「いま一番欲しいものは何か?」と、昨夜の飲み会で聞かれて、正直に「ない」と答えました。

ただ、そうすると、物欲がないように思われる。

でも決して、物欲がないわけではないんですよね。

この問いは、いつも説明がむずかしいなあと思うので、改めてこのブログにもまとめてみたいなと思います。

年末年始の大掃除や断捨離、初売りで何を買おうかみたいな状況においても、きっとみなさんが考えるきっかけになるような話にもなるかなと思っています。

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この点、たとえば今夜、いつも通りお腹が空けば、必ず何かしらの食材を欲するように、常に何かしらを欲する定めにあるのが人間です。

そして、その物欲につながる好奇心みたいなものも、同時に僕の中にはずっと存在している。

そして、僕は以前からずっと「物欲」と「所有欲」を切り離して考えたほうがいいと思っていて。

具体的には、物欲は「好奇心」であり、所有欲は「執着心」につながる。

好奇心は人生を楽しくするけれど、執着心は人生を辛くする。全ての所有物に対して、いつ手放してもいいと思えることが大切で、好奇心を持つことは決して悪くないと。

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実際、今年も、かなりいろいろなものを試してみました。

引っ越しもしたこともあるので、大型家電も含めて、たぶん一般的なサラリーマンの年収ぐらいは、新しい物理的な「物」を試すためだけにお金を使ったかと思います。

先日、Voicyの中で佐々木俊尚さんが高城剛さんの物欲の話をしていましたが、まさにそのような感じで、試してみたいという好奇心は都度都度立ちあらわれてきて、実際にそれをドンドン試しています。

でも、それをコレクションをしてみたいとか、これをずっと自分のものとして私だけのものとして所有していたいか、というと、そのような感覚は皆無なんですよね。

何かをずっと欲しいと考え続けることもない。

また、すべての既存の所有物を、いつ手放してもいいと思いながら所有というか、占有している。

だから、実際にドンドン手放していますし、最近だとメルカリなどもあるから、このような好奇心から立ち現れてくる実験ををするにあたって、無限にお金が必要なわけでもありません。

あとは、都内はサブスクのようなものサービスもあるので、家具・家電なんかも自由に試せたりもしますよね。

この「とりあえず試してみるという好奇心」が次のアイディアにもつながっていく、クリエイティブの源泉だと思っています。

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話は少しそれますが、最近、たまたま引っ越してきた東京都心エリアにある家の近所のコンビニに行くと、毎日のようにメルカリで売買されたであろう発送待ちの商品の箱が、山積みのようになっていて、本当に驚かされます。

この光景は個人的には結構衝撃で、ローカルでは間違いなく見ない光景だなあと思います。

日々かなりのものが売買されていて、ものすごくそれらが流動的な印象です。東京は純粋に景気が良いんだろうなと感じさせられるのは、このような場面においてもそう。

もちろん、その中には所有欲が強いひともいるんだろうけれど、これっていうのは、東京で暮らしているひとたちの好奇心の強さをあらわしているなあと思う。

自分で出品、梱包、発送の手間さえ惜しまなければ、今はいくらでも試せてしまう時代でもあるはずです。特にそれが何かしらの理由で人気の商品であれば、ほとんどお金もかかりません。ほぼ定価みたいな価格で二次流通に流すこともできる。

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だから何かに固執すること自体が、もうまったく必要ないとも思うんですよね。

「でも、このタイミングを逃してしまったら?特に一点もの、いまこのチャンスを逃したらって思うときはないんですか?」という質問も受けました。

でもそうやってこれは人生最大の出会いだ!みたいに思う商品との出会いっていうのは、「去年の自分」もまったく同様に感じていたわけで。

そして、その去年とは、まったく違うものに対して、今まさに目の前にあるものに感じている自分がいる。僕は、その事実のほうに対して、もっと茫然自失としたほうがいいと思っています。

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それは人なんかに対しても、全く同じですよね。

このアイドルがいないと生きていけないと言っていたひとほど、10年前は全く別のひとを推していたし、10年後は全く別のひとを推しているはずで。

また、大恋愛して結婚していった人ほど、いとも簡単にサラッと離婚して、さらにまた次のひとと大恋愛して、再婚していたりもする。

このように、欲望というのは、良くも悪くも、死ぬまで喚起され続けるものだと思うのです。立ち現れないということはない。まさに流れる雲のように、です。心のなかで消え去ることはない。

