先日、Xにこんなことを書きました。
「正解を選ぶのではなく、選んだ道を正解にする」という言葉は大事だけれど、現代はむしろ「選んだ道を正解にしなくてもいい」と思える勇気のほうが大事なんじゃないか、と。
自分の選択は間違っていたと認めて、立ち返る勇気の話です。
というのも、AIを使いながら、自分の選んだ道を「経済的な正解」に近づけていく方法は、これからますます増えていくはずです。
でも、儲かっていることが、そのまま自分の選択や信念まで正しかった証拠になってしまうと、成功すればするほど、逆に引き返せなくなる。
お客さんは喜んでいるし、周囲からもグングンと評価されて、実際にお金もちゃんと入ってくる。
そんななかで「でも、自分はこのまま進みたいわけじゃないんだよなあ」と感じたとしても、その違和感のほうを間違ったものとして処理してしまう。
そういう地獄への堕ち方も、きっとこれからの未来ではかなり高い確度で実現するのだろうなあと。
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で、ここからもう少し考えてみたときに、ひとつ不思議に思ったことがありました。
たとえば、細木数子を描いた『地獄に堕ちるわよ』や、ディカプリオ主演の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』など、欲望に突き進むことの危うさや、その先に待っている破滅を描いた作品は世の中にたくさんあります。
でも、あれらの作品を観て、むしろ「自分もそっち側に行ってみたい」と願うひとが、世の中には一定数いるんですよね。
あれって、一体なんなんだろうなあと。
「自分ならもっと上手くやれる」と思っているひとも、もちろんいるとは思いつつ、でも、それだけでもない気がしていて。
最後には破滅するとしても、一度はあそこまで行ってみたい。
つまり、あれほど自分の欲望に忠実に生きてみたいし、何も起こらないまま人生が終わるぐらいなら、最後にすべてを失ったとしても、あんなふうに生きてみたかった、と。
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だとすると、別に破滅したいわけじゃないんですよね。その破滅まで含めて「私の人生を生き切った…!」と思いたいのではないか。
そんなことをモヤモヤと考えているうちに、ふと思ったんです。
人間って、ジェットコースターみたいな体験をしないと、自分の人生を十分に生きたと思えないところがあるんじゃないか。
大事なのは、意外にも「落差」そのものなのではないか、と。このあたりからが今日の本題です。
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というのも、ずっと幸せで、ずっと満たされていて、何ひとつ困ることがない。それは間違いなく恵まれた人生だし、できることならそうありたいと、頭では思う。
でも、物語として眺めたときには、それはどこか物足りなく感じてしまう。
一方で、何かを失って絶望し、そこで誰かと出会い、もう一度立ち上がったり、あるいは、何も持っていなかったひとが頂点まで上り詰めて、そこから一気に転落していったり、そういう物語に、ひとはどうしようもなく心を動かされてしまう。
現実に、その苦しみを引き受けたいかと問われれば、また別の話ではあるけれど、それでも、そこに「濃い人生」を感じてしまう自分が間違いなく存在しているというような。
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で、ここまで考えて思い出したのが、人生グラフとかモチベーショングラフと呼ばれているものです。
就活や転職の自己分析なんかで、調子のよかった時期と落ち込んでいた時期を一本の線でつないでいく、アレです。
僕は、アレを見るたびに、人生なんてそんな単純なものではないだろう、とも思うんです。ガクンと落ち込んでいた時期にも、小さな幸せはちゃんとあったし、絶頂期でも不幸だと感じる出来事は山ほどあったはずなんです、本当は。
でも、あんなふうに単純化された線を眺めていると、不思議と自分の人生に納得できてしまうところがある。
「あのときは本当につらかった」「でも、あの経験があったからいまの自分がいる」というように、です。
出来事をただ並べているだけでは見えてこなかったものが、浮き沈みのある一本の線になった途端、急に「自分の物語」として立ち上がってくるというわけですよね。
落差を体験することだけじゃなく、あとからその落差を見つけ直すことにも、僕らはずいぶんと惹かれてしまっているということです。
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そんなことをモヤモヤと考えているときに、もうひとつつながったのが「聖と俗」の話でした。
『自由より自在に生きる』という本のなかで、内田樹さんが「聖なる場所」について語っている箇所に、今も強く印象に残っているフレーズがあります。
神社などで、ある境界線を越えると、自分のなかでざわめいていたノイズがすっと消える。そこで感じるものについて、内田さんはこう語っています。
「霊的なパワー」という言い方をよくしますが、あれは「パワー」ではないと思うんです。むしろ「静けさ」なんです。「霊的なサイレンス」なんです。
この説明が、僕にはなんだかとてもしっくりきました。
パワースポットと聞くと、何か強いエネルギー源がそこにあって、それを自分のなかに取り込むようなイメージを抱きがち。
でも内田さんが語っているのは、むしろその「静けさ」に触れることなんですよね。まさに、イヤホンのノイズキャンセリングのような世界線。
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で、この話を思い出したとき、神社の周りの賑わいまで、少し違って見えてくるから不思議です。
一度、参道や門前町のようなめちゃくちゃ賑やかな俗っぽいところを通ってきたからこそ、そのあとの静けさが、ただ音が少ないというだけの状態ではなく、身体に染みてくるものになる。
なるほど、聖と俗が隣り合っていることで、こんなふうに感じ取れるものもあるのかと。
