表現や創作の手が止まってしまうとき、それは何か「正しいもの」を提案しようと思うから、自分の手が止まってしまうのだと思います。

しかし、そもそも正しいものなんて何かはわからないのだから、わからないなりに時間と丹精込めたものを、丁寧に届けていこうとするほかない。

そして「正しいことが何かわからないなりに、私はこれが大事だと思って丹精込めてつくりました、ぜひ受け取ってください。」「はい、わかりました」というやり取りを繰り返し、お互いの信頼を積み重ねていくことが大事。

それが昨日のブログの中で書きたかったことです。


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で、最近NHKオンデマンドで観た「こころの時代    ヴィクトール・フランクル    それでも人生には意味がある」という番組の第3回目が、この話にもつながるなあと思いました。

語られていたテーマは、豊かさの中の「空虚」とは一体何か。

ここでフランクルが語ったとされる「自己過剰観察」という話が語られていました。

戦後、豊かさがどんどん広がっていたのに、若者たちの中には、その豊かさとは裏腹に虚しさが募るばかり。

それは、自分の目の前に鏡をおいて、その鏡に映る自分ばかり見ているような状態によって引き起こされているようなもので、それが「自己過剰観察」という言葉の意味するところです。

つまり、そうやって自分の事ばかり考えてしまい、他者のまなざしを内面化することが空虚感を生み出していくのだと。

端的にいえば、自分の「顔」ばかりみていると、鬱になるということですよね。

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そうじゃなくて、昨日も村上春樹さんの言葉としてご紹介したように、自分の顔ではなく「洞窟に集まってくれている、ほかの人たちの顔を見る」というのは、とても大事なことだなあと思います。

番組の中でも語られていたけれど、そうやって自分の外側に対して目を向けること。

そして、そのときに、大切なことは「良心的であること」だと。これは昨日の文脈で言えば、「悪しき物語」ではなく、「善き物語」にしようと努めることだと思います。

そのためには、他者を利用しようとしてはならない、ということでしたよね。たとえ、どれだけそれが高尚な目的だとしても、です。

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とはいえ、良心的であることは、ほぼ「正しいもの」と同義であって、堂々巡り。

良心的なものさえもわからないのが現代社会の特徴でもあるわけですから、ここでまた、冒頭の問いに戻ってしまいます。

でも、ここで諦めるのはもったいなくて、僕らは明確に「良心的ではないもの」はわかるはずです。

それは、たとえばエゴイスティックなもの。自己にまなざしを向けて、がんじがらめになるのではなく、他者に対して貢献的であろうとすることがより、良心的に近くなるはず。

で、「他者に対して何かを提供をしてみて、そこに集まるひとたちの顔を見ていればわかる」というのは、きっとここにポイントがあると思うんです。

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つまり、「善き物語」や「良心的であろうとする」その答えはわからないからこそ、「悪しき物語」や「良心的ではない」状態をできるだけ避けつつ、着実に近づいているだろうという実感を持つことが、きっと現代においては最善策であるはずで。

これはきっと、ベクトルの問題なのだと思う。言うなれば「程度問題」の話ですよね。

答えがわからないのなら、そうやってある種「否定神学」的な形で、対象に近づいていくほかない。

ものすごく遠回りに思えるかもしれないけれど、でもそれは決して遠のくわけではないはずなんです。

もちろん、立ち止まってしまうわけでもなくて、ゆっくりでも着実に歩みを前に進めることはできる、少なくともその実感は強く持ている状態。

「つまらないものかもしれないけれど、時間と丹精込めてつくりあげる」そのなかで試行錯誤を繰り返すことの意味というのは、きっとここにあるはずです。

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また、相手が作ってくれたものを受け取るときに下手に距離を置かないことって、意外と、とっても大事なことだなあとも思います。

