ひとは、何かしらの幻想にすがって生きている。これは誰一人として例外は存在しないと思います。

幻想は「フィクション」と言い換えてもいいかもしれないし「物語」や「神話」と言ってもいいかもしれません。

それは、宗教のような形を取るかもしれないし、最近流行りのような文脈で言えば「推し活」なんかもまさにそうだと思います。

ひとが働くときに大切にしている「ビジョン」や「理念」なんかもそう。

もちろん、その幻想は、ポジティブなことだけに限りません。ネガティブな幻想だってそう。

「自分は頭が悪いから、成功できないんだ」とか「親ガチャに外れたから、私の人生は悲惨なんだ」とかも幻想の類いです。

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で、そうやって他者が盲信している幻想をつぶさに観察していると、何かしらの違和感として、必ず自らの中にモヤモヤした感情が立ち現れてくる。

なんだか辻褄があっていないような、「まがいもの」を見せられているような感覚です。

うまく言語化できなくても、そんなモヤモヤするような感覚がつきまとうかと思います。

ひとは、そのようなものを見つけてしまうと、嬉々として直接、本人(たち)にそれを指摘しようとしてしまうのです。

「それは幻想だ、ダウト!」って。

そのような言動を、近年だと「論破」と呼ぶのかもしれないし、それをニヤニヤしながら指摘するひとは、今のようなご時世には後をたたない。

なぜなら、それがSNSなどメディアにおける格好のネタになったりしますからね。

あとは、それが「優しさ」なのだと誤解して、ありがた迷惑な行動にでてしまうわけです。

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でも、本来そのような「違和感」を見つけたときというのは、まずは粛々と自己の改善点にしたほうがいいと思っています。

いわゆる「人の振り見て、我が振り直せ」という話です。

この点、たとえば、僕はVoicyを配信するときに、なるべく他者の発信を参考にするようにしていて、良いところはそのまま取り入れて、自己が「聴き手」として感じた違和感は、自らの修正点として取り入れさせてもらうようにしています。

それは、以下のツイートでも書いたとおりです。


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じゃあ、そんな違和感を発見をしてしまった相手とは、具体的にどう接するといいのか?

大抵の場合は、全力で「無視」でいいのだと思います。

そもそも、自分とは一切関係がないのだから。完全に「他者の課題」です。

自分と関係があると思い込んでしまうこと自体が、大きな勘違い。

でも、本当に一握りの距離が近いひとたち、自分に直接的な利害関係が存在するひとたちに対しては何かしらのアクションを取りたくなるかもしれません。

家族や親友、職場の同僚なんかはそうかもしれませんね。

そういうひとたちに対しては、意外だと思われるかもしれないですが、その相手の「幻想」に全力で乗っかることだと思います。

それこそが、本当の「優しさ」だと僕は思う。違和感を指摘することが、優しさでは決してない。

幻想を幻想だと指摘したところで、相手と対立するだけ、お互いに意固地になるだけです。それは「北風と太陽」みたいな話でもある。

これは、以下のVoicy内でもお話した「あえて言語化しない、自分の意見を言わない」という話にも非常によくに似ているかと思います。

本当の目的は、そのひとと議論したいわけではなく、相手と共により良い関係性を築いていくことのはずですよね。

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人と何かコミュニケーションを取るときは、「そのひとが何を主張しているのか」その意見を見定めるのと同時に、「そのひとが絶対に守らなきゃいけない(と思い込んでいる)もの」、そんな相手のポジションを同時につぶさに観察することは、とっても大事なことだと思います。

つまり、どんなポジショントークを述べなければいけない立ち位置にいるひとなのかも、同時に見定めるということです。

このときに「どうせ、お金のためだろう」っていうのは、正直めちゃくちゃ粒度が粗いと思います。

そんなもんじゃないですよ、人が無意識のうちに自分の意見を変えてでも、守りたくなってしまうのは。

本人でさえも自覚できていない恐れや不安が「幻想」として必ず背後に存在している。

一体、目の前の相手は何を恐れているのか、目の前のひとが必死で守らなきゃいけないと信じ込んでしまっているものは何か。本人でさえ気がついていない、そんな恐れていることとはなんだろう?とド真剣に考える。

そして、それを仮に発見できたとしても決してえぐらない、絶対に言及しない。

むしろ、その「対幻想」に全力で乗っかっていくことです。

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僕はこれが本当に大事なことだと思います。

この点、その究極は、子どもの「おままごと」。

大人が子どもとおままごとに接する際に「それは、おままごとだ!」と指摘することはどう考えても間違っているっていうことは誰にでもすぐにわかりますよね。

とはいえ、子どもから誘われているのに放置するのも違う。このときには流されるんじゃなくて、自分の意志で全力で乗っかることです。

つまり、相手の蒙を啓くことじゃない。一緒にその空間をつくりあげていく、積極的に関わり合う。

時には全力で演技もしながら、相手との間に本当に紡ぎたいと願っている縁起を紡いでいくのです。

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この点、先日放送されていたNHKのドキュメンタリー番組の中で、渡辺京二さんが自らの座右の銘だと紹介していた吉本隆明さんの言葉を紹介されていたのですが、これが本当に素晴らしい名言でした。

以下で少し引用してみます。

いうなれば、これが真の「優しさ」であり、<知>とは、この「着地」を諦めないってことなんじゃないのかなあって思うのです。

多くの人は、わたしとあなたの間に存在している「対幻想」や、世間との間に存在している「共同幻想」にただただ流されてしまう。

それが、いわゆる日本的な「空気」となります。

ちゃんと流されていないと「空気が読めないヤツ」というレッテルがはられてしまいますからね。だから、みんなそれを恐れて、積極的に空気に流される。

一方で、その空気の存在に気づいたひとは、「それは空気だ!ダウト!」って叫ぶ。

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でも、それはどちらも間違いだと僕は思うのです。

そうじゃなくて、自らの強い意志を持って、まずは全力で乗っかってみる。

客観的に見た場合にまったく同じような状況であっても、そこには雲泥の差があります。

その場に存在する共同幻想に意識的に乗りつつも、全力で関わり合いながら、そのあいだに本当に理想的な縁起を紡ぎ出していくのです。

ここで決して誤解してほしくないのは、これは決して相手をバカにしたり見下したりするというようなことではない。

なによりも、そうすることで、必ず「私の蒙」が啓かれるのです。

心の底からハッとする瞬間が絶対にやってくる。

それは、子どもの「おままごと」に参加したときの記憶を思い出してもらえればすぐにわかるはずです。

子どもをバカにして、イヤイヤ参加していたら絶対に発見できない。

でも、ド真剣に参加して乗っかると、子どもの中に存在する「光るもの」に必ずたどり着けます。

このときに、本当の意味で目の前の存在が「私の師」になりえる。そのときに、目の前の相手が子供かどうかなんて一切関係ない。

何かを「共に創る」って、そういうことなんじゃないかと思っています。この私の蒙を啓くために。

そんなことを考える今日このごろ。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。