最近、子どもとお金の関係について、よく考えてしまいます。
というのも、子どもの金銭感覚について考える機会がなんだか頻繁に続いたから。
たとえば、いま若い子の中で爆発的に流行しているAirPods Max。この暑い中、10代の子たちが意気揚々と街の中でつけているのを、本当に頻繁に目にします。
定価は84,800円もして「今の若い子はヘッドホンにそんな金額を出せるのか、すごいなあ」と思いながら、これまで自分は眺めてきました。
でもよくよく考えれば、今の8万円というのは、僕らの子供時代の金額感で言えばきっと、4万程度なんだろうなと思います。だったら当時のSONY製のヘッドホンとかも、それぐらいの金額だったと思います。
実際、AirPods Max自体も発売当初は6万円台で、その後に円安が続き、今の価格になっていったわけですからね。
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で、だとしたら、僕らのような子どものいない親戚勢が、バカのひとつ覚えみたいに甥っ子や姪っ子たちにお年玉やらなんやらで、お小遣いとして1万円札をあげているのって、実際には当時の5,000円程度なんだろうなと思ったんですよね。
じゃあなぜ僕らは、何も考えずに1万円札を子どもたちに渡しているのかといえば、それは自分の子供時代に、親戚がそうしてくれていたから、以外に何の理由もないはずで。
そう考えると、現代の子どもたちの「実質可処分所得」ってじつはめちゃくちゃ減っているんだろうなと思ったのです。
そして、もし当時自分に与えられていたお小遣い及び、親戚勢からの臨時収入が半分になっていたら、子供時代の過ごし方もきっとまったく違っていただろうなあと思います。
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じゃあ、どうやって親戚勢が、子どもに1万円札以上の金額を渡すように仕向けるのか。そのような慣習を生み出すためにはどうすればいいのかって考えると、これはなかなかに難しい問題だなあと思います。
たとえば世の中に「5万円札」のようなものが出てくるのを待つしかない。きっとこれまでもそうやって紙幣というのは、インフレの中で切り上げられていったんだと思います。
このように、周囲の大人がインフレに慣れているかどうかっていうのは、これからの子どもたちにとっては、本当に死活問題だなろうなあと。
ある種、周囲の大人たちから体罰を食らうよりも、デフレ脳の大人たちに育てられる方が、もしかしたらツライ時代に突入していくのではないか、そんなことをふと考えてしまいました。
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じゃあ、子どもたちには、自分の力で「商売」をするチャンスはあるのか。
そのような種のがあったとしても、それをことごとく潰しているのも、これまた周囲の大人たちなわけですよね。
たとえば最近、ネット上で「子供食堂をはじめたたこ焼き屋さん、『10円で買ったたこ焼きを100円で友達に転売している子がいる』と発覚して中止に」という記事が話題になっていました。
具体的な現場の状況もわからないから、この件に関して何も言えないし、この話を直接批判したいわけでもないです。でも、この見出しを読んだだけでも、構造としてはなんだか非常にわかりやすい話だなあと思いました。
子どもの”無邪気な”利ざやを稼ぐ行為を、おとなの常識や倫理観に照らし合わせて、それがすぐに批判され潰されてしまうわけですよね。
でも一方で、「安く仕入れて、高く売る」という行為は、商売の基本でもあるわけです。
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この点、たとえば投資の神様と呼ばれるウォーレン・バフェットは、自分が子どものころには、コカ・コーラの6缶パックを自分で仕入れて、それを1本ずつバラして売って、その利ざやを稼いでお小遣いにしていたらしいです。
また、日本の経営の神様と呼ばれるPanasonicの創業者・松下幸之助も同様で、丁稚奉公先のお客さんに、タバコのお使いを頼まれることが頻繁にあったから、タバコをまとめ買いしておいて、おまけで付いてくる分をそのまま自分の儲けにしてポケットに入れていたそう。
タバコを頼んだ瞬間に、そのお金と引き替えにタバコが手に入るわけですから、客にも非常に好評で、丁稚奉公先の親方にもそのアイデアは褒められたらしいです。
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でも、そうやって利ざやを稼ごうとするときに世間とのハレーションが必ず生じる。
だからこそ、そのうえでのまさに「君たちはどう生きるか」なんだと思うのですよね。
ここがめちゃくちゃ大事なところだと、僕は思います。今日の一番のポイントでもある。
実際、松下幸之助もこの逸話において、半年ほどして親方から「周囲がうるさいのでやめておけ」と言われて、タバコの買い置きをやめることにしたそうです。
他の丁稚たちが、松下幸之助のこのような利ざやを稼ぐ行為にズルいなどいいながら、嫉妬したことが直接の原因だったそう。
自分としては何も悪いことをしたつもりもなく、必死にお金を稼ごうと知恵を働かせて創意工夫をしただけにもかかわらず、倫理観や道徳観、世間の壁にぶち当たったわけですよね。
このときに、寄り添ってくれる大人がいることこそが大切で、松下幸之助の例で言えば、このときの親方の見守る視点があったことはとても大きかったんだろうなと思います。
