最近、人間とテクノロジーの融合、いわゆる“ホモ・デウス化”について、もはやSFではなく「現実の延長線上の未来」として語られることが増えてきたなあと感じます。
今日はそんな少し先の未来について、自分自身の体験を交えながら、リアルなAI活用と今後の「二拠点生活」の可能性を考えてみたいと思います。
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この点まず、なぜ今「ホモ・デウス化」が再び語られ始めたのか?
その背景には、明らかに急速に進化するAIの存在があるのは間違いありません。
そしてもう一つ、大きな文脈として見逃せないのが、アメリカと中国の対立構造だと思います。
社会学者・大澤真幸さんは以前も何度もご紹介してきた『西洋近代の罪』という新刊の中で、ホモ・デウス化における倫理観の違いを次のように語っています。
少し引用してみたいと思います。
「ホモ・デウス」になることが技術的に可能になったとしても、それが、すぐに実行に移されることはないだろう。「倫理的な問題」があるからだ。
(中略)
けれども、結論がない問題をめぐって長い議論がなされるのは、「西側」の社会においてだけである。日本も、「西側」に倣うだろう。西側は、自分たちの伝統的な人間観を著しく傷つける、新しい技術の実用化をためらうに違いない。しかし、中国は、そんなことを気にしない。中国政府は、技術的に可能になればすぐに、一部の人間のホモ・デウス化を許容するに違いない。中国人だけが、ホモ・デウスになる.....。
これは本当にそのとおりなんだろうなあと思います。
実際、『ホモ・デウス』を書いたユヴァル・ノア・ハラリの新刊『ネクサス』の上下巻を読み終えてみても、結局のところ、ハラリは一貫してこの警鐘を鳴らし続けているなと思います。
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では、なぜ僕が唐突にこんな話を書いてるのか。
それは、僕が20代前半のころ、中国北京の「秋葉原」と呼ばれるようなエリアにあったITベンチャーで働いていたとき、ちょうど今のように、ガラケーからスマホに移り変わろうとしているタイミングだったからなんです。
具体的な年でいえば、2011〜2013年ごろ。
僕は北京で2年近く暮らしながら現地で実際に働き、その時に中国におけるスマホとSNSの台頭の初期の荒波を目撃していました。
大澤さんのお話は、自分の経験を通して、本当に強くそう思います。
当時も法律がないからこそ、世界よりも先に生まれていたものが山ほどあった。
具体的には、中国版・LINEと呼ばれる「wechat」や、中国版Twitterと呼ばれるような「Weibo」の進化。
あとは、youtubeのような動画配信サービスの進化も凄まじかったです。日本国内のドラマも中国語字幕がついて、今のネットフリックスのように観放題でした。もちろん、すべて違法アップロード。
あとは、QRコードの普及も凄まじく早かった。
端末で言えば、iPhone4と4sは中国のアップルストアで購入をした体験も忘れられません。そのときの若者たちの熱狂の仕方も、全く異なるものだったなあと思います。
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一方で、当時の日本では、まだまだスマホやSNSには懐疑的な雰囲気が漂っていました。既得権益の存在感も大きかった。
NetflixもAmazonプライム・ビデオも存在しない。テレビドラマや映画がネット上で観られるなんて夢のまた夢。
そして、QR決済も一切普及しておらず、QRコードはダサいものの象徴でした。
僕自身、日本のその気分も同時に理解していたので、若かりし頃の僕は、中国も遅かれ早かれ日本化するんだと思っていました。
まだまだ法律やデザインセンスが未熟だから、こうなっているだけで、すぐに日本化するだろう、と。当然、そのような暴挙を西側の国も許すわけがないと思っていました。
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でも、あれから10年以上が経過をして、蓋を開けてみたら実際どうなったのか。実際に世界は完全に中国化したわけですよね。
中国で当時生まれていたテクノロジーの進化やウェブサービスの数々が、結局日本でもそのまま普及して行ったわけです。
あれだけダサいダサいと言われていたQRコードも、今となっては完全に必需品になっている。
若い人たちの中には、なぜQRコードがダサいと言われていたかさえも、きっとよく理解できないかと思います。
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また、その中国で働いたあと、僕は2014〜2015年ごろバックパッカーで巡っていたのですが、その頃の東南アジアの印象もかなり大きいです。
具体的には、中国が一帯一路政策を実施しているエリアの応対の仕方。
東南アジアの国々の願望は、コスパ・タイパよく成長発展したい、そして、良くも悪くも何かそこに強い倫理観や宗教観があるわけではない。
そこに営業を仕掛けに来る中国人。彼らは政治や倫理など面倒くさいことは言わない。ただ「お金」の話だけ。だから嫌われる。
でも、説教臭くもないわけです。よって、急速に中国化されていく。
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だとしたら、今回もきっと似たような道筋をたどることは必定であるはずで。
いや、「似たような」と言ったら語弊があるかもしれません。たぶんスマホの時の何倍、何十倍の変化がこれから起きる。
こればっかりは、その気分を実際に体感しに行かないとわからないんだろうなあと思います。
