先日、佐渡島庸平さんとのトークイベントに向けて、改めて佐渡島さんの本をほぼすべて読み直していました。
その中で、細谷功さんとの対談本『言葉のズレと共感幻想』に出てくる言葉に、ものすごく印象的な部分がありました。
それは佐渡島さんが細谷さんと、人間の動物的な感情の話について語っていたときにおっしゃっていたことで、
「因果関係が逆だと思う。先に感情があって、それに見合う言葉を探しているんだと思うんですよ。」
これは本当にその通りだなあと思いました。
普段僕たちは、言葉によって考えて、怒りを生み出し、言葉によって相手に対して自分の気持ちを伝えていると思いがち。
でも実際には、かなりの場面で、その順番は逆なのかもしれないなあと。
先に、なんとも言えないモヤモヤとした感情がまずあって、僕らはそのあとから、その感情にちょうど見合う言葉や物語を必死で探している。
そういうことのほうが、日々の中では、ずっと多いんじゃないかという気がしています。
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そして、いまそこに生成AIが誕生したわけですよね。
これは、動物的な人間に対して、革命的なことが起きてしまったなあと思います。
一体どういうことかと言えば、これまでは、自分の中に動物的な怒りや感情があっても、それを社会的に通用する言葉にするまで変換できひとは、かなり限られていたと思うんです。
不満はあるけれどうまく言えない、傷ついているけれど相手に伝わる形にすることができないという場面も非常に多かった。だから、ただ黙って飲み込むしかなかった。
そうやって、泣き寝入りしてきた人も、きっとたくさんいたはずです。
ゆえの言語化ブームであり、結果として生成AIによって言葉を持てるようになること自体は、決して悪いことばかりではないと思います。
むしろ、これまで言葉を持てなかった人が、ようやく自分の苦しみや不当さを、正当かつ合法的に訴えられるようになるという意味では、はっきりと「救い」でもある。
でもこここそが、本当に厄介なところなのだと思います。僕が今日一番主張したいのもまさにここにあります。
生成AIは、感情を整理してくれるだけではない。感情に見合う理屈を与えて、それを社会で通用する「物語」へと変換してくれてしまう道具になる。
言い換えると、「ただ腹が立った」だけだったの事柄であっても、AIを通すと、見事に相手方の倫理や説明責任の問題になったり、心理的安全性やハラスメントの問題になったりするわけですよね。
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先日、Xにも書いたのですが、これからの時代にいちばん社会に影響力を持つのは、実はクレーマー気質の人なんじゃないか、という気がしています。
言語化能力が低くて、ただ文句を言いたいだけのクレーマーは、これまで「ああ、感情的になっているだけだな」と、社会の側がなんとなく受け流してきた。
それが「モンスタークレーマー」や「モンスターペアレント」と呼ばれていた人たちです。
でも、そこに生成AIが現れると、状況がガラッと変わってしまう。
言葉を持たなかった怒りが、一気にもっともらしい言葉を手に入れてしまうわけですからね。
ただ、僕がここでほんとうに書きたいのは、「これからは、クレーマーが強くなるから怖い」という話だけではないんです。それだと、話が少し単純すぎる。
また、こういうわかりやすいモンスターには、AI側も社会の側も、ある程度の対策を講じていく。つまり、時間の問題にすぎない。目には目を、歯に歯を、です。
むしろ、もっと本質的に厄介なのは、僕らのなかにある弱さや繊細さを起点にした、言葉による「防御」のほうなんじゃないかと。
きっと、クレーマー的な言動も、その根っこにあるのは、必ずしも傲慢さではないはずです。
大抵の場合、傷つきやすさとか、うまく言えなかった悔しさとか、自分ひとりではどうにもできない関係への苦しさとか、弱さの側から出てきている場面のほうが多い気がします。
つまり、AIによって増幅されるのは、人間の傲慢さだけではない。
弱さや繊細さのほうが、AIによって戦える言葉や物語を手に入れてしまう。
ここがいちばん厄介だなと、僕はいま漠然と思っています。
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で、この話を考えていたとき、最近観た映画『マイケル』の、ある場面をふと思い出しました。
ちなみにこの映画は、マイケル・ジャクソンの生涯を描いた伝記映画です。
その中に、社会的に大成功したあとのマイケルが、高層ビルの弁護士事務所に颯爽と乗り込んでいくシーンが描かれてあります。
地位も名誉もお金も、何もかもすべてを手にした彼のもとに、弁護士や会計士や交渉人といった専門家たちが、一気に群がってくるわけです。
そして、彼らはみな、マイケルの味方です。彼の利益を守って、彼にとって不都合なものをすべて取り除こうとしてくれる存在。
その構図自体が、僕にはものすごく生成AIに見えました。
言い換えると、かつては一部の成功者だけが持てた専門家チームが、いまAIというかたちで、すべての人の手元に配られつつあるんじゃないか、と。
中でも印象に残ったのは、マイケルが、ひとりの信頼できると見込んだ弁護士と二人きりになることを望み、その彼に頼んで、父親を自分の人生から外そうとする場面でした。
彼にたったひとこと、「なんとかして欲しい」とだけ伝えて、です。
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よく知られているように、マイケルの父親は、長らく彼のマネージャー業を担っていた人物です。
少年期から彼を芸能の世界へ送り出し、同時に、彼を強く束縛しコントロールしてきた存在でもある。
