「一刻もはやく正しい答えに辿り着かなければならない。」

僕はずっとそう信じて生きてきました。

でもそれは間違いだったようです。

本当に大切なことは、常に問い続けること。

「そもそも、なぜ…?」と自分自身の中で考え続けること。

それはきっと、一生答えがでない作業でしょう。

でも、その状態に辿り着くことが唯一の答えらしきもの。

今日は、そんな気づきについて少しだけ書いてみようと思います。

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この点、僕が「正しさ」について一番勘違いしていたなあと思うことは、

理想として掲げられる答えが正しそうであればあるほど、人々は偏見を獲得し争ってしまうのだという真実です。

現代におけるSDGsなんかは、まさにその代表例と言えるでしょう。

ひとは、圧倒的な正しさを与えられると、その正しさを実行しないひとたちに対し、必ず苛立ちを覚えます。

教育を通し、若い世代がその時代における正しさを獲得していけば、それがそのまま世代間ギャップにもつながって、社会の大きな分断にもつながります。

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人々はそうやって新たな時代の正しさを盾に、明治維新や宗教戦争など、何度も似たような争いを繰り返してきたのでしょう。

そして、現代を生きる自分たちも過去を振り返り「なんと愚かな…」と感じつつも、全く同じことを現代でも行ってしまっている。

そうやって歴史は繰り返していくのだと思います。

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この点、さらに難しいことだなあと思うのは、

そうやって掲げられる思想が他者に反論を許さないほどに圧倒的な「正しさ」を帯びていればいるほど、必ず起きうる矛盾でもあることです。

このジレンマからは決して逃れられない。

なぜなら、伝わらないのではなく、誰もがその正しさに納得させられてしまうからです。

そして、その世界を必ず実現せねばならないと、強い使命感を帯びて個々人が活動してしまう。

それに従わない人間は、排除し、弾圧していいことになってしまう。

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この点、『黒い皮膚・白い仮面』の「100分de名著」の最終回を先日観ました。


https://twitter.com/hirofumi21/status/1359062341963239425?s=20

そこで伊集院光さんがとてもいいことを仰っていたのです。

「『諦める』ということは完全な分断。

『答えが出た』と思うことは偏見を生む。 」と。

つまり、分断と偏見を避けるためには、個々人が一生問い続けるしかないのです。

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しかし、これはとっても難しいことです。

ものすごく胆力が必要なこと。

一生答えが出ないものに対して、生きている限りずっと問い続けるということは、ともすれば拷問に近いと考えるひともいるかもしれません。(一生学び続ける必要があるから)

きっと、誰もが自分ひとりでは実現不可能なことのはずです。

対話ができる仲間がいることによって初めて、実現可能となる(のかもしれない)。

対話を通して、お互いが持っている問いを与え合うことで、ぼんやりと答えらしきものを探り続けられる。

「なるほど、あなたはそうやって考えるんだね。私はこうやって考える。」

こんなふうに相手の考えを聞かせてもらいながら、自分の考えも主張する。

その間に、また新たな問いがぼんやりと生まれてくる。

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正解を出すための過程のように思えるこの連綿とした対話こそが、実は本来僕らが辿り着くべき「問い続ける」というゴールそのものなのかもしれない。

明確なゴールテープなんかは、きっとこの世には存在しないのだと思います。

「ひたすら対話し続ける」この状態こそが、すでにゴールに立っている状態とも言えそうです。

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一生問い続けるために、僕らは一生走り続けなければいけない。

そのためには「伴走者」として、信頼できる仲間を見つける必要がある。

他者と出会うことの本当の価値や意味は、ここにあるのかもしれません。

Wasei Salonの中で、メンバーのみなさんと深い対話を繰り返していく中で、やっとそのことに気づくことができました。

本当にありがたいです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。

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