つまり、どこかで、AIやその延長線上にあるホモデウス化に振り切った東側の旅をしたほうがいいんだろうなと思うわけです。
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そして、その中で自分にとって西側諸国としての拠点が日本だとしたら、東側の拠点をひとつ持ちながら、定点観測もしたほうが良いんだろうなとも思います。
逆に、もう国内で二拠点、三拠点していてもあまりに意味がなくなってきてしまっている気がします。地方と都会での文化的差異も、ほとんどなくなりましたからね。
むしろ必要なのは、“東西”という文明の違いをまたぐ、二拠点生活なのかも知れません。
きっとこれからは、東西新冷戦のような気運もますます高まり、ブロック経済化していくなかで、東側陣営のサービスや変化を自分自身の肌で味わうということが、大事な気がしています。
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ただ、「本当にそんなこと起きるの…?」と思っているひとが大半だと思います。それは誰にもわからない。
でも、決してこれは夢物語でもなんでもなく、実際に今の世の中でも、若い人たちが整形手術を受けて、自らの身体改造をするために海外(韓国やタイなど)に行ったりしているわけですよね。
これっていうのは医療技術の格差ではなく、倫理観や世間の空気、宗教観の差異こそが狙われていて、すでに始まっていると言えば始まっていること。
今は、単純に「ルッキズム」のためだけだけれど、でもそのルッキズムだって何のためかと言えば、資本主義経済の中で、圧倒的優位に生き残るためなわけじゃないですか。
それぐらいルッキズムが良くも悪くも、資本主義社会の中で勝ち上がるために必須の要件となりつつある。嫌な世の中だなとは思うけれど、現実問題としては抗いがたい事実です。
それはもう、K-POPのアイドルたちが自分たちの身体や顔面を持って見事に証明してしまった。
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で、ついに、これからはこの整形手術ツアーの中にホモデウス化の要素が混ざってくるんだと思うです。
そのときに、生身の身体のままでいいのかどうかと問われて、はっきりと「生身の身体のままで良いです」と言い切れるひとは少ないと思う。
今、若い子たちを中心に当たり前のように整形しているように、その価値観や概念さえも変わっていくことは、もう間違いないのだから。
ほんの10年前は、若い男の子が整形するなんてほとんど考えられなかった。少なくとも表立って自身のSNSやyoutubeで宣言するものではなかった。
でもK-POPみたいなトレンドによって価値観が大きく揺さぶられて、今はそれが当たり前になりつつある。
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きっと、全く同じように次の10年では、東側陣営からホモデウス化したアイドルやアーティストたちが続々と現れて、大きな世界的なブームを生み出していく。
昭和生まれの大人たちはその様子をみて、眉をひそめるように眺めるのだろうけれども、若い子どもたちは素直にそれを受け入れて、「自分たちもあんなふうになりたい!」と強く願うはず。
そして、今のK-POPブームなんかとまったく同じ末路を辿りそうです。
それは歴史で何度も繰り返されていて、ちょうど東西冷戦下の中で、西側の音楽が圧倒的にカッコよく聴こえたように、また”ベルリンの壁”が若者たちの手によって壊される、今度は逆方向に壊されるタイミングがきっとやってくる。
自分の中に最先端のAIをぶち込みたい、そんなサイボーグ化したいという欲望は人間が人間である限り、きっともう避けられないんだろうなあと思っています。
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ということで、西側と東側、その二拠点居住が次の時代には求められるだろうし、ここの行ったり来たりをしないと、たぶん見えてこないものがたくさんあるはずです。
それぞれの倫理や宗教観も全く異なるわけですからね。
あと、これは完全に余談ですが、西側のつくるAIっていつも「最後の審判」みたいだなと思います。自分のこれまでの行いを、AIの視点から評価してもらうかのようなものが多い気がしている。
でも、中国の雰囲気を観ていると、それが全く違うなと思わされます。
「この技術を一体何にどう活かせるか」に特化していて、とにかく「お金」に直結すればいい。とはいえ、向かいたい先は特にないわけです。
それはブレーキの壊れた車みたいで、どこまでアクセルを踏んでも基本的には許されてしまう。(天安門事件にさえ触れなければ。中国共産とさえ批判しなければ)
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このような時代において、自分は一体何を選択するのか。
自分自身の倫理観もそうだし、たとえば、自分の子どもや大切な家族がホモデウス化したいと告白してきたときに、一体なんて声がけをするのか。
先日の話とつながるけれど、だからこそ命綱的に古典作品、古典文学に触れておくことが本当に大事なんだと思う。
自分自身で、思想・哲学・宗教を真剣に考えたことがないと、その判断基準を養うこともできない。
いつの時代も似たようなことを繰り返しているからこそ、古典を小脇に抱えつつ、いま世界で起きていることに実際に触れるために、旅に出てみること。
それが、とても大事なことのように感じています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。