最近、AIが浸透しきった世界において「学び合い」を創発できることが大事になるだろうなあと直感的に思っています。

そして、それって結局のところ「受け取り合い方の節度」の問題なんだと思う。

もはや「知識の伝達」はすべてAIが担ってくれる。でも、そのときに「渡された感」だけは一向に宿らない。

情報を受け取るだけでなく、信頼できる他者から何かを託される、受け継ぐという感覚がいま本当に大事になってきているなと思います。

今日はそんなことをこのブログに書いてみたいなと思います。

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まず、「知識の伝達」と「渡された感」は違うという話は、先日もご紹介したゲンロンカフェの動画「250億の哲学──個人投資家の人生を聞く」の中で語られていた話です。


動画内の質疑応答で、まだ何者でもない25歳の若者が、資産250億円を持つ個人投資家とリアルの空間で出会い、トークイベントの質疑応答で言葉を交わすことの価値や重要性について触れられていました。

ただ情報を得るだけなら、Twitterを眺めていればいい。AIに聞けば、自分の理解度に合わせて丁寧に噛み砕いてもくれる。

でも、そのときに「渡された感」は宿らない。

直接面と向かって質疑応答をするからこそ、その経験によって「何かを託された」という感覚が身体に宿るはずだ、と。

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で、なぜ僕がこの話にこれほど反応するのかと言えば、まさに自分自身が24歳のころ、ゲンロンカフェで東浩紀さんに直接質問し、答えてもらった記憶が鮮明に残っているからです。

そのトークイベント後に、Twitterのリプライでやり取りしたことが今でも鮮明に印象に残っている。

あのやり取りによって「渡された感」が僕の中に勝手に宿っていて、今も自分の中で大切にしているからこそ、東さんの本を読んだりゲンロンが配信する動画を観たりし続けているんだろうなあと思います。

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で、だとすれば、これから大事になるのは「何を得るか」よりも、「どう受け取るか」だと思うんですよね。AI時代は特に、です。

言い換えると、「得られる情報」ではなく「誰から、どのように渡されるか」が、自分の人生を決めていくカギとなっていく。

そしてその時に、いちばん大事なことは、それを受け取るときの自己の姿勢であり、受け取り方の節度の問題。

たとえば、わかりやすいところだと「映画館で観る映画」なんかもそうですよね。

自分の部屋でダラッとカウチポテト的なスタイルで、スマホなんかも同時に観ながら倍速で観るような映画と、映画館で、その時間だけはしっかりと集中して見る映画。

自分の目に映る情報はまったく同じであったとしても、その「渡された感」はまったく異なるわけです。

それを無意識に感じ取っているから、きっといまこれだけの人々が映画館に足を運び、映画が再びブームになりつつあるんだと思う。

もちろん、推し活のライブなんかもそうなんだと思います。

逆に言えば、スマホやネットを通じて「情報」しか届いていないのが、現代社会でもある。

それこそが価値があると思わされ、サブスクを契約されて、です。でも本当の価値はむしろこっち。

だから、受け取り方の節度を整えていくことのほうが、今何よりも大事なことだと感じています。

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あとは、自分の至極個人的な経験で言えば、最近の日中関係の悪化なんかにも似たようなことを思います。

僕は、尖閣諸島問題で揉めていて、日中関係が一番冷え込んでいた2012年当時、北京で暮らしていました。

そして、そのときに中国人の同世代の同僚からの言われた一言、小さな商店の中国人の店主からのひとことが、まさに「渡された感」ある言葉として、今も強く印象に残っています。


彼らは、僕を日本人として捉えるのではなく、顔のある一個人として尊重してくれた。

そうやって中国人から言葉を渡してもらったからこそ、そのときから僕は一切人種や国籍で判断することやめようと自然と思うようにもなりました。

逆に言えば、それまでも「知識の伝達」は散々行われてきたわけです。学校のなかで人種差別、国籍差別はいけないということは学んできた。

でも、それとはまったく違う形で僕の中に刻まれる体験となりました。合理的な利害関係を超えるものとして、自分の中に存在する形になったなと思うのです。

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あとは最近観ていた「カンブリア宮殿」で放送されていた、事業承継の話なんかもそうだなと思いながら観ていました。