そして、そうやって自らの世間と衝突をして、葛藤を抱えることに商売やビジネスを行う上での成長の機会も潜んでいる。
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吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』の「コペルくんとおじさんの関係」はまさにそれが描かれていました。
だからこの本は現代まで残り続ける名著で、宮崎駿監督もこのタイトルを自身の作品のタイトルに選んだわけですよね。
つまり、ハックできることを知っているし、実際に自らにおいてソレができるけれど、ソレをしない矜持みたいなところに、その人間の人柄が現れる。
それをどうやって自分自身で思案に思案を重ねて、子ども自身のちからで見つけてもらうかが一番大事なことであり、そこに大人がすぐに答えることは、百害あって一理なしということなだろうなあと。
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もちろん、ここに答えなんか最初から存在しません。
ゆえに、ひとから疎まれないように自らを抑制することはカンタンです。なにか良いアイディアを思いついても、親や教師に怒られそうだなと一瞬でも判断したら、ただ黙って不作為を貫けばいい。
そして、そういうことをやっている他の子どもを告発する側にまわり、他人の足を引っ張ればいい。
実際に多くの子どもたちは、そうやってただ身を潜めているだけだったりもする。自ら進んで親から咎められそうなことは一切しない。フーコーのいう「規律訓練型権力」に服従して、まさにパノプティコン状態ですよね。
一方で、そのように隠れていた子どもは、大人の目が届かなくなったところで「晴れて自由の身だ!」ということで、インターネットを中心にグレーなビジネスや、パパ活なんかに手を染める。
大人たちは「あんなにも良い子だったはずが、一体なぜ…!?」って嘆くのかもしれけれど、それまでの監視がなくなったのだから、猫をかぶれてしまう子どもほど、親の監視下から逃れて、ハックし放題になったわけだから、そうなるのも当然のこと。むしろ必然の結果だと思います。
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本来、そういう無邪気なハックというのは、子供時代に味わっておくべきだと僕は思います。
でも今は、子供時代に頭ごなしで否定をされるから、そのハックの体験さえできない状況。それは、子どもたちに良かれと思って、最初から完全に大人たちが善意で否定してしまうから、商才の芽なんかも完全に摘まれてしまうわけですよね。
まさに「地獄への道は善意で敷き詰められている」状態です。
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この点、最近読んでいた、大澤真幸さんの『この世界の問い方』という本の中に非常におもしろい話が書かれてありました。
19世紀末に、作家のオスカー・ワイルドが述べていたことらしいのですが、彼は次のような趣旨のことを述べていたそうです。
他人の苦難に同情することは、わりと簡単なことである。それに比べて難しいのは、思想に共感することである。人は、周囲に貧困や飢餓があれば、とても立派な意図をもって、それらの悪を矯正する仕事に、真剣に、そして感傷的にとりかかるだろう。しかし、ワイルドによると、その治療は病気を治さず、むしろ長引かせる。実は、治療そのものが、病気の一部なのだ。
そして、「最悪の奴隷主は、親切な奴隷主である」と語ったそうです。
この例は、奴隷主と奴隷の話だけれども、大人と子どもの関係でも全く同じことが言えるはず。
「我が子が可愛い」という愛情が絡んでくるという文脈で言えば余計に複雑で根深い問題になるのかもしれない。
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先回りして、子どもの行動制限をするのではなく、自然な発露、社会構造をハックしたくなる子どもと共に、一緒に問い続ける姿勢や態度、その問いに寄り添う姿こそ、本当は求められているんでしょうね。
そして、子どもの自らの思考によって「否定の否定」のような考え方にたどり着いて見つけてもらうことが、何よりも大事だなあと思います。
問いが立ち、その問いを思考した結果、360度一周することの意味を僕らはあまりにも軽視しすぎている気がします。
「結局同じ場所に戻ってくるのだから、だったら最初から余計なことはするな」と親は言うし、子どもも、余計なことをすれば怒られることを知っているから「答えを知っているなら最初から答えを教えろ、コスパやタイパが悪いじゃないか」と言う。
でも、本当はそうじゃない。一周して、同じ場所にいることが大事なんですよね。それがまさに「否定の否定」。
なぜ先人たちは、それをしてこなかったのかを自分の頭で考えることつながり、ときに自ら失敗をして、初めて身に染みてわかることがあるはずで。
それが、真の意味で「学ぶ」ということだと思います。
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そしてこれは、当然子どもの話だけじゃない。
大人においても同じことが言えると思います。
というか、この「否定の否定」の価値を理解していない人間が、「幼稚」なのであり、子どもであるということなんだろうなと思います。
「否定の否定」を自分自身で思考し体験すること、本当にいまとても大事な視点です。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。