努力すれば報われる社会は、本当に正しいのか?ホワイトな職場で結果が出せないときほど、地獄なことはない。
以前書いたこの話の延長で、AIも自己責任論の救世主のように思えて、日々使いながら思うのは、これは実は悪魔の可能性も非常に高いよなあと思います。
たとえばわかりやすい話に置き換えて考えてみると、Google登場前には「ググレカス」なんて言われなかった。
わからないことは、知っている人に聞く。そこには当然のように人間同士で共に教え合うコミュニケーションがありました。
でも、いつの間にかそれが大きく変化した。
検索が当たり前になって、わからない場合は一定期間ロム専になって、場の文脈を読むことが求められるようにもなりました。
とはいえ、そこでも、やっぱりある程度のITリテラシーや検索能力は必要で、わからないことがあっても仕方ないよね、というニュアンスはかろうじて存在している。
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ところが今、AIによってその構図は根本的に変わろうとしている気がします。
これからはどんな稚拙な聞き方であっても、AIに聞けば一発で正解を教えてくれる。
そして、言われたとおりにちゃんと人間側が実行さえすれば、かなり高い確率で解決までできることなのに、それを行っていなければ自己の怠慢となる。
この解決までを必ずAIが導いてくれるというのは、地味だけれども、相当大きな変化だと思います。
タスクの粒度の問題も、もうAIがすべて手取り足取り解決してくれてしまうわけだから。
だとすれば、あとはAIが本人に合わせて細分化してくれたタスクを、本人がやるかどうか、それだけ。
それでも、解決ができない場合には、自分が正しく実行できなかったことによる責任であり、完全な怠慢であって、そこに完璧な自己責任論が完成してしまいます。
このように、AIがついているにも関わらず、やることをやらずに苦しむのは、自業自得だという話になるのは、もう時間の問題。
極端な話、生活保護の受給だって、もうAIが完璧にサポートしてくれるんだから、ソレでも受けられないのは本人が怠慢だからと言われかねない。
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このような世界線になることが既定路線の中で、もちろん職場でもその常識が一般的になることは間違いないわけです。
そんな「ネオ自己責任論」みたいなものが敷衍することが決定した世の中で「君たちはどう生きるか」ってことなんだろうなと思っています。
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あと、更にここで厄介だなあと僕が思うことは、「身体性のない発言」への信頼の極端な低下です。
AIに聞いて、AIを用いて書かれた話は、もはや誰も耳を傾けなくなる。だってそうなったら、もはや「自分でAIに直接聞いたほうが早い」とみなされるわけだから。
だとすれば、これからは「体重が乗った言葉」しか他者に届かない時代になる。
つまり、より一層「身体性」の説得力が必要にもなるわけです。
本人の、実行力と行動力がカギとなる。さらにそれを続けてきたという「習慣」の力の説得力や担保も備わっているかどうかも重要になる。
これは見方を変えると、ググレカスの時代には、ネットで聞きかじったことを語っていても、それは検索能力の高さや情報収集力というひとつの特殊能力として価値があったわけです。
でも、これからはもうそんなものには何の価値もなくなるし、なおかつ圧倒的に体重が乗っかっているような状態になるための行動力や実行力が必須となるわけです。
つまり、まるで二刀流で成果を出し続ける大谷翔平選手のように、「行動」と「語り」が一致している人間にしか、耳が傾けられなくなるわけですよね、AIの登場によって。
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で、それができないひとは、ことごとく「新しいAIを使いこなすコマとしての労働力」としてしかみなされなくなる。
他者の体重が乗っかったプロジェクトを、AIを用いて手伝わされるポジションに回ることになる。
この構図っていうのは、僕らはすでに過去に経験したことがあるのです。
それは、かつて大流行したキュレーションメディアやバイラルメディアが非常にわかりやすい。
当時、スマホとSNSが出てきて、検索能力と簡単なリライトの技術さえあれば、誰でも「こたつ記事」が書けるとされていたわけです。
ゆえに、ネット起業家たちは、時給が安い女子大生や主婦たちを集めて、ノートパソコンだけを与えて、どんどんネット上の情報をキュレーションをさせてコタツ記事を量産した。
そして当時もいまと全く同じように「もう自分で取材する必要なんてない。自分で文章なんて書く必要がない」と言われていて、そんな安い労働力を用いて、記事が大量生産されたわけです。
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でも、結局いまも残ったメディアは骨太な取材を行うごく一部のメディアだけ。
つまり「検索すればわかる」ではなく「この人が語るからこそ知りたい」という身体性と信頼性のあるコンテンツだけが結局最後には残ったわけですよね。
もちろん、当時、得をしたのはそのスキームを使って誰よりも早く量産体制に入り、上場したり事業売却をした起業家たちだけ。
彼らにとって、女子大生や主婦は本当に文字通り単純に自分たちに都合の良い安い労働力でしかなかった。
