なんでみんな、もっと「鞄持ち」をやらないんだろう。

これはずっと昔から、ほんとうに不思議に思っていることのひとつです。

「このひとの仕事を間近で見てみたい」と思える相手がいて、そのひとのそばで働けるチャンスもあるのに、多くのひとはそういう場面で、まず先に「正当な対価」を求めてしまう。

見合った給料をください、暦通りの休日もください、と。

正直に言えば、「アホか」と思ってしまいます。

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仕事というのは、尊敬できるひとの間近で見て盗むもの。

そして、盗むことさえできてしまえば、あとは自分でも同じようなことを実践するだけ。そうすれば、そのひとと同じようなやり方で、自分も似たような仕事をひとりで請け負えるようになるのだから。

だとすれば、みんな正当な対価を要求する相手を間違えていると思うのですよね。その対価は、いずれ独立したときに、自分のお客さんに対して請求するものだと僕は思います。

わざわざ、自分の先生役を引き受けてくれる相手に対して、 適正な対価もらったり、自分都合の休日を申請してどうすんのよ、と。

逆にそうやって、いつまでも目の前の相手と等価交換の論理で働いているから、時間を切り売りする働き方から一向に抜け出せない。

そして、そんなふうに等価交換ばかりを求められたら、鞄を持たせる側だって、「だったらもう、優秀かつ眠らないAIでいいや」となるはずなんです。

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で、こんなことを書けば、「労働搾取を正当化するのか」という声も聞こえてきそうです。その話は、あとでちゃんとします。

その前に、なぜ僕がここまで「もったいない」と感じるのか、その理由を書いておきたい。

まず、多くのひとが鞄持ちを苦役のように感じてしまうのは、そもそも独立するつもりがないからだと思います。

独立する気がないから、学ぼうともしない。

与えられた仕事をこなして、それで自分がやるべきことはやった気になってしまう。会社の売上なんてまったく意識しないし、経営者の目線も育たない。

言われたことをやって、毎月決まった日に給料が振り込まれて、それこそが社会人としての「仕事」だと思ってしまう。

でも、ほんとうはそうじゃないんですよね。

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たとえば同じ打ち合わせの席に座っていても、「自分の担当部分を終わらせよう」と思っているひとと、「いつか自分がこの商談をつくる側に回るんだ」と思っているひとでは、見えている景色がまるで違います。

後者なら、そもそもこのお客さんとはどうやって出会ったのか、相手はいったい何にお金を払っているのかが、気になって仕方がないはずです。

さっき社長がある依頼をやんわりと断ったのはなぜなのか。相手のある一言にだけ、妙に反応したのはどうしてなのか。そういう、本人でさえうまく言葉にできていない判断に、毎日いちばんいい席で立ち会えるわけです。

完成した成果物なら、あとからいくらでも眺められます。でも、その手前にある迷いや選択は、そばにいないと絶対に見えてこない。

僕がいう「経営者マインド」も、会社に尽くせという話ではないんです。ひとつの仕事がどこから生まれ、どうやって対価が支払われるところまでたどり着くのか、そこまでを全部自分ごととして見る、ということです。

それさえできれば、目の前で起きることすべてが、自分が将来独立するときのための教材に変わってくるわけですから。

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…と、ここまで書くと、「それはきれいごとだ」と思われるかもしれません。

なので、少しだけ自分の話をさせてください。

僕のファーストキャリアは、中国で日本人が起業したITベンチャー、その社長の鞄持ちのような仕事でした。

場所は北京で、初任給は日本円で10万円程度。その仕事を約二年間ぐらい続けました。

同じ年に慶應義塾大学の法学部を卒業した友人たちのなかで、一番初任給が安かった自信があります。

でも、当時の北京で20代の男子が暮らすには、それで十分な金額でした。だからそこにまったく迷いがなかった。

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そこで僕は、社長にベタづきで仕事を学ばせてもらいました。将来独立したいことも明確に伝えて、です。