27歳の若い女性が、福岡にある歴史あるかまぼこ屋さんを引き継いで、再建したという話が放送されていました。


視聴者目線でいうと「なぜ…!?」って思うのだけれど、きっと彼女も「受け取ってしまった」という実感があるんだろうなあということが、よくよく映像から伝わってきました。

そこには、先代との深い信頼があったんだと思う。だから彼女も果敢に引き受けることができたんだろうなあと。

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逆に言えば、「渡された感」がないと、人は動きにくい。

そこにチャンスがあると思っていても、一歩を踏み出せない。

そこには経済合理性の理性による判断しか働いていなくて、それだけだとやっぱり3Kと言われてしまうような労働は、決してやりたくないと思ってしまう。

それは辛さに耐えられないからじゃなくて、耐えるだけの気力が湧いてこないから。

「渡された感」はその気力にもつながるし、それが「縦の系譜」の話なんかにも見事につながっていくなと思います。

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「渡してくれたひと」の期待を裏切らないようにしようと努力することが、客観的にみたときにはまったく同じ労働だったとしても、それが本人にとっては苦役なのか、自らの幸福につながる活動なのかは、まるっきり異なる。

師弟関係や封建制度なんて、その最たるものですよね。

もちろん、それをある種の洗脳だと言い切ることはものすごくカンタンだけれども、むしろその「物語」こそが自己を支える糧になることも、人間という物語を重視する生き物の性質として間違いないと僕は思います。

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結局、顔のある信頼できる他者から「頼んだよ、頼まれました」というやり取りを経たかどうか。

情報はコピーできるけれど、文脈(熱)は身体を介してしか移動しないわけで、その文脈やナラティブがこれからは本当に大事になってくる。

それゆえに、受け取り方の節度を整えたいなと強く思います。

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ただ、ここで、同時に全部ひっくり返すようなことを書きますが、今の若い人たちは、基本的には「受け取りたくない、託されたくない」と思っている。

その不自由さ、拘束されることに耐えられないと感じている。

「宛先が自分であり、自分だけではない」ことを望むようなワガママさを兼ね備えているのが現代人です。

顔を突き合わせて言われる体験を喉から手が出るほど欲しつつ、でも逃げ道もちゃんとあって欲しいと同時に願う。

言い換えると、その逃げ道がなく、一方的に託されるのが現代の会社組織や職場、あとは従来的な村社会。

受け取るかどうかの権利が常に自分側にあること。それが大事なんだと思うのですよね。

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昭和世代はそのような若い世代を「甘い」とか「舐めている」とかいうけれど、そういうことじゃない。これは社会の構造の変化の帰結だと思います。

だからこそ、その中間として「受け取らずに、受け取る」そんなアンビバレントの関係性を構築できる空間が大事だなと思っています。

受け取らないように受け取らないようにと避けていたら、結果的にいつの間にか受け取ってしまっていたという状態。

一方的に渡されてしまうのではなく、お互いに素直に受け取りたくなくなる互いの敬意が巡っている場が大事だなと思うのです。

そうやって「渡された感」がちゃんと静かに巡っている場。

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きっと世の中から嫌われがちな儀式というのも、本来そのためにあったんだろうなあと思います。

入学式や卒業式など、ひとまえで証書を渡すことの意味。あとは結婚式で、花嫁の父親から、花婿に受け渡される瞬間なんかもそう。

あのときに受け取ってしまっていた、という事後的な発見ができることが、その起算点となるポイントがまさに儀式的な効果効能。

現代社会では儀式は形骸化しがちですが、本来儀式とは「時間の流れに杭を打つ行為」なんでしょうね。

そうすることで、遠い将来、あとから振り返ったときに「あそこで私は既にバトンを受け取っていたのだ」と再確認できるアンカーにもなり得るわけですから。

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AIとのやり取りや、情報だけのやり取りでは決してその起算点は生まれない。

やっぱり生身の人間同士の「渡された感」が大事なんだと思う。

自分のなかに、そうやって贈与の種がたくさん眠っていて、それをしっかりと自分のペースで発見していくいことができる人生が、きっとこれからの豊かな人生なんだと僕は思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。