村上春樹さんの長編小説も、短編小説も、Kindleで出版されているものはすべて読み終えて、多数出版されているエッセイ集の数々も、もう大部分を読み終えたので、そろそろ明示的に思っていることを書いてしまってもいいと思うんだけれども、

最大限の敬意と尊敬の念を込めていま思うのは、村上春樹さんの視点って本当にシニカルで、ともすればイヤなヤツだと誤解されかねないよなあと。

特に30代の後半の頃の若い時代のエッセイを読んでいると、それをとても強く感じてしまいます。

もちろん僕自身は、そんな村上春樹さんの若い頃の文章に対して、ものすごく楽しみながら読ませてもらっているし、そしてそれをエッセイの中で書いてしまいたくなる気持ちもよく分かるなあと思いながら、ただただ共感しながら読んでいる身です。

でも、これを読んで、怒ったりするひとがいることも、なんとなく想像がつく。

もちろん、当時はそれだけ寛容な時代だったのだと思います。仮に今これを公の場で書いたら大炎上するだろうなあと思うこともたくさんある。

その点、書籍というフォーマットは、このように時代を超えても、当時と変わない文章のまま読むことができるから、本当にありがたいことだなあと感じます。

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じゃあ、具体的にどんなところに、そのような視点を感じるのか。

例を挙げ始めれば本当にキリがないのだけれど、たとえば、「ジョークとしてみれば面白い」という話が1985年に出版された『村上朝日堂の逆襲』というエッセイ集の中に収録されていました。

村上春樹さんがまだ36歳のとき、ちょうどいまの僕と同じ年齢のときに書かれていたエッセイです。

どんな内容かといえば、村上春樹さんが、ひょんなことをきっかけに日本で英会話を教えながら自分でも少しずつ日本語を学んでいる外国人の男の子と一緒に食事にいったときのエピソードです。

彼が、日本のTVを見ながら日本語の単語を習得しているということで「日本のTV番組についてどう思う?」と質問すると、その彼は少し考えてから「そうねえ、ジョークとしてみれば面白いんじゃないかな」と真面目な顔で答えた、というお話です。

それ以来、「ジョークとしてみれば面白い」という表現に、村上さんはしばらく取り憑かれて、TV番組のあり方に限らず、広く世間一般の状況にも敷衍できるのではないかという気がしてきたと思い始め、その「ジョークとしてのおもしろさ」を社会現象に、ドンドンあてがっていくような少し変わったエッセイ。

一部分ですが、具体的には以下のような感じです。本書から少しだけ引用してみたいと思います。

スポーツそのものは厳粛なものかもしれないにせよ、日本のプロ野球なんてある意味では今や社会的ジョークと言われても仕方ないのではなかろうか。      
美味い食事をすること自体は良いことだが、昨今のグルメ・ガイド・ブームはやはり一種のジョークとして見るべきだろうし、洋服屋の経営する高級(あるいは高級風)レストランなんて、これはもうジョークの純粋にして華麗な結晶としか言いようのないものが多いみたいだ。


85年の話なのに、素晴らしいほどに共感するし、それと同時に本当にイヤな視点だなあとも思わされます。繰り返しますが、もちろん最大限の敬意と尊敬の念を込めて、そう思います。

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でも、当時の村上春樹さんと、今の自分が同い年だから余計にそう思うのだけれど、これって別に単なるニヒリズムとかではないんだろうなあと。

むしろ、ご自身の中にある、何かとても大事なものを守っていたんだと思います。言い換えると、ある種の防衛反応だったんだろうなあと思うのです。

そして、ここが今日一番強調したいポイントです。

自らを深く不掘り下げていくためには「ジョークとしてみれば面白い」として受け流さないとやっていられないということでもあったのだろうなあと思うのです。

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「鳥井さん、それはあまりにも村上春樹の肩を持ちすぎでしょ」と思われるかもしれないけれど、でもそう思うのだから仕方ない。

僕自身の自己保身もまさに似たような側面があるから、余計にそう感じてしまうのだと思います。

じゃあ、それは一体どういうことか?

