普段、このブログの中では人文系の書籍や小説ばかりを紹介しているのですが、それ以外の本も実は結構読んでいます。

新書なども含め、政治・経済・社会・金融なども同時並行的に読んでいて、そんな本を読むたびに、この世の中には、各分野のことについてよく知っている専門的なひとって、本当に多いんだなあと思わされる。

彼らが日夜、専門性を深めてくれるおかげで、1冊の本というまとまったパッケージでありがたく知識を吸収することができているんだなあと思わされます。

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ただ、そんなふうに専門性があって、その知識を惜しみなく開示してくれるひとたちが、日常的にどんな生活をしていて、どんな人柄なのかも実はあまり気にしたことがないなあと思ったんです。

もちろん、書籍を書くような専門家に限らず、SNSで人気のインフルエンサーからYouTuber、テレビに出ているようなタイプの専門家まで、ありとあらゆるそんな専門知識を与えてくれるひとたちは、よっぽどの人格破綻者ではない限り意図して避けることはない。

それよりも、より詳細で専門的な知見や技能を有していることの方が重要であって、むしろ偏っていればいるほど、コンテンツとしては成立しやすい世の中ですよね。

で、これって、結構おもしろい話だなあと思ったんです。

ある特定の分野に秀でていて、優れてれば、他のジャンルが欠落していても全く関係ない。

また、受け取る側としても「情報を提供してくれてありがとう」と思って、書籍の対価も払うけれど、「どう考えてもその偏りはおかしい」と思っても、特に注意もしなければ、何か自らの感想を述べることもない。

それは完全に「相手の自由」であって「相手の取捨選択の問題」だと割り切っているところがあるなあと。

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そして、今の仕事や求人、つまり会社という組織もドンドンそうなりつつあるなと思います。

人柄採用のようなことを強調するような会社でさえ、まずは専門性や身につけているスキルのほうが先立っていて、そのあとに人柄が付随しているかどうかが判断されるだけ。

もちろん、そうだとしても、仕事とプライベートは明確に分けられていて、プライベートで人格が破綻していても、仕事をしっかりとこなしてくれること、そんなビジネスコミュニケーションが優れていれば、問題なしというパターンが多いですよね。

とはいえ、今少しずつ課題感として認識されていることが、そうやってまわってきた世の中に生じている漠然とした「歪み」なのだろうなあと思うのです。

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果たしてその歪みをどうやって解消するのかが、少しずつ課題として浮き彫りになっているように思います。

言い方を変えると、あまりに専門性で繋がりすぎてしまった弊害の揺り戻しが、コミュニティ的な文脈なんじゃないかと思ってしまいます。

言うまでもなく、専門性というのも、ひとつの個人の特質に過ぎなくて。

人と人とのコミュニケーションにおいては、その特性というのもほとんど何の関係性もない。

ただ、最初の切り口が専門的なところから始まりやすいのが、今の世の中であるということですよね。それは、全く見ず知らずの人間同士がエンカウントしやすいのがインターネット中心の社会だから。

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で、ここで突如、村上春樹の『スプートニクの恋人』の中に出てくる話をご紹介したいと思います。

場面としては、初対面の見知らぬ男女が一晩一緒に過ごしたあと、そんな男女の夜の営みがうまいかどうか、不安になり、謝罪をする主人公の「ぼく」に対して、その相手方の女性が唐突に「あなたは、車を運転する?」と聞いてくる、とても不思議なシーンです。

場面としては、日本人なら誰もが知るであろう、あの夏目漱石の『三四郎』の冒頭のような場面設定だと思ってもらえれば、きっとわかりやすいかと思います。(実際、この主人公も、なんだか三四郎みたいだなとつぶやく場面です)

