サム・アルトマンの本を読んでいたら、ブラフマンとアートマンの話が出てきました。

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この解釈って、確かにAI時代のいま、改めて大事な概念だなと思います。

ブラフマンとアートマンについて、わかりやすいのは飲茶さんの『史上最強の哲学入門    東洋の哲人たち』に書かれている話。

このブログを読んでいれば、大半の方が既に読んだことがあると思うのですが、改めておさらいをしてみると、人間が生きているというのは、暗い部屋で、映画を観ているようなもの。

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最初は「観ているだけ」のつもりなのに、気づくと完全に映画の中に入り込んでいて、登場人物のその一喜一憂が、そのまま自分の心の揺れになってくる。

具体的には、苦しかったり、焦ったり。腹が立ったり、安心したり、映画の中の勝った負けたに、観ている自分が一喜一憂をする。

でも、部屋の電気がパッとついた瞬間に、「あ、自分、映画観てただけだったわ」って戻ってくる感覚があるわけですよね。

そして、その映画のほうを僕らは人生だと思いがち。

でも私とは、認識するもの。それこそが私である、と。

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で、ここからが東洋哲学っぽくて、さらにおもしろいところなんですが、「じゃあ、映画を観ている“自分”って一体何なんだ?」となるわけです。

映画の登場人物ではない、感情そのものでもない。

飲茶さんの本を読んだ方には印象深いはずの「〜に非ず、〜に非ず」というウパニシャッド哲学のあの話です。

「それじゃない、それでもない」と否定を積み重ねていき、「認識しているもの(つまり私)」は、決して認識できない。

そう、厄介なのは、そのアートマン(私)が“対象”としては決して掴めないということなんですよね。

言い換えると、掴もうとした瞬間に、それはもう「スクリーンに映った何か」になってしまう。

「自己の本体を見つけた!」と思ったとき、その“見つけたもの”は、だいたい映画のなかの小道具の一つなんだと思う。

私だと思っている性格とか、信念とか、実績とか、そういうものも全部、映っては消える映画の中の映像に過ぎないわけです。

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だから、アートマンを「真の何か」として説明するんじゃなくて、むしろ逆に、“それじゃない”を繰り返して、最後に残る逃げ場みたいなものとして置かれるわけですよね。

そして、その逃げ場が、個人の内側にあるだけじゃなく、世界の根っこと同質だ(アートマン=ブラフマン)というふうに繋がっていく。

これがまさに、梵我一如の思想です。

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これをちゃんと飲み込むと、身分とか立場とか優劣みたいな話は、急に色あせてもくるわけです。

だって、それは世俗において「偉い/偉くない」「勝った/負けた」という話であって、ぜんぶ映画の中の設定にすぎないわけだから。

もちろん、現実(リアル社会)には効いてきてしまう。効くんだけど、観ている観客、つまり自分の“本体の側”には何の影響も与えないということです。

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で、ここまでの話がウパニシャッド哲学の筋立てであって、やっぱりこれはめちゃくちゃ強いなあと思わされます。

そもそも梵我一如であり、「世界の根っこ」と「自分の根っこ」が実は同じだと言われたら、心がめちゃくちゃ軽くなる感覚を得られる。

論理の展開は違えども、私と宇宙は一体化しているみたいな話って、スピ系でもよく語られる話ですからね。

現世で不安でバラバラになりそうな自分が、いきなり“大きな何か”に回収される感じがここにはあるわけです。絶対他力の思想なんかにも近い。

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で、この構図って物語的でもあるわけです。非常に論理的なんだけれど、同時に物語的。

マンガやアニメの中で、主人公が自分の正体なかを途端に思い出す展開なんかにも、よく似ている。

世界の秘密が最後に解かれて「あー、そういうことだったのか!」と腑に落ちるクライマックスシーンにありがちな展開です。

だから僕らは、この物語に強く惹かれる。カタルシスを覚える。

でも、ご存知のブッダは、そうやって主張しないんですよね。

ブッダが主張したのは、無我です。「アートマンなんて存在しない」と語った。

つまり、「宇宙の根っこ」みたいな壮大な説明を積み上げることではなく、むしろその逆であって、「そういう物語的な説明を欲しがる心」とはな何か、という手放していくアプローチを取るわけです。

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つまり、ブッダは、映画から一段上へ連れていく前に、いったん映画の中へむしろ連れ戻そうとするわけです。

いま映画の中で揺れているものは、一体何か。身体が感じているほうに目を向けさせようとする。

快・不快が自分らしきものの中に立ち上がっている。それに、頭が勝手に意味づけを始めている。その一つ一つに対して、まずは自覚的であれ、と。

そして、「それは“私”じゃない」「それは“私のもの”じゃない」「それは思い通りにならないものであり、一切皆苦だ」と語るわけです。

いわゆるこの「無我」というアプローチは、宗教的なスローガンじゃない。むしろめちゃくちゃ実務的なアプローチだと僕は思うのです。

要するに、“自分を苦しめてしまっている掴み方”をやめるための、そんな手順をずっと僕らに説いてくれているわけですから。

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さらにおもしろいのは、ブッダは「自己は究極あるの?ないの?」みたいな問いに、きれいに答えてくれないところ。

