すでに多くの人が語っているように、NFTの本質は「コミュニティ」だと思います。

じゃあ、そのコミュニティとは、そもそも一体何なのか?

今日はそんなことを考えつつ、NFTがより広がっていくためにはどうすればいいのかを同時に考えてみたいと思います。

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この点まず、コミュニティって何なのか。

意外と、みなさん適当にこの言葉を用いてしまっているように感じます。

何か人々が集まれば、それが全てコミュニティであるというような。

でも、実際コミュニティと「群衆」は明確に異なります。

渋谷のスクランブル交差点の人だかりは決して、コミュニティだとは思わないですよね。

じゃあ、実際にコミュニティとは何かといえば、特定の「文化」や、特定の「共同幻想」を共有した共同体を指すのだと思います。

しかも、それが他の文化と対峙したときに、他の文化を自分たちらしく飲み込む力 or 排除する力が内包されていること。

この可変性や半脆弱性、暴力性や排他性がコミュニティの肝と言えるのかもしれません。

つまり、そのためには文化の重層性が必要であって、一義的で薄っぺらくないことが絶対に必要不可欠です。

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この点、僕は「日本文化とは何か」ということを、ここ10年ぐらいずっと考えてきました。

つまり、日本というコミュニティ、その正体です。

これまで様々な書籍を呼んだり、実際に現地に足を運んだりして取材をしながら、ひたすらに考えてきた事柄のひとつ。

そんな僕の現段階における暫定解は、何か明確な「これ」っていうものでは決してないということです。

もちろん、海外のひとが想像するような「寿司、天ぷら、富士山、着物」なんかではない。

そうやって目に見える物質を用いて、わかりやすく言語化できる代物ではない。

あえて無理やり言語化しようとすれば、「常に外部から不意に訪れてくる私以外の他者、具体的には外来の文化を自分たちらしく常に飲み込んでしまう、その懐の深さというか、消化運動、その変容」こそが、日本文化そのものだと僕は思います。

武士道や茶道など特定の文化が日本らしさなのでもなく、何か外から入ってきたときに、すべて飲みこんで自分たちの文脈に置き換えてしまえること。

このリプレイスする能力こそが、「日本らしさ」の正体だと僕は思います。

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マンガやアニメの「二次創作文化」は、日本にしかない文化だとVoicy内でイケハヤさんがよく語っていますが、あれもまさに日本らしさの「消化作用」そのもの。

そうやって何でもかんでも、自分たちの文脈に引き受け直して表現してしまうことこそが日本らしさなのです。

これはきっと、長い歴史の中でいつの時代も、必ず何か異国のものが流れ着いてしまう日本という島国の宿命だったのでしょう。

これ以上、東は存在していなくて「出ていってくれ」と言えない極東の宿命。

「来ちゃったんだから、仕方ないよねえ」と吸収していくほかない。

そうやって、長い歴史をかけて手に入れた唯一の自分たちらしさを保ち続けるために自然と獲得してしまった類まれ無い「能力」なのでしょうね。

大陸文化のように「お前らは、俺らとは異なるんだから、よそへ行ってくれ」という排除の論理、その暴力性が一切通用しなかったということでもあるのでしょう。

それよりも、流れ着いてしまったものは何でもパクっと食べて体内に取り込んでしまって、自らの循環や連環の中に位置させてしまうということ。

喩えるなら、ドラゴンボールのセルや魔人ブウなど、そうやって他者を取り込んでドンドン強くなる敵ってマンガの中でよく描かれると思うんですけれど、まさにあのような状態です。

あの何でも飲み込んでしまう力強さが、日本らしさということでもある。

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じゃあ、「飲み込む」って具体的に何を指しているのか。

それは、ここまでも何度か言及してきたように「消化作用」なのだと思います。

その消化器官みたいなものの機能こそが、らしさの正体。

僕ら現代人も「自分らしさ」に執拗にこだわるけれど、それは様々な食材を食べて、様々な文化に触れても、そこに変わらない何かがあると認められるから、「自分らしさ」というものがあるのだと思うわけじゃないですか。

食べるもの、触れる文化によって、見た目も性格も全く別人のようになってしまっていたら、きっと怖くてたまらないはずなんです。(実際は、細胞レベルでみたらそれぐらい変わってしまっているんですけどね)

