先日、ギズモード・ジャパンに掲載された長谷川賢人さんのこちらの記事を読みました。
1995年から2026年までに生まれた日本のウェブメディア1,549媒体の創刊と終了を、ひとつの年表にまとめたお話です。
閉じた媒体の寿命は、中央値で約5年。始まりは華々しいのに、終わりはとても静かで、多くはいつのまにか更新が止まり、フェードアウトしていくのだ、と。
僕自身も、この年表にも載っている「灯台もと暮らし」というウェブメディアを運営する側にいたので、読みながら本当にいろいろなことを思い出しました。
なかでも引っかかったのが、記事で紹介されていた「生きてるのか死んでるのかわからないメディア」という言葉です。
放置されたメディアを指した言葉ですが、僕にはむしろ逆側にこそ当てはまるように思えたのです。
具体的には、更新は続いているし、媒体名もあるけれど、じゃあ、何のためにメディアを始めたのかが、もう外からはまったく見えなくなっているメディアです。
更新されていれば、それは本当に「生きている」と言えるのか、と。
今日はそんな問いから出発して、お蔵入りや更新停止こそ、AI時代には蘇る可能性を秘めているのではないか、という少し逆説的なお話を書いてみたいと思います。
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そもそも、ウェブメディアは、始めるのは簡単でも、続けるのは本当にむずかしいです。
最初はみんな、会いに行きたい人や、届けたい言葉があったはずなんです。でも運営を続けるには数字が要る。
アルゴリズムや流行が変わるたびに、テーマや言葉選びを「今、通用するもの」へ少しずつ寄せていく必要が出てくるわけです。
そのための、ひとつひとつの妥協には理由があるし、僕自身、まったく他人事ではありませんでした。
ただ、その積み重ねの果てに、媒体名だけが残り、最初につくりたかったものからは遠く離れてしまう。生き残るための選択を重ねた結果、生かしたかったもののほうを失ってしまうことって往々にしてあると思うんですよね。
僕が「魂を売る」と呼びたくなるのは、こういう形だけの延命のことです。
悪意ではなく、なんとか続けようとした善意の果てに、それは静かに起きてしまうこと。
そして年表の上では、それでも「現存」の欄に入り続けます。
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この点、灯台もと暮らしで届けたかったのは、これからの暮らしを体現しようとしている、主にローカルで暮らす人々の、ひとりひとりの生の声でした。
当時、地方創生の文脈で光が当たるのは、仕掛け人や経営者ばかり。
そこで暮らす人たちは、まるで映画のエキストラのように背景として扱われていました。
でも実際に訪ねてそんな方々の話を聞くと、どの人にも、その人にしか語れない暮らしがある。そこにちゃんと光を当てたかった。それが僕らにとっての「魂」だったのだと思います。
続けるために何を変えればいいかは、ずっと考えていました。
正直、収益化の道はいくらでもあった。でも、ある一線を越えると、灯台もと暮らしが灯台もと暮らしでなくなってしまう。その感覚だけは、当時からずっとはっきりとありました。
そして、コロナ禍に、メディアの更新自体は止まりました。
当時から何かを見通していたわけではない。あれでよかったのか、自分でもずっとわからないままでした。
それでも今は、結果論として、魂を売ってまで続ける選択を取らなくて本当によかったと思っています。
なぜなら、そう思えるようになった、ごく直近の、小さな体験があったんです。
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サロン内ではすでに共有しましたが、2023年に撮った、ある動画がありました。
「これは残したい」と思って夢中で撮ったものの、編集する技術も時間もなく、一度も形にならないまま、フォルダの奥で眠っていたもの。
それが最近、AIに編集を手伝ってもらったことで、三年越しに、人に見せられる動画になったのです。
F太さんとのVoicyのプレミアム配信でもお話したのですが、見返したときの感覚は、便利な時代になったという驚きとは、少し違いました。
「あのとき、自分はこんなにもいいことをしていたんだ」と、三年前の自分にはじめて教えてもらったような感覚なんです。
つまり、あの動画は、価値がなかったから、お蔵入りしたわけではなかった。形にできる条件が、まだそろっていなかっただけなのかもしれないなあと。
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今回、AIが補ってくれたのは、編集の技術と、作業の時間です。
でも、その場所に足を運んだことや、そのときに出会ったひとたちのこと、「これは残したい」と感じたことなどは、三年前の僕にしかできなかった仕事です。
どれだけAIが進化しても、あの日あの場所に戻って、撮り直すことはできません。
完成させられなかったことと、何も生み出していなかったことは、まったく別のことだったわけです。
灯台もと暮らしのサイト内に残る記事や写真もまったく同じです。当時あの土地で暮らしていた人たちと、当時の僕らのあいだでしか生まれなかったものです。
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ちなみに、冒頭の長谷川さんの年表そのものも、実はAIの力でつくられたものだったんです。ウェブアーカイブ(Wayback Machine)に残っていた記録を、Claudeを使って拾い集めていったのだそうです。
眠っていた記録が、AIによって蘇った好例ですよね。一方で記事には、ドメインごと消えてしまった媒体の記事は、もう誰にも読めないとも書かれていました。
残っていないものは、どんなAIでも蘇らせることはできません。お蔵入りは蘇りうる。でも、消去してしまったものは、もう一生蘇らない。
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だから僕は、AI時代には、魂を残したまま凍結し、お蔵入りにしておくことこそが、本当の意味で「生き残る」道なのではないかと、最近考えるようになりました。
当然、続けること自体を否定したいわけではありません。僕自身、このブログを13年間毎日書き続けています。
問題は、続けるために何を差し出すのか、のほうです。
そして、下手に加工してしまうと、逆に使い物にならなくなる。
あの動画も編集したからこそ蘇ったので、加工そのものが悪いわけではありません。問題は、今通用する形に合わせるために、その素材にしかなかったものを、削り落としてしまうこと。
取材相手のためらいを含んだ言葉を、どこにでもある成功談に整えてしまうように、です。
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以前、F太さんとAIとの共作小説について話したとき、僕は「蒸留する前の水に、どれだけ自分の魂を含めさせられるかが大事になる」と話しました。
AIは、とても優秀な蒸留器のようなものだとつくづく思います。でも、薄められ、混ぜ物をされた水から、当時の魂を取り出すことは、むずかしい。
もっともらしい再現はいくらでもつくれても、それは当時の言葉や関係そのものではないからです。
未来の可能性を、今の正解に合わせて潰さないこと。そのために、あえて立ち止まるという選択肢もあるのだと思います。
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ただし、ここまで書いてきて、個人的にひとつ引っかかっていることがあります。
「いつか蘇るかもしれないから、とっておく」。これだけだと、過去の仕事の価値を、また未来の役に立つかどうかに預けてしまうことになってしまう。
この点、以前このブログで、「心ある人に捨てられたい」という話を書いたことがあります。
参照:「心ない人に買われるくらいなら、心ある人に捨てられたい」伝...
