Wasei Salonの中では、読書会や映画の感想会などを頻繁に開催しています。

この読書会や感想会に慣れてきたメンバーほど、ちゃんと自分自身の意見や感想を真正面から語ってくれるようになっていく。

僕は、それが本当にいつも心の底から嬉しいなあと思っています。

「そんなのは感想会なんだから当然だろう」と思うかもしれないですが、実際に参加してみると大半のひとは、何か「正しい話をしないといけない」と思ってしまいがちなんですよね。

具体的には、著者や監督が意図した「正しい主義・主張」というものがまずあって、それに見合った「正しい理解」というものがあるんだというふうに。

現代人の多くが、その正しい理解というものが、自分の実感値よりも勝ると完全に信じ込まされてしまっているなあと思います。

その正しい理解を、感想会の場面では話さないといけないと誤解してしまって、最初のうちは自分の意見が、ほとんど出てこないということなんだと思うのです。

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これはつまり、現代は自分の実感値よりも、客観的な証拠に基づいた「エビデンス」のほうが優先されるような世の中だということなのでしょうね。

わかりやすいところだと「それは、個人の感想ですよね」というまさに個人の感想の言葉が、そのまま批判の言葉として切れ味が鋭いと、勝手にみんながそう感じ取ってしまうほど。

今はそれぐらい、エビデンスに基づいていることのほうが、圧倒的に正しいとされてしまっているわけです。

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きっとこの話は、わかりやすく喩えるならトリックアートのようなもので。

トリックアートに対して本気の顔をして「絵が飛び出していた…!」と語ってしまったら「おいおい、おまえはバカか、あれは目の錯覚で飛び出しているように見えているだけなんだ」と諭されてしまいますよね。

まさにそんなイメージです。

だからこそ、その仕組や原理、種明かしを我先に知りたいと、みんなが願うようになるし、「正しい理解」ばかりを求めてしまいがちなのだと思います。

「もしかしたら、自分は騙されているだけなんじゃないか、自分は正しく認識できていないんじゃないか…」という不安が後から後から襲ってきて不安で仕方ない。

これはほかの例にも喩えてみると、たぶん何かフェイクニュースを掴まされているひと、みたいな感覚があるのだと思います。

もしくは、新興宗教に騙されて洗脳されてしまっているかわいそうなひとや、ストックホルム症候群であることにまったく気づいておらず、犯人に同情してしまっている残念な人みたいな状態に自分が陥っていないか、不安だということだと思います。

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そして、現代が非常に厄介なことは、誰でも手元にあるスマホでググれば、すぐに無料で「正しい理解」が手に入る世の中であるということです。

その結果として、立証責任が感想を語る本人の方にあると思われている。

これは昔は、有料のパンフレットや雑誌、ドキュメンタリー番組を観ないと理解できないことでした。でも今は、そのあたりを散々穴が空くほど読んでいる人間の考察が無料でゴロゴロ転がっている。

だとすれば、それを調べようとしない人間のほうが悪くて、怠惰に思われてしまうから、それを必死で避けたいということでもあるんでしょうね。

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でも、僕は、どれだけ他者から否定され、批判されようとも、まずは自分の「実感値」というものが、何よりも最優先に存在するべきだと思うのです。

そのときに発生する「錯覚」や「思い込み」というのは、人間である以上避けられない。

それがあるからこそ、他者と対話をして深めていくなかで、自分の錯覚に対しても自覚的になることができて、通説的な意見や理解にも、一定の価値が生まれていくのだと思います。

自分の「実感値」を蔑ろにしたうえで、すぐに「正しい理解」を最初から求めてしまうのは本当に百害あって一利なしだなあと。

それは、数学などで演習問題を見た瞬間に、すぐ解答集を眺めるようなものです。どれだけそのような愚行を繰り返したところで、自らで問題を解く力は身につかないのは当然のことです。

