令和のこの時代に、寅さんを観ていると、このご時世に好き好んで、寅さん50作を全部観たってひとのなかには、悪い人はいないだろうあなとついつい思ってします。

少なくとも、自分とは馬が合う人だろうなと素直に思わされる。

もしそんな人がいれば、他の条件なんて一切関係なく、100万だろうが200万だろうが、ほんとうに困っていれば、貸したくなってしまいます。

それぐらい、この時代に寅さん50作を見れる胆力があるひとがいたら、それだけで信頼に値するなと思ってしまう。

今日はなぜそう思うのかについて、このブログに書いてみたいなと思います。

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この点、現代は、いくらでもAIがつくった要約で内容を知った気になれて、実際それで大抵のことは、よくも悪くも、事足りる時代です。

そして、行動力のほうが圧倒的に尊ばれる。

「教訓がわかったんだったら、すぐに実行せよ!行動せよ!」そして望む結果を出したやつのほうが偉い、そんな世の中なわけです。

でも、果たして本当にそうなんだっけ?と最近よく思うのですよね。

僕はそれよりも、最後まで、話をちゃんと聞ける人間のほうが、本当の意味で価値があると思う。

つまみ食いをして、わかった気になって、すぐに意見を述べていないことのほうが、行動をして結果を出すよりも、信頼に足るということですよね。

つまり逆説的に、こんな時代でも端から端まで一通り観たり、本を読んだりしていることそれ自体に、価値が宿りやすい時代だなと思うわけです。

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この点、以前、哲学者の東浩紀さんが、先崎彰容さんと『本居宣長』について対談をしているときに、「先崎さんは、ちゃんと読んでいるから、信頼に値する」という話をしていたけれど、まさにそんな感覚に近いです。

先崎さんはまた別のご自身の本の中で「自分には空間的な留学経験はないけれど、時代を超えた留学をしていた時期がある」みたいなことを書かれていました。

たしか先崎さんが東北の大学に勤めていた頃の思い出話だったと思いますが、そのときに「明治という時代に10年間留学していた感覚だった」という趣旨の話を書かれていたと記憶しています。

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で、たしかにこの「時空を超えた留学」というのも存在するよなとその時、妙に納得感あったんですよね。

そして、ここで比較するとおこがましいですが、僕も今まさに「昭和」に留学しているような気持ちで、昭和の映画作品群を観ているなと思います。

そして、そうやって時空を超えた留学をしていると、留学生同士で馬が合う、意気投合することがあるというあの感覚と、非常によく似ている。

「あー、あなたも、あの国を離れて、この国の世界観を観にやってきましたか!」みたいな感じです。

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たとえば、寅さんを観ていると時々、いや、しょっちゅうドキッとすることがある。

最近観ていた回では、寅さんのたたき売りの口上の中に「丙午の女は、夫を食い殺す」みたいな言葉が出てきました。

現代、というか今年は特に絶対に言っちゃいけない言葉です。

でもそこに過剰に反応せず、しかも「朱に交われば赤くなる」という危険性もわかったうえで、「郷に入っては郷に従え」ができる人に、僕は素直に信頼することができるなと思う。

別にその価値観が必ずしも正解だと思っているわけでもなく、その価値観を、肯定も否定もせずに、ただただ黙って観続けられるひと。

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なおかつ、メタ視点になって、現代から高みの見物で「当時はそういう時代だからね」とシニカルに眺めるわけでもなく、ちゃんと気持ちは「あちら側」に行って、ちゃんと「こちら側」に帰ってこられるひと。

つまり、ちゃんと感情移入できることも、めちゃくちゃ大事なことだと思っています。

分析目線で終わるんじゃなくて、ロゴスとパトスの両方で作品に付き合えること。

そこがないと、昭和の映画はたぶん途中で飽きてしまう。深い興味関心がないと、付き合い続けられない。小津安二郎作品なんかもまったく同じです。

もちろん分析的に観ることもできるけれど、根底に流れているものへの共感がないと、最後まで観ることができない。当然飽きてくるから。その胆力が魅力的に思える。

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で、このような、付き合い続けられる状態って、たとえば現代の何に似ているか。

