最近、ディープリサーチがあまりにも便利で、ディープリサーチで調べて知ったことは、なんだかズルした感覚になるのが、結構おもしろいなあと思っています。
実際にこれまで何度か、ディープリサーチで事前に調べて知っていても、知らないフリをしたぐらい。それぐらいなんだかチート感がありすぎる。
不思議ですよね、これまでと同様、ネット上にある情報なのに、あまりにも破壊的すぎ、使っていないフリをしてしまう。
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あともうひとつ、こんなにAIに流されてしまって良いんだろうか、という漠然とした不安が自分の中にあるのだと思います。
ものすごく早い急流の川下りをしている感じ。
これまでは、その早さやダイナミズムこそをずっと求めてきたはずにも関わらず、いざそれが実際に目の前にやってくると、底知れぬ恐怖を感じている。
それは、一体どこまで流されてしまうんだろうか、という漠然とした恐れです。
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とはいえ今は、「一刻も早く、流されたもん勝ち」という声のほうが大きい。
AIによる多産多死のフェーズであることは間違いない。
でも、個人的にはさすがにそれは無謀すぎるというか、社会全体にとってそれは完全に良いことであったとしても、個人の幸福においては、かなり怪しいところ。
端的に、天国と地獄すぎる選択だなあと思う。AI推進派の人々は、アクセル踏み過ぎだろうと思うし、これからはブレーキこそが大切になってくることも間違いない。
じゃあ、そのブレーキはとは一体何なのか。急流の中で、自らの身体をしっかりと結びつけておくべきものは何か。
それがきっと、古典作品なんだろうなあと思います。
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逆にいえば、古典という大きな大樹に対してしっかりと縄を括り、命綱的に自分の身体にその縄をちゃんと結びつけておけば、どこまでも流されてみてもいい。
流されること自体も、次第に怖くなってくる。どれだけ流されても立ち返る場所がわかっているから、です。
むしろそうやって大きく流されてしまった後に、その驚くほどの自らの身体経験の変化と照らし合わせて「あー、なるほど!そういうことだったのね!」という発見が得られるのが、古典作品のすごいところ。
流される前までは、何を言っているかわからなかったものが、一度流されると、手に取るように理解できるということが多々あるなと思います。
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で、いま多くの人がAIに恐怖を感じ、自ら川に入ろうとはしていない。
保守的なあり方にしがみついてしまう。象牙の塔の中に居着いてしまう。それは今の時代に一番やってはいけないことだと思います。
一方で、アクセルだけを踏み込んでいる人たち、つまり急流に流されて遊んでいるひとたちが、そのうち自滅することも明白。
自らをつなぎとめるものがある中で、ちゃんとアクセルも同時に踏む。そしてブレーキが効く状態も、しっかりと確かめておくこと。
その時の軸となるものを意識的に定めることは、これからますます重要になってくる。
それっていうのはきっと「系譜を継ぐ」ということでもあると思うんですよね。
継がれてきた系譜を意識し、歴史・空間・いまここからの再発見がものすごく大事になる。
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たとえば僕が最近とても腑に落ちたのが、内田樹さんの新刊『沈む祖国を救うには』という本の中で語られてあった“真理”という言葉の定義の部分です。
ここでいう真理とは、単なる知識や情報の正しさを意味しているわけではない。もっと根本的な、視点の置き方そのものを指していました。
具体的には、「いま・ここ」で起きている出来事を、その場の臨場感や肌感覚だけで捉えるのではなく、空間的な広がりと時間的な文脈、たとえば100年、200年という歴史の流れの中で俯瞰して眺める。
そのうえで、自分自身をもその風景の一部として客観視する態度。それこそが「真理」だと内田さんは言うのです。
以下で本書から少しだけ引用してみたいと思います。
人は「真理」によって自由になれる。「真理」というと言葉が強いですが、広い視野を持って、長いタイムスパンの中で物事を観察するという知的な態度のことだと理解してください。……空間的な「額縁」と歴史的な「文脈」の中で、「今・ここ」をみつめること。それがさしあたり「真理」という語に僕が仮託する意味です。
「額縁」と「文脈」と「今・ここ」。
このような視座に立つことで、僕らは“いま目の前で何が起きているのか”を、その場の感情だけに引きずられすぎることなく、冷静に、でも他人事ではなく、当事者意識を持って立ち向かうことができるようになるのだと思います。
まさに、急流の中に身を置きつつも、地図と現在地を同時に把握できている状態。それがあって初めて、どこまで流されても、自分の位置を見失わないままでいられるのだと思います。
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つまり、そうやって、自分の現在地を知ったうえで地図を携えて、再出発しようとしてみることが、いまとても大事なこと。
みんな優れた詳細な地図ばかりを欲しがるけれど、地図だけ持っていても仕方ないんですよね。地図の上に現在地が示されていないと、ソレは何の役にも立たない。
一方で、行動派のひとは、自己の現在地を教えてくれる精度の高いGPSや、目的地までの最短距離を指し示してくれるルート案内を導き出すAIにこだわる。でもそれだけをもっていても仕方ない。
その両方が同時にあることで、僕らは本当の意味で道に迷うことなく、旅に出ることができる。
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あと、ここでくれぐれも誤解しないで欲しいことは、その系譜というのは決して世間一般的に言われているような「専門性」でもないということ。
