先日、「オーディオブックカフェ」で、今大人気の書籍『ずるい仕事術』をご紹介させてもらいました。
この本、本当におもしろかったです。
具体的にはぜひ本編を直接聴いてみて欲しいのですが、内容もさることながら、「ずるさ」とは何かを考えるための良い契機にもなる。
「お笑い」というある種、道化師やトリックスター的なポジションから世の中を切り取ってくれる方が語る「ずるい仕事術」という切り口は、そんな問いも同時に僕らに与えてくれます。
ちょっとメタ的な視点となってしまいますが、今日はそんなお話を少しだけ。
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この点、そもそも「ずるさ」とは一体何なのでしょうか。
それはきっと、合理的に考えてそっちのほうが自分にとって常にメリットがあるような状態を追求し続ける姿勢や態度を指すのだと思います。
そのような「他者を出し抜いても、自分が得をするような(客観的な視点から見ると)正しくないやり方」を、一般的には「ずるさ」と呼ぶのだと思います。
でも、この本で語られていることは「自分が信じる『おもしろい』を貫くためならば、多少ずるくてもいいじゃない?」という、ある種の開き直りの視点から語られていきます。
それが、佐久間さんが考える「ずるい仕事術」というタイトルに込められた意味なのだと、僕は解釈しました。
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つまり、自分が信じる「正義」のためにはずるくてもいいのではないか?という問いかけが、本書の肝なのです。
そして、たぶんここが現代における一番大きな問いであり、アポリアのひとつでもあると僕は思っています。
もっと分かりやすく言い換えると「そのようなずるさを果たして、僕らはどこまで受け入れてもいいんだっけ?」という話です。
ここで決して誤解しないでいただききたいのは、僕は決してこの本の内容を否定したいわけじゃありません。
そういう問いがいま世の中にフワフワと存在しているよね、ということです。
そこに対して僕はちゃんと目を向けてみたいですし、考えてみたい。それは、以下のつぶやきにも書いたとおりです。
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この点、なぜだか僕らは、いつもその「手段」や「手立て」のほうばかりに注視してしまい、その正当性(ズルいか否か)についてばかり議論してしまうのだけれども、今ってむしろ、その「正当性の根拠」のほうが揺らいでしまっているんじゃないのか、っていうことです。
そもそも、社会の中に共通する「道徳」や「倫理観」、「向かうべき到達点とは何か」と問われて、それをすぐさま答えられるひとって一体どれぐらい存在しているのでしょうか。
みんな当たり前のように何か守るべき基準のようなものがあって、自分はそれに従って粛々と行動しているというような“したり顔”をしながら生きていますが、その拠りどころとなるようなわかりやすい基準が、実は今って存在していませんよね?
ここに現代の脆さや弱さがある。
喩えるなら、みんな何か大切なダイヤモンドを守る警備員のように粛々と生きているのだけれど、そもそもその守っていたはずの中心にあったダイヤモンドがもうない、みたいな状態です。
「あれ、俺たちそもそもなんで警備して(生きて・働いて)いるんだっけ?」というような。
一体何わけわかんないこと言ってんだ!と思うかもしれませんが、守るべき、到達するべき「絶対的な基準」があるのだと言うのであれば、ぜひ自分の言葉でそれを言語化しようとしてみてください。
思いのほか、言葉が出てこなくて詰まってしまい、自分が自分に対してきっと驚かれるかと思います。
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つまり、何度もこのブログの中で言及してきている、ルソーが語るような「一般意志」のようなものが、実はハッキリとしていないことのほうが、今の世の中のわかりやすい停滞感にも繋がっているのだと思います。
ちなみに、この「一般意志」自体も堂々巡りのような形になります。
参照:今年のNFTは「誰から受け継いだものなのか」が重要になってきそう。
「◯◯という基準を後ろ盾にした生き方に従っておけば大丈夫」そうやって私たちを安心させてくれる社会の構成員全員に共有された「共同幻想」のような基準が、世間からもう完全になくなってしまった。
だからこそ、ひとによってはドンドンと刹那的な生き方になっていくのだと思います。人間の快楽原則だけに溺れるような。
一方で、『ずるい仕事術』のように「あなたが信じる正義のために、どこまでもずるくあろう」という提案も出てくるし、一方で『チ。』のように「いやいや、そのためらい(迷い・葛藤)のほうを大切にしよう」という提案も出てくる。
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何度も繰り返しますが、これには決して答えがあるような問題ではないと思っています。
だからこそ、ひとりひとりが自分で自分が付き従いたいと願う基準、その「善いとは何か」をゼロから新たに考えなければいけない。
もう世間のほうからは、「これが正解」という基準を与えてはくれないのだから。その明確な守るべき道徳的基準、のようなものが完全になくなってしまったということです。
そして、その自らが考えるための素材というのは「過去の歴史」の中に求めるしかない。
だって、現在や未来には間違いなくそれは存在していないのだから。
まさに、温故知新。過去の思想や哲学、宗教や倫理学から学び、新たに自らで生み出していく必要性がある。
それが現代を生きる僕らの責務でもあると、僕は割と本気で思っています。
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なぜなら、この基準に沿っている行動を自らができていると判断できるときが、私たちが真の「幸福」を感じ取ることができる唯一の瞬間だからです。
衣食住を中心とした、人間の三大欲求の快楽だけを追い求める人生であれば、上述したように刹那的に生きて欲望に溺れることで満たされる感覚は漠然と得られるかもしれないけれど、それでは決して真の「幸福」には辿り着けない。
だとすれば、そんな幸福の基準を、まずは明確に立ててみるところからしか、私の人生は始まっていかないのではないでしょうか。
逆説的ではありますが、それを探そうとする運動の中からしか、自らの本当の「幸福感」というのは立ち現れてきてはくれないのでしょう。
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僕らは、どうしても学校教育に慣れきっているせいで、何かそのように既に追い求める「ニンジン」のようなものが私よりも先に存在していて、他者(世界)がそれを私に与えてくれると思って生きている。
もしくは、既にこの世界に客観的にはそれが存在していて、私が見つけられていないだけで、それを探し求めて、追い求めることが人生だと信じて疑わない。
でも、そんなものは存在していないんだ、と。
「マリオ」でクッパを倒し、ピーチ姫を救って旗を取ることが人生のゴールだと思っていたら、実はそれは幻想でしかなくて、そもそも自分で「マリオ」という世界を創ることからだった、みたいな話です。(逆にわかりづらい?)
だから、まずはせっせと自らの畑を耕して、他でもないこの私にとっての「ニンジン」や「旗」をつくるところからしか、本当の幸福を追求する人生、その運動や循環というのは始まっていかないのでしょう。
そのためには、古今東西の他人の「畑」を覗きにいくところからスタートするしかないですよね。
過去の先人たちから学ぶとはきっとそういうことです。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。
2023/01/11 12:23