた頃に嵐のように再来してくる。
そして、だからこそこれは「中年」だけの問題じゃないと思います。
長年のデフレ経済下のなかで諦めていたことが、再び不意に復活するという物語なわけですから。
「まあ、人生こんなもん」からの、自分の中の寝た子がふいに起こされる。
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しかも、この“突然ねじ込まれるロマン”は、日本にずっと存在する物語の構造でもあるなと思います。
日本最古の物語である「竹取物語(かぐや姫の物語)」なんて、まさにそういう物語ですよね。
おじいさんとおばあさんが、仲良く慎ましく暮らしていたら、そこに突如かぐや姫が舞い降りる。
おばあさんは、かぐや姫の泣き声を聴いて、突如自ら母乳が出るほどに若返る。おじいさんも政治や富に対して色気づく。
かぐや姫が主人公ではあるけれど、老後のふたりのところに突如ロマンがねじ込まれて、かぐや姫が月に帰っていくあとに、喪失状態になって圧倒的に後悔するという話でもある。
これもまさに、突然ロマンがねじ込まれる話です。
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このような場面において、ふたたびそこに熱狂をするのか(リセットする力)、それともやっぱり見て見ぬふりをするのか(ブレない力)、それともふたたびちゃんと弔って再出発をするのか。
突如ねじ込まれるロマンと、私たちはどう向き合うのか。
まさに、君たちはどう生きるのか、が問われている。
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やっぱりここでも、村上春樹の言葉を思い出す。
「あらゆる人間はこの生涯において何かひとつ、大事なものを探し求めているが、それを見つけることのできる人は多くない。そして、もし運良くそれが見つかったとしても、実際に見つけられたものは、多くの場合致命的に損なわれてしまっている。にもかかわらず、我々はそれを探し求め続けなくてはならない。そうしなければ生きている意味そのものがなくなってしまうから」
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この村上春樹の文脈で言えば、大事なものを探すことを、良い意味でちゃんと諦めたひとたちのもとにも不意に訪れる、訪れてしまう、それがロマン。
いつまでも夢を諦めずに済むというのは、とても美しい響きにも聞こえるけれど、それは逆に言えば、いつまでも若い頃の夢を諦めさせてくれないということでもある。
それに翻弄され続けるのが、人間ということなのかもしれません。
堺雅人だからではないですが、デフレ経済下で地方都市のマクドナルドで満足をして、だましだまし生きてきたにも関わらず、堺雅人のように目を丸くして思い出す日がやってきてしまう。
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日本人にとってその不意に訪れるロマンは、良くも悪くも神、つまりマレビトだったのだと思います。
ある日突然、竹の中に宿っていた「かぐや姫」のように、です。
だからこそ、正しく奉り、正しく弔うもの。
合一感情と分離的尊重の対象として受け入れる。
そしてきっと、本当に大事なことは、そのときに「弁証法的発展」をさせないことなのだと思います。
ここは苫野一徳さんの「愛」定義と明確に異なるところであり、ここが意外と大事な部分でもある気がしています。河合隼雄の「中空構造」みたいな話でもある。
「ねじ込まれたロマン」を、人生の中心(中空)に一瞬だけ置いて、通過儀礼として尊重し、そしてまた元の場所へ(あるいは少し違う場所へ)と戻っていく。
言い換えると、それを「所有」しようとするのではなく、自己の内側に「通過」させることで、再出発を図る。
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それが、これからのインフレ時代に、狂わず迷わず、生きる知恵なのかもしれません。
最後はとても抽象的な話になってしまいましたが、2026年以降、これまでとは激変することが確実な世界で生きるうえで、とても大事な視点だと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
