近年は、考えるということが単純に流行らない時代です。
それは、何も考えていないんだろうなあというひとたちが、その勢いやノリだけで挑戦をし、実際にそれだけで成功してしまう世の中だから、だと思います。
そして、そういう成功体験を持っているひとたちがまた、何も考えなくても成功できると語るから、考えることに何の価値もないと語られてしまっているような状態。
でも僕は、それでもやっぱり自分で考えてみたほうがいいと感じています。
この点、最近、連日ご紹介している東浩紀さんの『訂正する力』という本の最後の部分に、とても共感するお話が書かれていました。
東さんは、訂正する力というのは、そのまま「考える力」だと語ります。
以下再び本書から少しだけ引用してみたいと思います。
本書は「訂正する力」を主題にしています。訂正する力とは「考える力」ということでもあります。本書は、なによりもみなさんに「考えるひと」になってもらいたいと思って書いています。
けれども、いまはそのような本は好まれません。市場を席巻しているのは「考えない」方法を説く言葉ばかりです。だから読者が見えないのです。 考えるとはとてもふしぎな行為です。考えたからいいことがあるとはかぎらない。むしろ考えると動けなくなる。まえに進めなくなる。それでも考えることは大事なはずだと本書では言い続けてきましたが、正直言ってそれが本当だという確信もありません。だって、世界には、なにも考えずに大成功しているひとがいくらでもいます。そっちのほうがどう考えてもよさそうです。
じゃあ、考えないことの何が一体良くないのか。
ここからが、僕が今日考えてみたい本題となってきます。
東さんは、「考えないで成功する」ための方法ばかりを求める国はいつか破滅すると書かれていましたが、それはもっと具体的に言うと、「世間が肥大化してしまうこと」が原因だと僕は思うんですよね。
それぞれが自らに考えないと、考えない人は考えている(風)のひとの意見を参考にするしかなくなってくる。
つまり、その影響力の強い人間の鶴の一声で、大衆は扇動されてしまうわけです。
それは、為政者側からすると本当に都合のいいこと。自分の一声で、フォロワーが簡単に動くわけですから。
臆面もなく、それこそが影響力だと誤解し、主張しているひとたちも現代は本当に増えてしまっているのが現代です。
でもそれは独裁者と同じ発想なわけですよね。プチ・ヒトラーが世の中に多数現れているような状態と言えそうです。
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じゃあ、そんな独裁的な欲望を持つ彼らが、単純に悪なのかといえば、僕はそうじゃないと思います。
ヒトラーだって、本当にヒトラーだけが当時「悪」だったのかと問われたら、絶対にそうじゃないですよね。
むしろ、その独裁したいと願うひとに、流されてしまいやすい世の中だったことが一番大きな原因だと思います。
そして、なぜそうなるのかと言えば、やはりそうやって「考えたくない」「面倒くさいことはなるべく避けて、社会的に成功だけをしたい」と願うひとたちがあとを絶たずに、そんな人々の足元が見られれていただけです。
そのような様子をみれば、いくらでも洗脳できる余白があると、支配欲がある賢いひとたちは思ってしまう。
つまり、独裁者というのは単純にその気運を感じ取って、ただその隙間を埋めるように行動しているだけだったりするわけです。
そして、現代は、あなたと同じ属性のひとたちも似たような状況なのですよ、とフォロワー同志がお互いに勝手に洗脳し合っている、もう昔みたいに「広場」に集まる必要さえない。
たとえば、それは「推し活」という名目で横でつながり、そこにコミュニティをつくり出して、考えなくてもいい者同士がお互いの挙動をまるで鏡のように見立てて確認し合って、「考えなくてもいいよね!」とお互いにSNS上で安心感を得るような状況をつくりだしている。
このような状況、それをさらに強化してくれるような環境は不安な人間にとっては、まさに鬼に金棒です。
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では、なぜ、そもそもひとは考えたくないと思ってしまうのか。
もともとは、考えるのが大好きだったはずで、特に子どもの頃は「なぜなぜ」って好奇心が旺盛だったにもかかわらず、です。
生まれたときから、考えることが苦手だったという子どもは、本質的には存在しないはずです。少なくとも、みんな子どもというのは学力レベル関係なく世界の不思議に感動していたはずです。
じゃあ、それでも考えたくないと思うのは、なぜかと言えば、大人になるにつれ、考える楽しさよりも、失敗したくないという願望のほうが強くなるからですよね。
自分の考えていることが、間違っていたときに本当に恥ずかしい思いをしてしまった経験を何度か繰り返す中で、恥ずかしい思いをするぐらいなら、もう考えたくない、と思うのだと思います。
そして、社会人になれば、自分の考えていたことが間違っていた場合のペナルティは、単純にバカにされるだけでなく、仕事の評価や成果にも直結し、万が一炎上でもしてしまった場合には、その瞬間に自らのキャリアも完全に絶たれてしまう。
だとしたら、絶対に考えたくない。考えずに成功だけしたいと願うのは、当然のことだと思います。
それはある種の人情で仕方のないことだと僕は思います。
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でも、だからこそ、安心して考えても良い場を、僕は提供したいんですよね。
しかも、大学などアカデミックな空間ではなく、民間の市井の空間として。言い換えるならば、考えることが目的化する場所ではなく、あくまでそれぞれがそれぞれの人生を善く生きるための手段として「考える」ということを実践していって欲しい。
そこに優劣など存在しませんから。教授や同業者から評価される必要なんてまったくない。
間違っていてもいいし、そもそも正しいとか間違っているとか、そんな一義的な価値観なんてこの世には存在しません。
で、間違っているなと感じたときには、自らの意志によって素直に訂正できるような空間であって欲しい。
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僕だって、頻繁に間違えます。それは、日常的に考えている量が多いので当然のことだと思います。もし僕が間違えることに怯えてしまっていたら、毎日ブログなんて書いていられませんから。
そして実際に間違えて、サロンの中で大きな誤解に気付かされたことは、過去に本当に何度も何度もあります。
そのたびに、自分のほうが完全に間違っていたなあと思うし、メンバーのみなさんに感謝することが非常に多い。
ここだったら、間違えてもいいと思えるから、僕はいつも安心して考えられる。もし理解できなかったら、「わからなかったです」と正直に言いあえること。
そして、たとえ意見が異なる立場からの言及が存在していても、それを悪口や批判だと捉えられないこと。この安心感と言うか、安定感みたいなものが本当に大事だなあと思う。
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ひとりひとりが、そうやって少しずつでも考えるようになれば、この世の中もきっと少しずつ変わっていくはず。
社会的に成功するためには何も考えなくてもいい時代に、それでも考えるひとたちが集う場をつくりたい。
考え続けてもわからないし、さらにわからないこともこれからはドンドン増えていくはず。でも、だからこそ、僕らは考える必要があるんだと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。