これは逆に言えば、これまでは「専門性」という解釈だけでもよかった。「系譜を継ぐ≒なにかの専門家になる」ということと、ほぼほぼ同義だった。
だから学問、特に大学は、その専門家の養成学校のような場所になってしまったわけですよね。
でも、これから起こることは、AIのちからによって、そんな専門性の枠がドンドンと溶け出していく世界がやってくるということ。
AIが、専門家同士の間にあった壁を見事にぶち壊していく。これまでには体験したことがなかったようなガラガラポンが起きて、お互いの垣根を飛び越えられる世界がやってくる。
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そうなると、専門性という、これまでの補助線やガイドラインみたいなものがまったく機能しなくなってしまうはずです。
これがうまいたとえかどうかはわからないけれど、ゴーカートに乗ったまま公道に投げ出される感じ。指定されたコースの中であれば、思う存分、ゴーカートを乗り回すことができていたけれど、いざ、公道に出てしまうと、途端にどうやって運転すれば良いのかわからなくなる。
というかそもそも、道なき道を行くこともできるようになる。
その公道を超えた道なき道でさえも全部行けるようにしてくれる、自分たちで新たな道を切り拓いて行けてしまうのが、AIの革新性でもあり、最大の落とし穴でもある。
極端な話、ヒトラーが自分の力だけで原爆を開発できてしまう、みたいな話だから。
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だから本当に大切なことは、専門性ではなく系譜。それはもっと思想とか、哲学とか、人間観とか、そういう根底にあるもの、地下水脈に流れているものを頼りにしないといけないということだと思います。
いつも用いている「指月の譬え」で言えば、先人たちの指を眺めるのではなく、指の先にある「月」のほうをしっかりと眺めること。
専門性というのは、どちらかと言えば「指」に近い感覚。それだけ見ていれば食いっぱぐれることもなかったし、自らの自尊心や承認欲求もちゃんと満たせるような時代が長く続いていた。
でもこれからはきっと、本当の意味で月を見ようとしないと、すぐに急流に流される。
それが、「まったくジャンルや専門性が異なれど、結局同じこと言っているよね」というその系譜、その大きな地下水脈や、そこにつながる太い大樹に対して自分の身体をしっかりと結びつけておくという感覚に、とてもよく似ているなと思うのです。
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では、具体的にどうすればいいのか。
さまざまな方法があるし、そのアプローチの仕方は十人十色だとは思うけれど、僕がいま強く実感していることは、古典、特に「文学作品」とつながることが、とても大事だなと思う。
これからまた、文学ブームが来ても違和感がないというか、その命綱がないと、この荒波には乗れない気がしている。
それは、夏目漱石があの時代の日本に登場してきたようにです。急速な西洋化、近代化の中で「本当に大事なことは何か」を向き合う時に文学を用いたこと、そしてそこから「私の個人主義からの則天去私の流れ」に似たものが、きっとこれから強く求められる。
他にも、ドストエフスキー、谷崎潤一郎、村上春樹、本当に素晴らしい作品が文学の中には山ほどある。
みんな似たような時代の空気、その変化を感じて、それぞれに自分の小説を書いた作家たちだと思います。
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僕自身、まさか30代になって自分がこんなにも文学なんてものに触れるようになるなんて思ってもみなかったです。
10代や20代のころは、文学や小説なんて本気で何の躊躇いもなく世界において不要なものだと信じていた。完全なる余暇や嗜好品だと感じていた。そして当然、それは自分には必要のないタイプの嗜好品だと信じて疑わなかった。
今このタイミングだから言っているというような大袈裟な話ではなく、Podcast番組「オーディオブックカフェ」の初期の回で、そんなことを堂々と語っている自分の声が、きっと残っているはずです。
今から考えると本当に恥ずかしい。
でもそれぐらい、本当に自分自身がガラッと変わってしまった。
30代に入ってから、お酒やめて、そこで生まれた夜の時間を文学作品を読んだり聴いたりする時間にあてて、まさかこんなにも自分にとって豊かな世界が新たに広がり始めるとは、思ってもみなかったです。
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でも今こうやって振り返ってみると、時代の変化として、これも必然だったんだろうなと。
「意識の自分」と「無意識(身体)の自分」がいたとして、無意識の自分は、これからの時代において本当に必要なものが何かをちゃんとわかってくれていた。
そして、やっと5年以上が経過して、頭(意識の自分)が追いついてきた。本当にありがたい。無意識の自分に救ってもらっている感覚です。
当然、オーディオブックカフェのような番組で、小説を読む機会を強制的に与えてもらえて、F太さんと一緒にPodcast番組を通じて様々な文学作品と向き合い、Wasei Salonのようなコミュニティで、文学好きのみなさんと定期的に読書会や対話を続ける中で獲得してきたこと。
これは決してひとりでは不可能だった。本当にありがたい機会に恵まれました。
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これからも、このような視点はより一層大切にしていきたいなあと思います。
そして、それをコンテンツやコミュニティという形に落とし込み、自らがそれまでの自分とガラッと変わってしまうことを恐れずに歩み続けて、問い続けていきたい。
AIという急流にもしっかりと乗りつつも、正しく継いだ系譜を実践していける場を丁寧につくりだしていきたい。
いつもこのブログを呼んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。