AIやNFTやメタバース、TESLAの自動運転やクローン技術などなど、新しいテクノロジーは、本当に日進月歩の世の中です。
こんなふうに新しい技術が雨後の筍のように出てくると、そのときに多くの方が考えるのは「新しい技術は『人間』らしくない、自然の摂理に反する」という感覚だと思います。
そして、僕はその違和感にとても強く共感します。本当にごもっともな違和感だなあと。
昨日も書いたように、そのような直感的な違和感を大事にすることが、いま本当に大事なことだと思います。
でも一方で僕は、この「違和感を大事にする」ということの意味合いというのが実はひとによって大きく異なっているなあと思います。
そして、そこに大きな誤解もあるなと。今日はそんなお話について、少しだけこのブログにも書いてみたいなと。
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この点、僕は「違和感を大事にする」ということは「その違和感を丁寧に観察してみる」ということだと思っています。
あまりに対象に近づきすぎて、火傷してしまわない程度に、しっかりと適切な距離を保ちつつも、その本質を観察するように日々丁寧に眺めてみる。
まさに、直に観ようとしてみること。それがここで言う「違和感を観察する」という行為です。
でも、多くのひとにとって、「違和感を大事にする」とは、「気持ち悪い」とか「腑に落ちない」という感覚を感じた瞬間に、そこから完全に目を逸し、対象が見えなくなるぐらいに距離を隔てて、拒絶をしてしまう。
そして、幼い頃から馴染みあるものに逃げ込んで、そちらばかりを観て、時を過ごそうとしてしまう。それこそが、人間らしく「今を生きる」ということだと信じ込んで、です。
結果、その新しい技術が社会的に実装されてしまい大波が来たときには、もう遅い。
ずっと、存在すること自体は知っていたにも関わらず、何も準備してこなかったわけだから、飲み込まれてしまうのも当然のことだと思います。
だからこそ、そうやって強い違和感を感じたときほど、拒絶をし、ずっと視界に入らないところに遠ざけてしまうのではなく、しっかりと観察してみることが大事なのだと思います。
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この点、最近読んでいた高城剛さんの『白本 5』という本の中に、非常に膝を打つような表現が書かれてありました。
ちなみに、この本は、高城剛さんがもう10年以上続けている有料メルマガの中のQ&Aコーナーから、厳選された非常に読み応えのある本です。
僕も、創刊当初からずっと購読し続けているメルマガになります。
有料メルマガに登録することはハードルが高くても、この白本だけを読んでみることは非常に価値があるはずです。
で、この本の中に、今日の話にも関連した内容が語られていました。
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高城さんは、読者からの「高城さん自身は不老不死になりたいと思われますか?私自身は、感覚的に自然の摂理に逆らうような気がしてどうしても受け入れられません」という質問に対し、「僕は不老不死を求めているのではなく、長く健康でありたい」という返答をしたうえで、「ちなみに〜」と書き綴っていた余談部分があり、そこが非常におもしろい内容でした。
少しだけ本書から引用してみたいと思います。
ちなみに、亡くなった祖母は、死ぬまでエアコンを「感覚的に自然の摂理に逆らうような気がしてどうしても受け入れられません」と話していました。「自然の摂理」とは、所詮「時代感」に過ぎないと思いますし、いま「受け入れられない感覚」こそ未来につながっているかもしれないな、とお考えになると「次の自然」も理解できると思いますね。本当の未来は、その段階では気持ち悪いんですよ。人々のポケットにGPSが入っている今日を過去から見ても。
これは本当にそのとおりですよね。
僕の祖母も、高城さんの祖母と同じように、エアコンなど文明の利器は好まずに、何か異質なものとして、毛嫌いしていたように思います。
そして、幼少期の僕は、「そんなもんかな」と思ってなんとなく眺めていました。自分は全く気にならないなあと思いながら。
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でも、この歳になれば、そんな祖母の気持ちは痛いほどよくわかる。
きっと心底、エアコンのような新しいテクノロジーは当時の人からしたら気持ち悪かっただろうなあと思います。それは、僕らがAIに侵食されていく世の中を単純に気持ち悪いと思うのと、全く一緒だと思います。
このように、人間が生きている中で、保守的になっていくことは避けられない。むしろ、それが歳を重ねること、そのものなのだろうなあとも思います。
だからこそ、冒頭にも語ったように、そんなふうに保守的になったときにこそ、新しい技術やテクノロジーの観察の仕方が非常に重要になるんだと思います。
僕も、AIやNFTなど、新しいものはまずは触ってみるという精神を持ち合わせているため、どうしてもテクノロジー礼賛の人間だと思わがち。
しかしその一方で、歴史やそれに基づく保守的な思想や広義の宗教性にもかなり強く共鳴しているため、一体どっちなんだ?と問われることは非常に多いです。
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でも僕は、両方をできる限り同じ視点から、フラットに眺めたいなと常々思っています。
「古いものはすべてぶち壊せばいい、テクノロジーで何でもかんでも刷新してしまえ」というような発想は乱暴すぎると思うし、一方で「新しいものは極力遠ざけて、長い歴史の中で風化せずに、残ってきたものだけを大事にしたい」とも思わない。
それらはどちらも、大事なものを見落としているように思うからです。もっともっと、その両方の本質部分を見定めたい。
ここが今日本当に強く主張したいポイントです。
それが自分に合っていれば、素直に取り入れるし、そうでなく違和感があるのであれば、そんなときこそ遠ざけず、しっかりと観察をし、新しいものであっても、古いものであっても、違うものは違うとしっかりと「NO」を提示していきたいなあと。
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もちろん、この何かを受け入れたり捨て去ったりするときに、絶対に譲ってはいけない「魂」の部分というものがあるかと思います。
その見分け方というのが、本当に、めちゃくちゃ難しいわけですよね。
で、これは、高城さんもよく語っていることではありますが、「肚で考える」ということひとつとっても大事なことなんだろうなあと思うわけです。
それはつまり、自らの「直感」を大事にするっていうことと同義。
そのためには、逆説的なんだけれども、頭で考えるだけでなく、常に自らの「身体性」を大事にしないといけない。
その本質を理解するための計測器のような役割を「身体」が果たしてれるわけだから。自分の身体自体が狂っていたら、そもそもそこから立ちあらわれてくる直感のような判断自体も狂ってくるわけですよね。
だからこそ、何よりもまず大事なことは、心身ともに健康的であること。メンタルがバグっていたら、本当にろくな判断ができませんからね。
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そして、これは変な話に聞こえてしまうかもしれないのですが、古都や自然の中で最先端のテクノロジーについて考えてみるぐらいが、きっとちょうどいい。
もちろん、逆もまた然りで、東京の港区など大都会の中で、超保守的なこと、または大自然のことを考えてみる。
この行ったり来たりの繰り返しが、本当に何よりも重要なのだと思います。そのときに自分の中で働く力が、まさに最近ずっと語ってきた「訂正する力」のようなものだと思います。
ずっと一箇所にとどまっている限り、それが革新的であっても保守的であっても、どちらであっても必ずポジショントークになってしまう。それは間違いなく人間である異常避けられない。
それぐらい、人間という生き物は習慣や、慣性の力には逆らえないと思います。だからこそ、積極的に自らの空間的な移動によって、それらの力をぶち壊していく。
自然とポジションが生まれることを大前提とした上で、だからこそ、そのポジションを常に行ったり来たりするわけです。
まさに、赤の女王仮説の話と一緒で「変わらないためには、変わり続けなければいけない」ということを文字通り地で行くような感じです。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。