いまAIによって、まったく同じことが繰り返されようとしているなあと思います。
“知識の民主化”のように見えて、実際には「技術に乗せられた労働の最適化」にすぎなかった前例が存在するわけで、
今も同様に「AIを用いて、各人の生産性を高めましょう!」と呼びかけること、それによってこれまでは何の技能も持たなかった人たちが煽られて、そうやって新しいテクノロジーを安価な労働力に覚えさせて、既得権益構造を壊しに行く構図なんかは、全く一緒。
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それを知っているからこそ、僕たちはAIへの「没入の快適さ」だけではなく、「世界との摩擦」こそが生き残る手がかりになるということを、もう一度思い出すべきなのだと思います。
言い換えると、AIがもたらすその「滑らかさ」に対して、夢を見すぎないことが大事になるんだろうなあと思います。
これからは、余計に家から出なくなる人と積極的に家から出るひと、完全に2極化していく。そのときに、AIだけに没入せず、ちゃんと「AIの外の世界」にも出ていくこと。
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この点に関連し、僕が最近読み終えた、佐々木さんの新刊『フラット登山』が大変素晴らしい内容でした。
いま書かれるべくして書かれた本だなあと思います。
2019年に佐々木さんが書かれた『時間とテクノロジー』という本が、僕は大好きなのだけれども、まさにそのその実践編というような内容でした。
あの本の中には「滑らかな没入と、世界との摩擦」について以下のように語られてありました。
少し本書から引用してみたいと思います。
摩擦は、外界からの反発です。もし反発がなく、前章で書いたような「なめらかな没入」があるだけでは、私たちは身体感覚を得られません。花崗岩の岩壁にフリクションを感じるから、私たちは身体の気持ちよさを感じるのです。”
(中略)
テクノロジーの進化によってグーグルやアマゾンのようなビッグテックは、わたしたちの暮らしを完璧にコントロールし最適化しようとしている。これは美しい「没入」の世界である。しかし、わたしたちは「没入」だけで満足できるわけではない。「没入」だけでなく、外界や他者との心地良い「摩擦」が必要なのだ。
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自分にとって本当に必要な「世界との摩擦」とは何かを、今から淡々と考えておくことが大事なのだろうなと思います。
「なめらかな没入と世界との摩擦、その理想的な関係性とは何か」を徹底的に考えてみること。
現代に生きている以上、AIを使わないことは不可能です。徹底的に使いこなせるようになっていく必要がある。
でも、その一方でそこに没入しすぎると、誰かに都合の良い、ただの安価な労働力になり下がり、 AIによる自己責任論自体も、これから益々加速していく。
AIの過渡期には、AIが扱える安い人材・労働力として重宝がられたとしても、圧倒的なスピードでAIが進化する中で「あなたも、もういりません」って遅かれ早かれ必ず言われます。
実際そうやって、まさに今プロのウェブライターやウェブ編集者、プログラマーたちが切り捨てられているのだから。
そのときに、共にした時間を担保に救ってもらえるなんて思わないほうが良い。
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だから僕らはAIを使いながら、AIの外、なめらかな没入の外の世界へと飛び出していく必要があると思います。
そして、その体験をもとに自らが五感で感じたことを丁寧に「情報化」を行いながら、自分の地位をしっかりと確立していく必要があるんでしょうね。
そして、強い意志をもって、どうやってお互いにそれを創発し合うのか。
そのための対話ができる関係性がこれからは非常に重要になってくるなあと思います。
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言い換えると、滑らかさの”津波”に飲み込まれていく、怠惰な自分をどうやって乗り越えるか。
このあたりはまだまだうまくいえないけれど、そうやって世界からの呼びかけに応えることができるのか。「呼ばれる、誘い合う関係性」がこれから益々大切になるはずです。
医療においても、医療行為自体はAIが代替できても、患者の心を「治りたい」という強い気持ちに導くというような作業は、決してAIでは代行できないはず。やはりそれは、今なお人間のお仕事。
この「生きたい」という呼びかけの関係性をどうやって耕していくことが大事なんだろうなあと思います。
こればっかりは本当に、人間だけが呼び起こすことができること。この強い気持ちに導くことに対してお互いにコミットしていくことがとても大事になってくるなと思っています。
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他人の体験の寄せ集めのコタツ記事のような体験なのか、それとも自分の身体を通して、自分が五感で感じ取った唯一無二の体験なのか。
そこにきっと大きな分かれ道がやってくると思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとって、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。