そして、そこで得た様々な現場や、知見をもとに、僕はのちに独立することもできました。

いまでもはっきりと感じるのは、もしあのとき社長のそばで学ばせてもらった体験がなければ、自分で会社を起こすことなんて到底不可能だった、ということです。

だからこそ、あの時間を「10万円で割に合わない労働をさせられていた」と振り返ることは、僕にはどうしてもできません。

むしろその逆で、本来なら授業料を払ってでも学ばせてもらいたかったことを、北京でまともな生活ができるだけのお金までいただきながら、丁寧に学ばせてもらっていた。

20代前半の若造の自分に、あのチャンスを与えてくれた当時の社長には、ほんとうに感謝してもしきれないぐらいです。

そんな機会、そうそうあるものじゃないですからね。

それを苦役だと思ってしまうことのほうが、よっぽど間違っているなあと僕は思います。

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じゃあ、なぜみんなそう思えないのか。

実はこの話を、AIにも同時に相談してみたんです。すると返ってきたのは、「目先の給料だけで仕事の価値を測るのはもったいない。ただし、学べる仕事であっても対価はきちんと受け取れるし、学びの価値と待遇の悪さは分けて考えるべきだ」という、とても真っ当な意見でした。

それは、明らかに正しい。正しいんだけれど、僕は思わずこう聞き返してしまいました。

「そういう優しい視点が、逆にみんなを時間労働に居着かせてしまっている自覚はあるのか?」と。

働いた時間に見合う対価を受け取ろう、というのはもちろん大切なことです。

でも、それを仕事選びの最上位の物差しに置き続けると、いまの自分には値段をつけられない経験まで「割に合わないもの」として退けてしまう危険性がある。

将来の働き方そのものを変えてしまうかもしれない機会まで、みすみす見逃してしまうわけです。

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「損をしなくていいんだよ」という優しい正論が、結果としてそのひとを、いまいる場所にとどまらせてしまう。ここには、そんな罠があるように思います。

そこで身につけたノウハウを本当に盗めたなら、月10万円や20万円くらいの複業であれば、いくらでも引き受けられるようになるし、そこから独立することだってできる。

その先まで見通したとき、目の前の給料が「適正かどうか」だけで経験を値踏みすることが、どれだけもったいないことか。

ただ、ひとつだけ区別しておきたいのは、本人が「給料以上に、ここで盗みたいものがある」と自ら望んで選ぶことと、雇う側が「学べるんだから待遇を求めるな」と言うことは、まったくの別物だということです。

僕がすすめたいのは、あくまで前者のほう。後者を平気で口にするような経営者のもとでは、絶対に働いちゃいけないと思います。

僕が言いたいのは、自分からそのチャンスを積極的に掴みにいけ、ということです。

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そして、鞄持ちで受け取れるものは、ノウハウだけではない。

むしろ、僕がいちばん伝えたいのはここです。仕事というのは結局のところ、人間関係からしか生まれてこない、という部分。

たとえば、住み込みで働く丁稚奉公も、もともとはそういうものだったはずです。松下幸之助も九歳で大阪に丁稚奉公に出て、そこで商売のいろはを身をもって学んだと言われています。

店主のそばで、いわば「秘伝のタレ」のつくり方を、間近で教わるわけです。

また、昔の商家には「暖簾分け」という仕組みもありました。長く奉公して信頼を得たひとが、屋号を分けてもらって独立する制度です。

これは言ってみれば、師匠の信頼を「間借り」させてもらうということですよね。

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同じことは、いまでも頻繁に起きていると思います。「あのひとのもとで働いていたことがあるのなら、一度話を聞いてみようか」と。