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ここにも、明確に落差があるんですよね。
それは、成功したり破滅したりするような、人生の境遇そのものの落差とは違う。
自分が置かれている状況は変わらなくても、そのなかで何を感じ、何に心を向けるのかが変わることで、生まれる落差もあるのだと思います。
だとすると、人生そのものをどこまでも激しく揺さぶらなくても、僕らが心を動かされる機会は、暮らしのなかにちゃんとつくっていけるのかもしれないなあと。
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この聖と俗の話から、僕は「ハレとケ」の往復についても考えたくなりました。
日常を離れて、いつもとは違う時間を過ごし、そして、また日常へと戻ってくる。その往復を、どうやって意図的につくっていくのかということです。
自分は、落差に心を動かされる生き物なのだ。そうわかったうえで、自分にとって健やかなハレとケをつくっていくこと。
そのことに、もう少し意識的になってもいいんじゃないかと思ったんです。
ただ、ここで言う健やかさは、休日に思い切り遊んで、また平日を頑張れるようにする、というだけの話でもなくて。
それだけだと日常が「次のハレの日まで、我慢する時間」になってしまうし、同じ体験では物足りなくなって、もっと強い刺激を求めるようにもなってしまう。
僕が考えたいのは「その往復を繰り返すなかで、自分自身がどこへ向かっていくのか」ということなんですよね。
そしてここで、以前このブログでも書いた「反復」と、その「奥」を目指す姿勢の話につながってきます。
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たとえば、映画『オデュッセイア』のような作品を観て、ものすごく強く心を動かされたとします。
映画館を出れば、いつもの生活が待っている。帰って、ごはんを食べて、寝て、翌朝にはまた昨日までと同じような仕事をする。
でも、その生活のなかに、映画で出会った問いが残り続けることがあるわけですよね。
なぜ自分は、あの場面にあれほど心を動かされたのかとか、どうして、あの登場人物の選択がずっと気になっているのかとか。
そんなことを考えながら暮らしていると、昨日までの自分だったら素通りしていた、日常の何気ない会話や自分の小さな選択が、その問いとつながってくる瞬間があります。
同じ日常を繰り返しているようでも、そこで何を受け取るかが着実に変わってくる。
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つまり、ハレで受け取ったものをケに持ち帰り、ケのなかで生まれた問いを、またハレへと持っていく。この反復が、僕はとてもおもしろいと思うんです。
以前書いた「3〜5を行ったり来たりする」という感覚にも非常に近い。同じところを往復しているように見えて、その問いへの触れ方や、それを引き受ける自分のほうは、以前とはガラッと変わってしまっている。
こう考えてみると、人生グラフには、もうひとつ描けないものがあることに気づきます。
上がって、下がって、また同じ高さに戻ってきた。グラフの上ではそう見えていても、そこから見える景色までが、以前と同じとは限らない。
その変化には、上下の落差だけでは決して表せない「奥行き」があるのだと思います。
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そしてここで、最初の「選んだ道を正解にする」の話にも戻り、
自分が選んだ道を正解にしようとするあまり、そこで感じた違和感まで、成功の物語のなかに無理やり押し込めてしまう。
「あの苦労があったから今の私がある、最後に報われたのだから決して間違ってはいなかった」と。
そう思えることで救われる場面も、間違いなくあるのでしょう。
でも、経済的にうまくいったというだけでは、答えの出ない問いも、そこにはちゃんと残っているはずです。
だから僕は、「なるほど、自分は落差という刺激が欲しいタイプなんだな」と分類して、それを満たす予定だけでカレンダーを全部埋めていく、ということはしたくない。
そうじゃなくて、なぜ自分は、この落差にこんなにも惹かれるのか。
そして、何があれば、「私の人生を生き切った」と思えるのか。
その問いを抱えたまま、また日常を体験してみること。すると、わかったつもりになっていた自分の欲望が、もう一度わからなくなることもあると思うのです。
そんなふうに、自分が求めているものや、これまでの経験の意味を、何度でも考え直せる余地をちゃんと自らの手元に残しておきたいんですよね。
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もちろん、同じことを繰り返していれば勝手に「奥」へと進めるわけでもない。
慣れてしまって何も感じなくなることもあるし、毎回同じ結論を確認するだけで終わってしまうこともあるとは思います。
次はもっと大きな感動を、もっと激しい落差を、と求めたくなる自分だって、たしかにいますからね。
だからこそ、いま受け取ったものを、日常のなかでもう少しだけ抱えながら、すぐに答えの出さなくてもよい問いとして、誰かと丁寧に対話をしてみる。
そしてまた、同じ場所や同じ物語のなかに戻ってみること。
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僕にとっての健やかなハレとケとは、そういう「往復」や「反復」を、胆力を持って続けられる暮らしのことなのかもしれないなあと。
映画『オデュッセイア』のように自分を揺さぶってくれるハレの体験があり、そこで受け取ったものをじっくり考えられるケの日常がある。
そのケを生きた自分が、次のハレでは一体何を感じるのか。そこに、楽しみを持っていきたい。
そんなハレとケの反復からたどり着ける、その「奥」にあるものに目を向けていたいなと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