だとすると、逆説的なんですが、いくらでもスルーしても構わないと思うようになるはずなんですよね。何も焦って、今それを獲得する必要もない。

それが僕が「欲しい物がない」という一番の理由です。

今日一番主張したいところはこの部分なんですが、ここを伝えるのが、なかなかに難しいなといつも思います。

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人間、ちゃんと睡眠と食事を取って、日々メンタルを整え、心身ともに快適であれば、いつだって好奇心から発露する物欲というのは、健全な食欲や睡眠欲のように立ち現れてくる。

だから、「これを絶対に今買わないと!」っていうふうに、逆に執着せずにいられるんですよね、不思議なことに。

もっと俗っぽい例えだと、回転寿司の食べ方なんかとも、本当によく似ているかと思います。

回転寿司のお店に行けば、勝手に無限にお寿司が流れてきますよね。

食べたいものが多すぎて、実際に食べすぎて、お会計の場面でも後悔するというような体験を誰もがするわけですが、その失敗から学び、あまり目移りしても仕方ないということも、どこかのタイミングで必ずわかるはずで。

いま食べたいもの、試してみたいものを一通り食べて、これぐらいかなと思ったら、腹八分目でパッとお店を後にすること。寿司は、これからもずっとそこに流れ続けるということを知っているから、それはできることです。

で、また何かをきっかけにふと寿司が食べたくなったら、またパッと寄ればいい。そうすれば、1回で食べ過ぎるということもないはず。

そうやって、適宜適切に食べられることが大事で、この回るお寿司に対する食欲を、そのまま物欲に当てはめることができるかと思います。

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にも関わらず、物欲にまみれて、所有欲にあふれているひとは、仕事中でも家族と一緒にいるときでも、とにかく四六時中、もの、上記の例だと寿司に囚われてしまっている。

でも、それは、自らを不自由にするだけで。

そもそも、物欲や所有欲における、一体何に僕らは苦しめられているのか、そちらをもっともっとちゃんと丁寧に自己を観察をしてみたほうがいいと思っていて。

より自由に幸福になりたくて、手に入れたい(手段としての)物だったはずなのに、次第に執着・煩悩に変化し、その執着に囚われて、自己を見失ってしまうことにもつながってしまう。

そして、その執着煩悩の状態にいるときというのは、人間誰しもが本当に苦しいから、そこから開放されたいと思って、結果的になんとしてもソレを手に入れようとしてしまう。

そうすると、ローンを組んだりして買ったりもするわけであから、物欲は開放されたとしても、そのあとにお金の不安なんかも襲ってくるわけで。結果、いつまで経っても自由になれないわけです。

今を生きれておらず、過去と将来に囚われているのと、まったく同じことです。ドンドン自分自身が、欲している物のせいで、がんじがらめになっていく。

また、現代は、そこに輪をかけるように、環境意識に対しての漠然とした罪悪感みたいなものも喚起させられてしまう。巧みな罠が世の中のありとあらゆる場所で仕掛けられている。

SDGsという言葉を旗印に、企業が僕らの倫理観自体を人質にとって、環境に良い消費をするようにと促してくる。これっていうのは、本当にあくどい商売だなあと思います。

まさに買っても地獄、買わなくても地獄なわけですから。

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最後にまとめると、無駄遣いやそれによって借金まみれ、いらない物だらけの家などなど、その悲惨な末路みたいなものを僕らは子供時代からありとあらゆるメディアを通じて見せられているから、物欲それ自体が良くないことだと信じ込んでいる。

ゆえに、「ならぬものはならぬ」というふうに徹底的に物欲や好奇心を忌避するか、「買えるものはすべて買えるようにしてしまえ!」と、徹底的に仕事と買い物に執着するかの二者択一を選択させられる。

でも、このあたりは何度も過去に語ってきたバガボンドの「引け目」の話とまったく一緒なんです。

そうじゃなくて、自らを見失わない、執着煩悩につきまとわれないようにすること。

そして、物欲と所有欲の一体何が自分を苦しませているのか、そこにまずはしっかりと目を向けてみること。

他者と、べき論で話しても仕方ない。それでは、一生答えは出ないはず。

「他のひとがこうしているから」という理由で人のライフスタイルを真似てみようとしたところで、置かれている状況は、もうひとりひとり完全に異なるのだから。未だに一億総中流だと思って右に習えをしていると、きっと自分の中の大事なものを見失ってしまいます。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。