その父親に対して、マイケル自身は何も言わない。直接対峙することも、説明することもない。
その後、最終的にはFAX一枚の紙キレだけが父親のもとに送られる。たったそれだけで、父親はマイケルから遠ざけられていくのです。
なぜなら、そこに書かれているのは、合法的で、社会的に圧倒的に効力を持った「言葉」だからです。
本人が自分の口では言えなかったことを、専門家が代わりに言語化をして、そこに法的拘束力をもたせたもの。
そして、ここがいちばん怖いところなのですが、合法的であるということは、受け取った側に、反論の余地がないということでもあるわけです。
もしそれが感情的な罵倒であれば、相手は理不尽だと言い返せる。でも正しい、合法的な言葉には、それすらできない。「理不尽だ」と言うことすら、理不尽になってしまうから。
正しさは、ときに、いちばん静かな暴力になるわけです。
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そしてその合法的に言葉は、おそらくマイケルにとって、100%「救い」だったのだと思います。
だから、余計に厄介だと思うのです。
言い換えれば、それは傲慢さから出たものではなくて、むしろ、自分ではどうにもできなかった関係から逃れるための、切実な手段として描かれていた。圧倒的な正義です。
父親に直接「もう自分の人生に入ってこないでくれ」とは言えない。言ったところで、たぶん通じない。そのぜんぶを、自分の身体ひとつで引き受けて向き合うには、あまりにも重たすぎるし、繊細な彼にはそんなことは口が裂けても言えない。
だから、優秀な弁護士に言葉にしてもらい、自分の代わりに、距離をつくってもらう。それは、間違いなく救済なんです。
そして、救いである以上、生成AIによって、それが万人に可能になったいま、僕らがそれを使わないはずがない。
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もしこれが単なる悪であれば、話は単純だなと思います。
「AIに人間関係を任せるな」「そんなものは冷たい」と切り捨てれば済む。でも、今回のテクノロジーの進化は、決してそうではないわけですよね。
AIによって、ずっと飲み込んできたフツフツとした怒りを、ようやく相手に伝えられる。不当な扱いから、自分を守れるようになる。それは明らかに、人を助けてくれるわけです。
問題は、その救いが、あまりにも便利で合理的かつ、きれいな言葉と物語のかたちで差し出されることなのだと思います。
本来なら、法的効力のある文言を送る前に、少し迷うはずだった。
本当にこの人を遠ざけたいのか、これは怒りなのか悲しみなのか、本当はわかってほしいだけなんじゃないか。そういう逡巡が、本人の中にはあるはずなんです。
でもAIは、その逡巡の手前で、一瞬にしてきれいな文面を差し出してくれる。そして、その文面があまりによくできているものだから、僕らはそれを「これが自分の本心だ」と思い込んで、AIにそのメッセージの送信までをすべて依頼してしまう。
第三者も一切介入できないぐらいに、社会的に意味や意義のある言葉として、です。
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この魔法のような誘惑から完全に自由でいられる人は、たぶんいないと思うんですよね。
だからこれは、クレーマーなど特定の誰かの話ではなくて、弱さを抱えた人間ぜんぶの話なのだと思います。
これからますます、AIは人間関係の摩擦をなめらかに処理してくれるようになるはず。それ自体は、決して悪いことではないというのは、前回も書いた通り。
ただ、これからはあまりにも簡単に、人と人とが遠ざかれてしまうことには、常に意識的でありたいなと僕は思います。
相手にも相手の弱さがあって、こちらにはこちらの繊細さや傷がちゃんとあって、その不器用さ同士が、ただぶつかっただけ、ということだってあるはずですから。
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実際、映画『マイケル』の中でも、父親もまた不器用な葛藤あるひとりの人間として描かれているように、僕には見えました。
にも関わらず、AIによって美しいほどの完成度で「こちらが正しくて、相手が間違っている」という物語にしてしまうと、もう前の関係性には、一切戻れなくなる。
だからこそ、AIが言葉を生成してくれる時代には、言語化能力よりも前に、自分がいま何のために言葉を探しているのかを見つめる力のほうが、大事になってくるんじゃないかという気がしています。
とはいえ、その境界線はたぶんすごく曖昧であって、助けを求めているのか、それとも相手と向き合うしんどさを合理的に処理してもらおうとしているだけなのか、それは簡単には切り分けられない。
そして、その曖昧さの中で、僕らはこれからAIを使っていくことになる。使わないはずがない。何度だって繰り返しますが、それは圧倒的な救いなのだから。
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だから僕らにいま必要な態度は、たぶんAIを使わないことではなくて、その救いが同時に何を遠ざけているのかを、できるだけ自分自身で自覚的であること。
お互いの弱さや繊細さが、いつのまにか合理的で正しい断絶に変換されてしまわないように、すぐに正しい物語のほうへ逃げ込まないこと。
一刻も早く癒すべき傷との見分けがほんとうにむずかしいのだけれども、そのあたりに、これからの言葉の倫理みたいなものが宿るんじゃないか。いまのところは、そんなふうに思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