それがきっと、Podcastなのだと思います。

Podcastは、アンチだと聴けないってよく言うけれど、つまりはそれって世界観に共感できないと聴けないということでもあるわけで。

聴き続けられることそれ自体が、ひとつの意味というか価値につながる。

ここで必要なのは、語られている全てを鵜呑みにする態度じゃない。

むしろその逆で、いったん受け入れる姿勢というか、一旦の滞在許可みたいなものを、自分の判断において下せること。そんな清濁併せ呑む力。

飲み込むのではなく、一旦口に含める胆力です。

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もちろん僕のVoicyなんかもそう。Wasei Salonなんかもそう。

音声コンテンツを聴き続けられたり、コミュニティに所属し続けられたりするということは、そこに一時的な感情的な反発があったとしても、一旦受け入れる姿勢みたいなものを持たないと、不可能なわけですよね。

逆に言えば、それができないのコンテンツは現代だと観続けられない。同様に、聴き続けられないし、所属し続けられない。

結果として、そこに、共にいられる土壌ができあがるということ。ファールラインも自然と定まる。そして、それが文化を耕すということの意味でもあると思う。

それが身体に馴染んでいるといことの意味でもある。

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これが、一時的なアドホックな連帯ではなかなかにむずかしいことだと思うのです。

ひとつの興味関心で集まってみても、他のところの価値観がまるっきり合わないと、お互いがそのことに驚愕をし、すぐにいがみ合う。

つまり文化を耕すためには、ある一定の枠内において「一通り味わい続ける」みたいなことが、とても重要になっているんだろうなということが、今日の僕の一番の主張です。

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で、このご時世において、寅さんを観ているということは、何かしらの根底に流れているものに、この時代背景の中においても、深く共感をしていないと到底不可能だなと思う。

少なくともそれを断罪しないこと。

現代のように、欲望を刺激するコンテンツが無限にある時代に、寅さんを「退屈しのぎで観ちゃった」なんてことは起こりにくいわけですから。現代人は、そんなに暇じゃないわけです。

他にもいくらでも自分の欲望を刺激喚起してくるものが無限にある。そっちに触手が伸びてしまう。

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現代は、それをADHDとか多動力とか、ポジティブに語ることもできるし、それこそが尊ばれる時代です。

でもだからこそ、再び黙って通読することができる、よそ見をしなかったという「不作為」にこそ、信頼が宿るタイミングだなと思います。

ベネフィットがなくても、根底に流れる価値観に共感して、居続けられていること。

いくらでもタイパやコスパが良いものが他にもたくさん溢れているタイミングにおいて、それでも全部観た、ということに逆説的に意味が宿り始めている気がするし、それこそが信頼なんだろうなと思います。

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文化のもとに集い合っているから、自然と同士になれる感覚ってあるよなと。

その場に集う、他人の神輿も自然と担ぐことができるようになる。

寅さんの物語の中には、そんなひとたちこそが「いいひと」たちとして描かれていて、「善く生きる」ってこういうことだよね、というメッセージがいたるところに散りばめられている。

同じ物語のプロットの中で、何度も何度も繰り返し同じことが描かれているがゆえに、「あー、やっぱりこれが大切だ」と思わせてくれる。

そんな教訓が常にずっと手を変え品を変え描き続けられているわけだから、それに飽きもせずに付き合っているひとは、きっとそれを大事だと思っていないと、不可能だなと。

具体的には、「あー、今回はこのひと(たち)に対して、柴又コミュニティのみんなで親切にしながら、このひとが救済されていくんだ」と思えるから、すごくいい。それが、本当の人助け。

そしてそれが自己犠牲ではなく、コミュニティの結束力と言うか、コミュニティの価値を深めることにも、大いに寄与していることが素晴らしい。情けは人の為ならず、です。

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そしてたぶん、いま僕らが失いつつあるものは、そういう「他者の報われ感を、素直に言祝ぐこと」なじゃないかと思う。

そして、それこそが生きるうえで大事だと腹落ちをしていないと、50作全部を観ることなんて不可能。

だから僕は、冒頭にも書いたように、この令和の時代に、寅さんを全部観ることができる、それだけの胆力があるひとは、無条件に信頼することができるなと思いました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。