以下は、主人公の「ぼく」が「免許を取ったばかりだし、そんなにうまくはない。普通ですね」と答えたあとの本書からの引用となります。

「それで、ちょっと考えてみて。もしあなたが、誰かと一緒に車で長い旅行をするとするわね。パートナーを組んで、ときどき運転を交代する。それでそういう場合にあなたは、相手としてどちらのタイプを選ぶかしら。運転がうまいけれど注意深くない人と、運転はあまりうまくないけれど注意深い人と」
「あとの方ですね」とぼくは答えた。
「わたしも同じ」と彼女は言った。
「こういうのもたぶんそれと同じようなものじゃないかしら。うまいとか下手とか、器用だとか器用じゃないとか、そんなのはたいして重要じゃないのよ。わたしはそう思うわ。注意深くなるーそれがいちばん大事なことよ。心を落ちつけて、いろんなものごとに注意深く耳を澄ませること」
「耳を澄ませる?」とぼくは訊いた。
彼女は微笑んだだけで、何も言わなかった。


これは本当に上手な比喩だなあと思います。

僕自身も、運転は上手ではなくてもいいから、注意深く、耳を澄ませることができるひとが運転してくれる車に乗りたい。

でも、たとえば、そんなひとの注意深く耳を澄ませる運転や何かしらの技能というのは、YouTubeやTikTokでは再生されないんですよね。

専門性やそこから導かれる結果というのも、この運転の話とまったく同じだと思います。

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で、僕は、「このひとたちの一緒にいたいと思えるひとたちとコミュニティを共に創造する」という話は、ここに通じると思ったんですよね。

本来は、もっともっと大事なことがあるはずなのに、それを置き去りにして、わかりやすくて数字に置き換えやすい「専門性」を身につけることに対して、今はみんなが必死になりすぎてしまっているような気がする。

結果として、専門性に偏りすぎてしまい、多くの場合、偏重をきたしているからこそ、そんなことで凹むことは本当に馬鹿げていて、大事なことはそこじゃない。

それを、どうやって実感を伴った形で理解するかってことが、とても大事なことになってきてるフェーズにあるなあと思います。

大切なことはそんなことじゃなくて、この小説の中の女性が語るように、注意深く、お互いに耳を澄まし合うことだから。

人と人とのコミュニケーションにおいて、ひとつの場を共にするというのは、つまりはそういうことだと思います。

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人並みに知的好奇心に溢れていて、学ぶ意欲さえある程度持ち合わせていれば、僕はそちらのほうが圧倒的に大切なのだと思う。

ただし、ここのスタンスが今はバラバラです。だからハレーションも起きやすい。

というか、ひとつの専門性を突き詰めることができている人というのは「自分のしていることには決して間違っていない、他者の声をある程度は無視してきた」というあらわれでもあるはずですからね。

猪突猛進的な、ちょっとしたヤンキー感もあるわけです。

もちろん、本当のアナーキズムみたいなものを理解しているひとは、過去に何度もご紹介してきたリベラル・アイロニストのようなスタンス自然と身につけてはいるとは思います。

でも、最初から、変人や偏愛に対して憧れて「そうなりたい!」と思って、ある種「変人や偏愛を演じる」ように実践しているひとは、大抵はただのギャンブラーみたいなひとだったりする。

全賭けをしたら、たまたまそれが当たりました、というような。でもそういうひとは、だいたいそのあとの人生のどこかで、全部を溶かす。

長い目で見れば、バランスは取れるようになっている。

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更にこれからは、そのような偏ることで生まれてくる専門性の知識のようなものは、全部AIが与えてくれるようにもなってくるわけです。

AIに頼めば、そんな知見はいくらでも無限にひけらかしてくれるし、それを聴きながら、もう十分だと思ったら、割り込んで止めることも簡単。

AIだから、相手の感情とか慮る必要もない。「もういいよ、わかった」と言って、それでへそを曲げてしまったりもしないわけですよね。

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それよりも、上手でも下手でもいいから、お互いに注意深く、耳を澄ますことができること。

これはきっと、ソクラテスの「無知の知」や「不知の自覚」のような話にもつながるはずです。

きっと大事なのは、実際に知っているかどうか、本当に卓越しているかどうか、その測定可能な「客観的な真実」の有無ではなく、そのような「自分は知らないことを、知らない。だから耳を澄まさなければならない」というある種の知的”態度”のほうであるということなのだと思います。

そのような人々が集まっている場や空間というのが、今後はものすごく大きな価値を持つと僕は思っています。だからWasei Salonのような場所をせっせと耕しているんだろうなあと。

いつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても何かしらの参考となっていたら幸いです。