独立したばかりで何の実績もない人間に、最初の扉を開いてくれるのは、たいていこういう信頼の間借りだと思います。

ただ、その信頼は、紹介してもらうために近づいたところで手に入るものではない。

約束を守るか、何を大切にしているか、そんなふうに師匠のそばで働いた日々をずっと見てもらっていたからこそ、「このひとなら」と誰かに紹介してもらえる。

しかも、そういう関係をつくる力は、座学ではまず身につかない。現場に入って、実際に誰かと関わるなかでしか育たないと思います。

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で、ここで、冒頭のAIの話に戻ります。

仕事を「決められた作業と報酬の交換」としてだけ捉えているなら、任せる側は当然、コストとスピードで比べるようになる。

そして、その比較の土俵には、もうAIが完全に上がっていますよね。

給料も休日も求めず、夜中でも黙々と動いてくれる相手なんですから。等価交換で勝負している限り、人間には勝ち目はもうほとんどありません。

とはいえ、「AIに負けないように、もっと安く、休まず働け」と言いたいわけではまったくないんです。それこそ、際限のない消耗戦ですから。

むしろ、雑用をAIに任せられるようになればなるほど、人間に鞄を持ってもらう理由は別の理由に変わっていくはずです。

具体的には、「便利な労働力がほしい」から、「このひとに、自分の仕事を手渡したい」という関係性に移り変わっていくはず。

信念とか、理念とか、哲学、そのバトンリレーだけはやっぱり人間にしか任せられない。

まったく同じ屋号を継いでくれなかったとしても、自分が先人たちから受け取ってきた、そのバトンが、ちゃんと次世代にも引き継がれていくという喜びは、何物にも代えがたいものだと思います。

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だからこそ問われるのが、「鞄持ちを、やらせてもらえるかどうか」なんですよね。

大事な商談も、迷っていることも、仕事の内側も誰にでも見せたいわけじゃない。

自分が何を与えてもらえるかだけを考えているのか、それとも相手の仕事に関心を持って、自分にも役に立てることはないかと積極的に動いているかどうか、その違いは、驚くほど関わり方に表れてしまうものです。

そして思想や哲学までを含めて、自らが受け継ごうとしているかどうか、なんてほんとうに丸わかりです。

AIと労働力で勝負しなければいけない時代に必要な姿勢は、まさにここにあると僕は思っています。

そしておもしろいのは、そうやって現場で見つけた役割を実際に果たすときには、今度はAIが鞄持ちや丁稚奉公をしている側の人間の「強力な味方」になってくれることです。

雑務は、すべてAIに任せることができるんだから。

下っ端の自分のさらに下にも、ちゃんと最初から何でも言うことを聞いてくれる部下(AI)がいる状態は、ほんとうに恵まれている時代だなと思います。

だから僕は、AI時代にこそ鞄持ちをやってみたらいい、と本気で思うのです。

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で、勘が良い方は既にお気づきだと思いますが、いま僕がWasei Salonで「通い編集者」という企画を立ち上げたのもまさに、この話と地続きです。

好きなお店や、真摯に仕事をしているひとのもとに通い、話を聞かせてもらうこと。そのひとが大切にしている信念を引き出して、AIも使いながらホームページやECサイト、noteやSubstackといった形にして発信業務を担っていく。

その往復のなかで相手への理解が深まり、自分にできることも少しずつ見えてくるものがあると思います。

つまり、これは形こそ違えど、現代の鞄持ちなんだろうなあと。

鞄を持たせてもらう相手は、大企業の社長である必要なんてない。

近所のパン屋さんでも、長年通っている喫茶店のマスターでもいいんです。自分が本気で憧れていて、尊敬をしていて、このような仕事人になりたいと思えるひとであれば、どんな相手だって、自分の師匠になりえる。

そんな誰かのそばで、実際に役に立とうとする。しかも定期的に。それ自体が自分の学びになり、やがて自分の仕事の糧にもなっていく。

そしてその方が先人たちから受け取ってきた大事なバトンも、気づかぬうちに自然と受け取ってしまうはずです。

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AI時代に何を学べばいいのか、どのAIツールを覚えればいいのか。そう考えることも、もちろん大切です。でも、その前にひとつだけ、自分に問いかけてみてほしいのです。

自分はいま、誰のそばで仕事を学んでいるだろうか、と。そして、一体自分は誰の力になり、どんなバトンを先輩世代から受け取りたいのだろうか、と。

まさに、情けは人のためならず、です。

今日のお話が、自らの「はたらく」の哲学において、そんなことを考えるきっかけとなったら幸いです。