形だけを保つために延命される伝統よりも、心ある誰かにちゃんと弔われ、捨ててもらったうえで、その面影やなりふりが次の文化へ乗り移っていくほうが、よほど健やかな継承なのではないか、そんな話です。
長谷川さんの記事で紹介されていた、放置されるくらいならきちんと終わらせてもらえるほうが嬉しい、という声なんかも、きっと同じ感覚なのだと思います。
凍結して蘇りを待つというのも、見方によっては、終わりを認めない延命の一種に見えてしまう。前半で批判した「形だけの延命」が、そのまま自分に返ってくるわけです。
つまり「弔い」という僕が大事にしている概念と、ここまで書いてきた内容はバッティングする。というか、矛盾するようにも思えるということです。
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ただ、矛盾はしないとも思っています。
灯台もと暮らしという営みは、すでに終わりました。あの頃の編集部も、あの時期の人間関係も、同じ形で戻ることはもう二度とありません。
それは覆ることがない事実です。
ただ、それでも、あの土地で人に会い、言葉を交わし、何かを残そうとした仕事まで、なかったことにはならないと思っています。
言い換えると、「終わった」と「無価値になった」は違う。
だから、まず言っておきたいのは、たとえ二度と蘇らなくても、あの仕事をした意味は失われない、ということです。
そのうえで、AIによって思いがけず続きを持つ可能性まで見えてきた。それが今、ただただ嬉しいんです。
この順番さえ間違えなければ、蘇りは過去の価値を証明するための条件ではなく、大切にしていたものから、もう一度何かを受け取れるかもしれない出来事になります。
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つまり、僕の言う凍結は、終わりを認めたくなくて、いつか同じ姿に戻すために保存しておくことではありません。
終わりはちゃんと受け入れる。でも消さずに残して、それが未来でどう受け取られるかまでは決めないし、消えられない。
保存する意志と、そのあとを支配しない態度、その両方の話なんです。
守りたいのも、一文字も変えてはいけないという固定ではなくて、そこに何があったのかを受け取る前に、都合のよい素材へと加工し尽くしてしまわないこと。
元の媒体名が残らなくても、ちゃんと受け取った誰かの文章や仕事の仕方に、かつてのまなざしがふと入り込む瞬間もあり得るし、面影が受け継がれるとは、きっとそういうことなのだと思います。
AIは、残されたものを探し直し、別の表現へ移すところまで手伝ってくれます。でも、それだけで弔いが成立するわけではない。
むしろ再利用がたやすくなるほど、「心ある人」であることの意味は、これからドンドン大きくなっていくはずです。
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お蔵入りや死蔵という言葉は、以前の僕にとって、可能性が閉じたことを意味する、少し寂しい言葉でした。
でもAI時代の今は、まったく違って聞こえています。
あの営みは、あのときに確かに終わった。でも、そこで生まれたものの行き先までが、終わったわけではない。
撮ったあの日には何ひとつ形にならなかった動画が、AIの力を経由して、突如三年経って舞い戻ってきたように。
灯台もと暮らしで出会った人たちの声も、あのとき届けたかった誰かに、想像もしなかった形でまた新たに届くのかもしれません。AIの力によって、です。
そう考えると、本当に今から楽しみです。
みなさんの手元にも、途中で止まってしまったブログや、撮ったまま見返していない写真や動画がきっとたくさんあると思います。
それらを、今の正解に合わせて加工し尽くしてしまう前に、きちんと終わりを受け入れて、魂ごと、そっと残しておいて、未来へ手渡していく。
そんな選択肢があってもいいはずです。
というか、そんなことが起きるからこそ、残すということの意味合い自体が、これからのAI時代ではこれまでとはガラッと変わってしまう可能性を秘めているんだろうなあと。
そこを踏まえて、これからはコンテンツを中心に、日々の言葉や素材を、魂を残したまま丁寧に刻んでいきたいなあと思います。
いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、何かしらの参考となったら幸いです。
2026/09/30 15:02
AI時代は、魂を売って続けるよりも、魂を残したまま凍結しておく。
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