このアプローチって提供する側も答えはわからず、いつだって「共に考えませんか」という形しか取ることができないわけですから。

にも関わらず、そうやって近づいてきた人に対して、距離を置いてしまうと「一緒に探してみませんか」という状況が構築しにくくなる。

僕も、よくこういう話をしていると、仙人ですか?とか、人生何周目ですか?とかって本当によく言われるけれど、言うまでもなく凡夫だし、人生1周目です。

「だからこそ一緒に考えてみましょうよ」って言っているのに、そうやって褒めているようで、ただ漠然と距離を取られてしまうときは、本当に絶望しそうになる。

もし本当にあなたが思っているように仙人であり、人生も何周もしていたら、たぶんあなたの目の前には現れていないよ、と思うんですよね。

そうじゃなくて「丹精込めてつくりました」「たしかに、受け取りました」「受け取ってくれてありがとう」「つくってくれてありがとう」このやり取りを、お互いにその立場を常にスイッチしながら、何度も繰り返していくことが、今とても大事だなあと思う。

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でも、それじゃあ、いつまで経ってもほんとうの「良心的なもの」や「善き物語」にたどり着かないじゃないか!という批判が来ることは百も承知で、僕自身もずーっとそう思っていました。

ただ、これは少し考え方を変えてみると、たぶんその過程の中に、もうすでにソレらは宿っているとも言えるのではないかとも、最近はよく思うのですよね。

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この点、「あとがき」の部分なので、ネタバレにはならないと思って書きますが、2023年に発売された村上春樹さんの最新作『街と、その不確かな壁 』のあとがきのなかの一番最後の最後が、以下のように締めくくられていました。

ホルヘ・ルイス・ボルヘスが言ったように、一人の作家が一生のうちに真摯に語ることができる物語は、基本的に数が限られている。我々はその限られた数のモチーフを、手を変え品を変え、様々な形に書き換えていくだけなのだーと言ってしまっていいかもしれない。
要するに、真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか。僕はそのように考えているのだが。
村上春樹
二〇二二年十二月


この部分を読み終えて本を閉じたあと、しばし僕は呆然としてしまったんですよね。

「要するに、真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。」

ここを、今日の話とつなげると、「良心的ではない状態」をつくらないように努力しているときに、「良心的なもの」は宿る(かもしれないし)、「悪しき物語じゃないもの」にしようと努力しているときに、「善き物語」は宿る(かもしれない)。

それが良心的なものや、善き物語の嘘偽らざる「正体」なんじゃないか。

ここが今日一番つよく強調したいポイントです。

さらに、僕らが「正体」と呼ぶとき、それは「物自体」を指すわけだけれども、物自体に対して人間は決して到達することができない以上、不断の移行しか原理的にはありえない。

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「宿ればいいな」という祈りの運動それ自体がその正体でした、なんてつまらないことは言いたくないし、ソレさえも実際にはわからないことなのだけれども、でも少なくともそれを続けているあいだ、不断の移行を繰り返す中で、その相の中に「真実」はあるかもしれないなと。

過去に何度もここでも紹介してきた、折口信夫の「マレビト」のような考え方も、きっとここに繋がるような気がしています。

だとすれば、それが続いていく流れだったり、構造だったり、仕組みだったりを丁寧につくることがとっても大事だと思うし、

それ以上に何よりも、それが大切であると気づいているひとたちや、理解しているひとたちが集って、共につくりあげようとする意欲や心意気みたいなものが、一番大事になるのだと思うのです。

なぜなら、仕組みや構造でどうにかしようというのは、ものすごく理にかなった合理的な話なんだけれども、それもどこまで行っても構造的に「利用しにくくなる」だけであって、いくらでも利用はできちゃうから。

なんなら「これでもう利用されないぞ」と全員が安心しきって油断がある分、また違う形で、いくらでも利用ができてしまう。

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そうじゃなくて、僕はその場に集う人々ひとりひとりの「利用しないんだ」という意志や決意のほうが圧倒的に大事だと思う。

言い換えると、そこに集う人々の不断の移行、移行する相の中に立ち現れてくる善き物語を求める中、そんな悪しき物語にならないように務める努力のうえでしか、実質的にはたどり着けない「何か」があるんだろうなあと純粋に思っているという話でした。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。