昨日、ついに村上春樹の長編小説作品をすべて読み終えました。

この2ヶ月弱のあいだ、ひとりの圧倒的な天才が40年以上かけて書き続けてきた作品群を一気読みできるという、なんとも贅沢で濃密な体験で、本当に豊かな時間でした。

まだ、短編小説やエッセイ集などは残っているので、ここからはそれらをひたすら読んで長いクールダウンをしていくことになりそうです。

何はともあれ、自分自身が35歳〜36歳に架橋するこのタイミングにおいて、村上春樹の全作を読めたことは、ほかでは決して手に入らない貴重な経験だったなと感じます。

2024年のこの時期ことは、大げさではなく、本当に一生涯忘れないだろうなあと思っています。

ーーー

じゃあ、なぜ、これだけ惹きつけられてしまったのか。

そうやって、自分がドハマリしたからこそ、その答えみたいなものを真剣に探りたくなる。

義務感なども一切なく、他の作家に浮気する気も起きず、本当に淡々と読み続けている自分に対し、自分が一番驚いていました。

判で押したような生活が大好きなのにもかかわらず、それでも毎晩寝る時間を伸ばしながら、「あともう少しだけ」と読みたくなる、その理由とは何だったのか。

ーーー

で、これは、以前もご紹介したことのある「物語は、洞窟の中で語られる」という話が、きっとものすごく大きなヒントになるんだろうなあと思っています。

村上春樹さんと川上未映子さんとの対談本『みみずくは黄昏に飛びたつ』の中で、「洞窟化」という比喩が語られていて、以下で再び本書から引用してみたいと思います。

村上    コンピュータの前に座っていても、古代、あるいは原始時代の、そういった洞窟の中の集合的無意識みたいなものとじかにつながってると、僕は常に感じています。だから、みんな待ってるんだから、一日十枚はきちんと書こうぜ、みたいな気持ちはすごくある。で、自分の前で聞き耳を立てている人たちの顔を見ている限り、自分は決して間違った物語を語ってないという確信は持てます。そういうのは顔を見ればわかるんです。
川上    それは、自分自身の顔ではなくて、聞いている人たちの顔?
村上    うん、まわりにいる人たちの顔を見てればわかる。そういう手ごたえが必ずある。で、それを利用しようとさえ思わなければ、それは「悪しき物語」にならない。


みなさんの記憶にも比較的新しいであろう、読者からの質問メールに村上春樹さんご自身が直接回答していた「村上さんのところ」もまさに、「洞窟化」のひとつだと語られていました。

これはとっても大事なことを教えてくれているなあと思います。

特に聞いている人たちの顔を見てればわかる、というの本当にそのとおりですよね。

もちろん、ここは直接見るだけに限らず、比喩的な意味を含まれてくるとは思いつつも、これを実際に大切にしているんだということが村上春樹さんの作品を読んでいると非常に強く伝わってくる。

あー、読者のことを利用しようなんて、一ミリも思っていないだろうなあと。

だから安心してついていけるんだろうなと思うのです。

ーーー

で、僕は「オンラインコミュニティ」などもこれと全く同じだと思っています。あとは音声コンテンツなんかもそうかもしれない。

両方を運営している自分が、大事にするべき観点はここなんだろうなあと思っています。

自分の文章を日々読んだり、聞いたりしてくれているひとたちを、利用しようとしないことはもちろんのこと、対話会や読書会を通じて、メンバーさんやリスナーさんと出会ったときにどのような顔をしているのか、どのような語り口で物事を語ろうとするのかに、丁寧に耳を傾けること。

ーーー

村上春樹さんが語るように、そこに集う人々を利用しようとした瞬間に、それは「悪しき物語」になる。せっかく自分がこしらえた「洞窟」に集まってきてくれているにもかかわらず、です。

それはわかりやすく何か金銭的な搾取などに限らず、ありとあらゆる側面においてそうだと思います。信用して集まってきた人たちに対して、自分都合で押し付けた瞬間に、音を立てて崩れてしまうものが間違いなくある。

ーーー

たとえば、現状NFTがほとんど機能していないのも、きっとこのあたりに理由があるんだろうなと思います。

NFTの思想は、本当に素晴らしいもので、それはとても魅力的な洞窟だったと思います。

でも、あまりにもその思想が魅力的すぎて、洞窟に集まってきてくれたひとたちに対して「これは利用できる」と思って、悪しき物語にしてしまったひとたちが多すぎた。

せっかくついて行ったのに約束が果たされない、利用されただけだとガッカリしたひとたちが次第に増えていき、結果的にどんどん人が離れてしまうという負のスパイラルに陥ってしまったのだと思います。