人間が成長するように、常に一定の「変容」をしながらも、以前の面影を残しながら変化できること。

具体的には、セルの抜け殻を指差しながら、これがセルだとは言わないと思います。もちろん第一形態も第二形態も、すべてセルでありセルじゃない。

その消化作用、取り込む作用。強いて言えばその変化の矢印自体が、セルそのもの。

もっと、具体的に言うと以前の面影や、精神の一貫性が存在していることに意味がある。

人間で言えば、自己同一性を主張する「意識」それ自体が、精神の一貫性にあたります。

この精神の一貫性(一個人の意識に相当するもの)を、日本という国家の場合は「天皇家」に求めたのだと思います。

だから「天皇家」の継続がこれほどまで日本という国家においては未だに重要なのです。一個人の文脈で言えば「完全に記憶喪失をしても、その人間はその以前の人間と同一人物と言えるのか?」という問いそのものにあたるから、です。

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さて、このあたり話を深めてしまうとドンドン話が難しくなってしまうので、話を一旦もとに戻すと、NFTを含め何かしらのコミュニティを活性化させる場合、重要なことはそこに所属する人々の「コミュニケーションの多寡」によってくるということになります。

もっと具体的に言えば、「これって、こうやっても遊べるよね」というコールアンドレスポンス、それが「消化作用」そのものにあたる。

先日書いた、文化を遊び尽くす「読者モデル」の話にもつながってきます。

参照:「創業者」よりも「読モ」が稼げる社会がやってくる。

常に、「これって、こうやって楽しめますよね!」という提案とその受容を無限に繰り返し、みんながそれをおもしろがって、少しずつエラーをさせながら、コピーしていく。

「歌に、歌で返す」というような文化です。知の共有がすぐになされて、また次の新しいトレンドがそこから生まれていく。

コミュニティの真の価値って、間違いなくそこにある。

コミュニティの場合、手段が目的化しやすい理由もまさにここにあるのだと思います。だって、実際に手段こそが目的なのだから。

そのコールアンドレスポンスの往復と、その広がりや拡充それ自体がコミュニティを、コミュニティたらしめる唯一の道です。

そうやって内側でコールアンドレスポンスしながら楽しんでいると「トム・ソーヤの冒険」の中に出てくる「ペンキ塗りの話」のような自体も起きてくる。

参照:ゲリラ的か、タスク的か?

「おっ、なになに?」って野次馬が群がってくる感じです。この野次馬精神も、ある意味では日本人らしさでもあるのでしょうね。

新しいものが大好きで、何か人々が熱狂しているものに、いっちょがみしないと気がすまない感じ。

そうやって「クラ交換」のようなことを繰り返しているうちに、自然とそこに「価値」も生まれてきてしまう。

参照:価値があるから交換するのではなく、交換するから価値が生まれる。

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つまり、やっぱり「遊び尽くせ」ってことなのでしょうね。

『ワンピース』の冒頭は、ゴールド・ロジャーの一言で始まるのはみなさんご存知の通り。

「俺の財宝か?欲しけりゃくれてやる、探せ!この世の全てをそこにおいてきた!」から始まるのは、確かにそのとおりなんです。

「探せ!」の一言でいい。

「探す」という能動的な営みの中に立ち現れてくるもの、それが僕らが必死で探しているもの、そのものに他ならないんですから。

以前、親鸞の解説を聞いていたとき「南無阿弥陀仏、名号それ自体が阿弥陀の正体。私が唱えたときに『働き』として、その人の中に働く」っていうお話が語られていました。

この話を聴いたときに、僕は最初「へっ?」って思ったけど、本当にぐうの音も出ないほどその通りなんです。

超越的な何かが、確固たる存在として遠くに存在しているのではなく、唱えている音と私の身体が共鳴する、その感覚から始まっていく運動(コミュニケーション)こそが、その正体そのもの。

「ワンピース」という言葉自体も、それが人々から発声されて、共有された時点で立ち現れるものこそが、きっとワンピースの正体。

それはマンガの中のフィクションの世界だけではなく、日本中、いや世界中で既にそうなっていますよね。

最後は、だいぶ話が飛躍してしまいましたが、そんなことを考える今日このごろです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても何かしらの参考となったら幸いです。