もし、「ある」と答えたら、それこそが絶対普遍の「魂」みたいなものを掴ませてしまう。「ない」と答えたら、どうせ人は「じゃあ全部は無意味だ」と飛躍してニヒリズムに陥ってしまう。

どっちも、結局はそういう「物語」を掴むことになる。

ブッダにとって一番避けたいことは、苦しみが起きているのに、その苦しみを材料にして、また新しい別の観念をつくってってしまうこと、まさにその一点なんだと思います。

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ブラフマンも、アートマンも、すごく気持ちがいい観念なわけなんですよね。

美しいし、大きく感じるし、なんだか正しい感じもするから、それとついつい一体化したくなる。

そういう物語を大いに味わいたくなる。

でも、どうしても、(論理的な)正しさを足すほど、人ははっきりとその物語を握りしめる方向へと向かってしまう。握りしめるほど、映画から出られなくなってしまうジレンマがそこにある。

だからブッダは、宇宙の根本真理を語るより先に、まず手元を見ろ、と僕らに言ってくれるわけです。

いま、何かを「私だ」として掴んでしまっていないか。
いま、何かを「私のものだ」として所有していないか。
いま、変わるものを「変わらないはずだ」と握りしめていないか、というふうに。

こうやって、いつだって何かを握ってしまう私という感覚がある限り、どんなに壮大な物語を手に入れても、心は揺れ続けてしまう、つまり苦を感じ続けるわけですから。

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で、ここで僕が最近よく考えていることなんかにも、つながってきます。

現代は、要約でいくらでも「知った気」になれる時代です。

内容を短くして、きれいに意味をまとめて、結論だけを取り出してわかった気になれる。でも、その「理解した気分」自体が、ある種の映画的(物語的)解釈なんですよね。

つまり、世界を分かりやすいストーリーに変換してしまう。分かりやすいからこそ安心もする。安心するからこそ、さらに余計に握りしめてしまう。

握りしめるから、少しでも矛盾が出ると不安になっていく。不安になるから、もっともっとと、より強い説明が欲しくなってしまう。

この循環の中にいると、世界はどんどん“物語の強度”で争うようにもなっていく。

誰が、一番わかりやすく答えてくれたのか、誰が一番スッキリまとめたのか、と。

つまり、言語化ブームが到来する。誰が一番強い「世界観」を提示できたかによって、勝敗が決定していくような世の中です。

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でもブッダのアプローチはそうじゃない、そこから降りることにこそあると語る。

説明を増やすんじゃなくて、説明を欲しがってしまう自らの心の動きを、まず観てみましょう、そしてソレを手放しましょう、と提案してくれるわけです。それが苦しみを生み出す原因なのだから、と。

つまり、要約依存や言語化依存の正反対のアプローチなんだと思います。

だからブッダの考え方は、宗教や哲学というより、生きるための術であり技術なんだろうなと思うんですよね。

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そして、ここからが今日の一番の主張であり、僕がいつも語っている「裏の裏」の話につながってくるポイントになるのですが、

「裏の裏」って、表の説明を疑い、裏の動機や利害も疑い、さらに最後に「裏を見抜いた自分」すら疑うという手順だと思っています。

この三段階目があるから、「裏の裏」は、単なるアンチテーゼでとどまらず、もう一度、表の同じ地平に戻ってくることができる。

しかも、最初の「表」とはまったく違うあり方において、です。

映画を観ていることをわかったうえで、もう一度映画に入り直すし、そのときには「無我」の自覚もある、というような。

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人間はすぐに、正しさを掴んでしますし、その正しさは掴んだ瞬間に、正義や権力になる。ブッダが警戒しているのは、たぶんこの思考回路そのものなんだと思ったんです。

だから、もし「裏の裏=一般意志」という言い方も許されるなら、一般意志が客観的に存在するということは、やっぱりどこか間違っていて、むしろ今日みたいなアプローチが必要になる。そのアプローチ自体が、一般意志そのもの。


「私はいま正しさを無理やり、掴んでいるだけじゃないか?」
「一般意志を掲げる快感に酔っているだけではないか?」

この問い、そして、こうやって問い続ける姿勢こそが、目指しているソレ、だよって。

つまり一般意志もまた、理念というよりも態度であり技術なんだと思う。終わりのない不断の努力の間においてのみ、点灯するものとは、そういうことです。

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AIがあらゆるものを要約し、もっともらしい「正解(物語)」を提示してくれる時代だからこそ、僕らは「正解を握りしめたくなる誘惑」に常にさらされている。

そのときに、「梵我一如」のような明晰な論理としての「物語」において救われるんじゃなくて、物語に入り込む力そのものを弱めて解体をしていきながら、無我の自覚をし続ける。

そういう方向の「救い」や慈悲も、間違いなく存在する。

ブッダのこの「順番」と、「裏の裏=一般意志」という視点が、なんだかつながるなあと思ったので、今日のブログにおいても書き残しておきました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。