ーーー

で、この経験を踏まえて、僕がさらにここでとても大事だなと思うのは、詐欺や自分都合のためには用いてはいけないとは理解しているひとたちであったとしても、

より高尚な目的のためなら、洞窟に集まってきている人たちをある程度は利用してもいいと思っている場合があることが、本当に多いことです。

でも、それが一番ダメなんだよ、それが悪しき物語の入口なんだよと、思ってしまう。

ここが今日一番つよく強調したいポイントでもあります。

どんな目的であれ、利用しようとした時点で、その魂胆自体がアウトだということなんでしょうね。

ーーー

これはわかりやすいところだと、政治家とかはそうですよね。自分の掲げているマニュフェストの実現に向けてであれば、多少なりとも、自分の支持者を利用してもいいと思っている節が見え隠れする。

それは、自分に許された正当な権利ぐらいに捉えているんじゃないかと思うほどに。

で、人間は弱いから、本当にすぐにその闇に落ちてしまう。

他にもたとえば、学校の先生と生徒や、芸能界の事務所とタレント、カウンセラーとクライアントなど、そんな立場的な不均衡の状態を利用して、高尚な目的のために用いていると、自己を勝手に肯定しているひとは本当に多い。


でも、どれだけ高尚な目的であったとしても、ソレをやった瞬間にすべてが水の泡になってしまうんだと思います。

ーーー

そうじゃなくて、そこでグッと堪えて、洞窟に集まってきた人たちと約束した「善き物語」を語り続けること、実践し続けること。

その信頼関係をいかに構築していくのかが、今僕らに問われているんだろうなあと思います。

ーーー

このときに、村上春樹さんは「大事なことは、語り口、小説でいえば文体です」と同書の中で語られていて「信頼感とか、親しみとか、そういうものを生み出すのは、多くの場合語り口です」とおっしゃっていて、これもまた、本当にそのとおりだなあと思います。

このブログで語り続けてきた文脈につなげてみると、まさに相手に対する敬意や礼儀の話だったりするなあと思っています。

そして、巡り巡って、そのやり取りの中で生まれる「信用取引」をどれだけ積み重ねていくのか、ということだと思います。

混迷を極める世の中において、一体何が正しいかなんて誰にもわからないのだから。

でも一方で、何が正しくないのかだけは明確にわかる。それは、相手のことを利用しようとした瞬間に、それは「正しくない」悪しき物語に変貌してしまうわけですから。

ーーー

この話を「信用取引」にたとえて、語っている部分も非常に参考になるなあと思ったので、以下で再び本書から引用してみたいと思います。

「これはブラックボックスで、中身がよく見えなくて、モワモワしてて変なものですけど、実は一生懸命時間をかけて、丹精込めて僕が書いたものです。決して変なものではありませんから、どうかこのまま受け取ってください」って僕が言ったら、「はい、わかりました」と受け取ってくれる人が世の中にある程度の数いて、もちろん「なんじゃこら」といって放り出す人もいるだろうけど、そうじゃない人たちもある程度いる。そうやって小説が成立しているわけです。それはもう借用取引以外の何ものでもない。つまるところ、小説家にとって必要なのは、そういう「お願いします」「わかりました」の信頼関係なんですよ。


正しいことが何か皆目見当がつかずわからない中でも、真摯に時間と丹精を込めて、自分が良いと思うものを作り続けて、それを丁寧に届けていくということなんだろうなあと思います。

そして、届いた相手の顔を観ながら日々、微調整を繰り返す。その信頼関係の積み重ねがものすごく大事だなあと思う。

ーーー

「私は決してあなた達のことを利用しようなんて思わない。どうか受け取ってください。お互いに日々大変なことばかりだとは思いますが、そんなときでも少しでも役に立ちそうなものを探し出し、つまらないものかもしれませんが、何とか今日もご用意してみました」そんな心意気で、日々淡々とお互いに届け合っていくことなんでしょうね。

この関係性、信頼の構築以上に勝るものはないなと思う。それを長く続けていくことが大切なフェーズに入ってきていると思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考になっていたら幸いです。