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さて、そんなことをモヤモヤと考えていたときに、過去に何度もご紹介してきたラジオ番組『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』の中で「大人は同じ映画を何度も観たりして、理解をしたがるけれど、11歳前後の子どもは『楽しかった!』と言って、映画の最初から最後までその内容をちゃんと覚えている」という話がされていました。

その時の鈴木さんのトークイベントの対談相手が若い女性の方だったのですが、彼女も『君たちはどう生きるか』の内容を理解したいがために、映画を繰り返し見て、そこから考察ブログや考察You Tubeを見てしまったと懺悔をしていました。

「そうやって、大人は何でもかんでもすぐに理解をしたがる、もっと自分を信じるべき」という話が鈴木さんから語られていて、これに僕は本当に膝を打ちました。

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実際、世の中には、そういうブログやYou Tubeばかりを読んで講釈ばかりをたれるひとというのは、本当にめちゃくちゃ多いですよね。

「で、あなたの感想はどうだったんですか?」と聞いてみると、突然言葉に詰まってしまうというような。

つまり、他人から聞いたことを、そのまま自分でも無意識のうちに鵜呑みにして、それこそが「自分の感想」だと思って安心してしまうわけです。

それでは、自分自身の「感性」が育たないのも当然のこと。

そしていつまでも、自分は間違っているんじゃないかとビクビクしながら、自分が思ったことや感じたことを、一番最初にいとも簡単に捨て去ってしまう。そしてすぐにTwitterで作品の名前で検索してしまう。

そうじゃなくて、まずは自分自身でしっかりと作品を受け止めて、考えてみること。

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そして、本当はそこで終わってしまったっていいんです。

それが本人の嘘偽らざる実感だったら、それに勝る感覚や解釈なんてこの世の中には存在しませんから。

でも、そのうえで、人間は社会をつくっていかないと生きていけない。もしくは、社会をつくって、より大きな共同体をつくり出したほうが、大きな力を発揮することができる。

だからこそ、このタイミングにおいて、お互いにそれぞれの「実感値」を持ち寄って対話をし、そのなかでその場にいる全員や多数派が合意できる点を探ってみる。

そして、そこから共通認識を見出して社会や共同体の「ルール」や「本質」として一つずつ確かめるように確立していくわけですよね。

そのときに初めて、エビデンスというものの有用性もうまれてくる。他者を一定程度納得させるためには、客観的な証拠だって必要となるわけですから。

本来は、この順序のはずなんです。

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にも関わらず、最初から他者の意見を鵜呑みにしていたら、ドンドン流されてしまう。

そして、そうやって世間や空気ばかりに流された結果として、最終的には社会の主流派のひとが「人を殺せ」と言ったから「迷わずにひとを殺しました」というような、戦時中の兵士たちのようになってしまう。

自分はちゃんと調べているつもりになって、いつだって自分は「エビデンスに忠実だ」と思っているひとたちほど実は単にそうやって空気に流されているだけだったりするわけです。

そこに圧倒的な現代人の欺瞞や奢りが存在する。

それが、まさに何度もこのブログの中で語ってきた「無思想性」の話にも繋がるわけです。

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まずは何よりも、自分の感性、感覚、感想を大切にすること。

その感想がたとえ錯覚だったしても、それを語っても恥ずかしいとは感じない場所、他人から怒られない場所、頭ごなしで批判や罵倒をされない場所、正直な気持ちを正直に語れる空間が存在することが本当に大切だなあと思います。

他者の話をしっかりと聞いて、そのうえで、自分の意見もしっかりと語ることができる空間。

そうやってお互いの実感値を十分に聞きあったうえで、やっと「本当に価値があることは何だったのか?」その本質を共に探ることに意味があるのだと思います。

Wasei Salonはこれまでも、これからも、そんな場所であって欲しいなと強く思っています。

最初のうちは、客観的に正しい「理解」しか語ろうとしなかったひとたちが、場に溶け込むことで、次第に自分の意見を堂々と語ってくれるようになることが、ハッキリと見て取れたから。

僕は、是が非でも、それを守り続けていきたいなと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているひとにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。