昨日、こんなツイートをしてみました。



本来、万民に行き渡るべきものにも関わらず、当時の社会においては希少資源だったがゆえに、


一部の者に優先的に与えざるを得なかったものが、時代を超えて希少資源ではなくなったあとも、


利害関係者たちの利権や保身のために、当時のルールだけが今も当然のように残り続けている場合なんかがまさにそうだなと。

今日はこのことについて、いま考えていることを少しだけ詳しく書いてみたいと思います。

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例えば、昨今における「学校教育」なんかはまさにそうだと思います。

コロナによって、どちらにせよオンラインで授業を受けることになるならば、

教えるのが上手な先生の授業をオンラインで聞いた方が良いはずです。

にも関わらず、オフラインのときにつくられた体制のまま、オンライン授業が不慣れな先生たちが行うたどたどしい授業を子供たちは聞かされてしまう。

学校教育はもともと、1人の先生から授業を受けられる生徒数に上限があり、上手な先生の授業は「希少資源」だったため、


仕方なく生徒を選抜制にして、全国で先生が増えていった背景があるはずです。

本来、良質な授業を受ける権利は広く万民に対して開かれてあるべきで、そのように考えるのならば、オンラインでも地元の先生の授業を受ける必然性はないはず。

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これは誰もが想像しやすい「学校教育」の一例ですが、

このように「なぜその仕組みが生まれたのか?」その趣旨目的に立ち返ることが非常に重要で、

この話は何度も何度も繰り返しこのブログに書き続けてきました。

ただし、それでもなお、古い仕組みと新しい仕組みの間に多くのハレーションが生まれてしまっている。

その原因は、この「趣旨目的の立ち返り方」に問題があるのかもしれないと思いました。


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この点、いちいち「なぜ、なぜ?」と毎回その趣旨目的に立ち返っていたら、到底その判断が間に合わない状態になってしまいます。

朝から晩まで、自分の目の前を通り過ぎるものすべてに対して疑ってかからなければならないことになるからです。

そもそも、人間が生きている中でぶち当たる壁や諸問題というのは、どれだけ社会が変化しても、いつの時代もそれほど変わりません。

特に、人間関係から生まれる感情面に関しての諸問題は一切進化していないと言っても過言ではない。

人間が似たような壁にぶち当たったとき、なるべく悩まずに済むようにと、


先人たちが必死で考えて受け継いできたものが「慣習」や「しきたり」、「掟」のようなものとして現代にも遍く存在しているのだと思います。

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だからこそ、なぜ古いものが今も続いているのかわからないときは、素直にソレに従うことも一つの手段かと思います。

そして、理由はわからずとも従うことに対して何か違和感がある場合には、黙って静観するにとどめる。

決して安易に否定はしない。

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本当に大切なことは、疑うべきものと従うべきもの、それを選び取るセンスであり、その選球眼を養うということなのでしょう。

いついかなる時も古いものを疑って、何でもかんでもぶち壊せばいいというわけでは決してない。

本当におかしいと思うものだけをしっかりと選び取っていく。

そのためには「球数」をみて練習するしかありません。

さもなければ、いつまで経っても、自分ひとりの足(経験)で生きていかなければいけない。

「巨人の肩の上に乗る」とはつまり、その選球眼を養うことなのだと思います。


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いついかなる時も新しい考え方を選び取ることのほうが好きな方にとっては、なかなか受け入れがたい話かもしれません。

しかし、このサロンに参加してくださっているメンバーであればその真意を理解してもらえるかなと思い、今日のブログにも書いてみました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。