村上さんは、本書の続きの部分で以下のように続けています。

それが良いことなのか良くないことなのか僕にはよくわからないけれど、そうする以外にこの「ジャンク(ごみ)の時代」を有効に生き延びる方法はないんじゃないかという気はしないでもない。つまり本当に自分にとって興味のあることだけを自分の力で深く掘り下げるように努力をし、それ以外のジャンクはジョークとしてスキップしちゃうわけである。     


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このスタンスは、なんだかとても共感できるなあと思って読んでしまいました。

現代社会を生きていると、すべてを本気だと捉えて、すべてを真正面から相手にしていたら、それこそ身が持たない。

そして、そうやって真面目に受け取ろうとする人ほど、鬱のような症状にも陥りがち。

誤解を恐れずに言えば、世の中の大半の物事はジャンク(ゴミ)なんですよね。僕も、このような視点として眺めていることのほうが圧倒的に多いです。

流行り物を見に行くときも、「ジャンクを面白がる大衆心理」を知りたくて見に行くことのほうが圧倒的に多いですし、その視点自体が、ダメだダメだと思いながら、見ているのもまた事実です。(言い換えると、その引け目みたいなものが同時にあることもめちゃくちゃ大事なこと。)

何でもかんでも真に価値あるものだと思いこんで、真剣に学び取ろうとしてしまうとドンドン辛くなってくるし、そのような向き合い方や優しさがにじみ出る態度が、メンヘラや詐欺師のような人々にもドンドンと漬け込まれる原因にもなっていく。

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先ほどの文章の続きにおいて村上春樹さんは「おそらくこれからの何年間かにわたって、我々は好むと好まざるとにかかわらず、そのような生き方を要求されることになるのではないかという気がする。」と書かれていて未来を予言しているわけでもあるのですが、

実際に、そこから30年が経過して、また別のエッセイ集の中で「年齢を重ねることについて
」とても興味深い話を書かれていました。

「年をとって、おかげで若いときより楽になったなと思うことは探してみると意外にたくさんある」と書き出しで語りながら「たとえば『傷つきにくくなる』というのもそのひとつです」と書いてあったのです。

「誰かに何かひどいことを言われても、何かひどいことをされても、若い頃のように、それがぐさっと胸に突き刺さって夜も眠れなくなる、というようなことは少なくなる」と。

以下は、『村上ラヂオ3: サラダ好きのライオン』というエッセイ集からの引用になります。

そういうのができるようになると、もちろん気持ち的には楽なんだけど、考えてみればそれはつまり、僕らの感覚が鈍くなっていくということですね。傷つかないように厚い鎧を着たり、皮膚を固くしたりすれば、感じる痛みは減るけれど、そのぶん感受性は鋭さを失っていく。若いときのような生き生きとした新鮮な目で世界を見ることができなくなる。要するに僕らはそういうマイナスと引き替えに、現実的な生きやすさを身につけていくわけだ。まあ、ある程度仕方ないことなんだけどね。


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この間の30年間の隔たりの中で、一体何があったのか、あくまで僕らは想像することしかできないわけだけれども、この時間的なズレの中で書かれたものを、同じタイミングで、電子書籍を通して同時に読めてしまうのは、本当にいい時代だなあと思ってしまいます。

これを読むとなおさら、「ジョークとしておもしろい」というスタンスを持っていることは、自分の中の大事な何か、敏感な何かをを守るためのある種の防御反応だったんだろうなあと僕なんかは思ってしまうわけです。

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で、最後に変な提案だと思われてしまうかもしれないけれど、もっともっとジョークとしておもしろがろう!別にいちいち真に受けなくてもいい。シニカルでもいいと思うんですよね。

僕の周囲には、30代に入ってそのような真面目すぎる葛藤に苛まれているひとが多くて、本当によく見かけます。きっと本質的には優しいひとが多いからだと思います。

なんでも真面目に受け入れすぎていたら身が持たないし、結局のところ本当に年齢を重ねてしまえば、敏感な部分も次第にすり減ってしまうわけですから。本質的に受け止めすぎたひとが、中年クライシスなんかに陥ってしまっているような気もします。

この「ジョークとしておもしろい」という視点は、単なる冗談やシニカルな軽さだけではなく、現代社会を生き抜くための一つの知恵なのだと僕は判断しました。

自分にとって本当に大切なものは何か、それを見極めながら適度な距離感を持って、世界と向き合っていきたい。

そんなシニカルな姿勢も、心の健康と自らの創造性を守っていくためのひとつの健康法だと言えそうです。

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もちろん、すべてをジョークとして片付けてしまうのは危険だとは思います。でも、そんなポリコレ的なことを言っていても仕方ない。

というか、これは完全に筆が滑ったと思われても構わないのですが、僕の文書を読んでいるような人たちに対してならハッキリと言い切ってしまってもいいと思うのは、世の中の大半のものは自分にとっては、ジャンク(ゴミ)であるということ。他者に対して敬意を持とうとするのは、それを正しく認識した後からでも、決して遅くはない。

自分自身が真剣に取り組むべきことと、軽く受け流すべきことを適切に判断し、自分の時間と体力、そして精神力を有効に活用するための生存戦略として、いま本当にとても大事なスタンスだなあと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。