何度かこのブログでもご紹介している書籍『ぼけと利他 』。

その本の中で紹介されていた伊藤亜紗さんの新刊『きみの体は何者か    ──なぜ思い通りにならないのか? (ちくまQブックス) 』を読みました。

この本は、中学生に向けられて書かれた本です。

何ひとつとして、むずかしい話は書かれていません。本当に誰でも読むことができる本だと思います。

でも、決してあなどるなかれ、ものすごく本質的な本でした。大人こそ読んでみて欲しい1冊です。

私のなかにいる14歳が、否応なしに反応してしまうはずです。

そして、僕がこの本の中で、伊藤亜紗さんの慧眼だと思ったのは、「メタファー」のお話。

本当は、冒頭から順を追って「自らの身体のままならなさ」から理解しつつ、最後の「メタファー」の話に辿り着いて欲しいのですが、でも、これをきっかけにひとりでも読んでくれるひとが増えたら嬉しいなあと思うので、まずは本書から該当箇所を引用してみたいと思います。

コロナが世界中で蔓延し始めたころ、「戦争」というメタファーが各国で持ちられたことに関する話です。

果たして、この戦争というメタファーは、単なる「かざり」かな?    彼らはただ「かっこいい言い方」をしたかっただけなのかな?

そうじゃないよね。 「戦争」というメタファーを使うことで、右も左もわからないこの状況 に、彼らはひとつの見方を与えたんだ。これを聞いた人は、「あ、いまは戦争状態なんだ」と身が引き締まる思いがしたと思う。でもどうだろう、そこには怖さもある。
(中略)
これでは権力者の思うつぼだよね。権力の暴走を認めることになってしまう。そう、 メタファーはかざりなんかじゃない。メタファーは現実を見る見方をつくりだす。そして、人々のふるまい方を変えるんだ。     

現実がひとつではない、ということは分かるよね?     同じひとつの事件であっても、 目撃者 によって違う証言が出てくるように、現実も、どのようなメタファーで 捉えるかによって、見え方が変わるんだ。


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少し話は逸れますが、最近「言語ゲーム」で有名なウィトゲンシュタインの解説書をオーディオブックで聴いていて、「私は、私の世界である」という言葉にとてもハッとさせられました。

ひとりでごはんを食べながらオーディオブックを聴いているときにこの話が流れてきて、「食事中には絶対にスマホは触らない」と決めているのですが、その自分の中のルールを破ってでも、とっさにスマホでメモを取りました。

それぐらい大事なことだと自分の中で感じたからです。

というのも、最近ずっと漠然と感じていたことだったんです。

「言語化、言語化ってみんなは言うけれど、この『言語化』とは、一体何を言っているんだろう?」と。

そして、辿り着いた答えは、言語化っていうのは紛れもなくこの「メタファー」のことを言っているんだろうなあと。

たとえば、このブログやNFTの文脈で言えば、「マシュマロ・テスト」や「純米大吟醸リスト」、LLACのしゅうへいさんがよくおっしゃっている「ガチホは座禅」なども、まさにそのメタファーそのものだと思います。

大切なことは、このメタファーを用いて、言葉を共有しているひとたちと共に、その半歩先のビジョンを描きだすことだと思います。

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この点、僕らはどうしても、何か既に決まりきった「確固たる未来」が先に現前していて、そこに言葉を与えているように直感的に感じ取ってしまう。

でも、実際はそうじゃないのです。

どのようなメタファーを用いて、どのように世界を見立てるか、未来には何も存在していないし、現在でさえも実は何も存在していないのかもしれない。

メタファーを用いて見立てた瞬間に、そこに「今」が立ち現れてきて、同時に「未来」も立ち現れてくる。

この事実に本当の意味で、最近やっと気がつくことができました。

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そう考えてくると、みんな言葉の持つ力を侮り過ぎなのだと思います。

今を語るとき、既に建築済みの「建物」を解説するように言葉を用いてしまう。

一方で、未来を語るときには、これから建てられる建物の「設計図」を解説するように語ってしまうんです。実際、そのほうがイメージしやすいですからね。

自分の言葉というのは、あくまでそんな「ツアーガイド」のような役割しかないと思ってしまうから、いくらでもリップサービスができてしまうのだと思います。

僕もそのように語ってしまうことがあるけれど、でも実際はその逆なんです。その見立てのほうが、建物や設計図をつくっていく。

だから、実は私自身がその「設計者」であり、建築現場の「現場監督者」なのかもしれません。

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この点、同じく14歳向けの本として、批評家・若松英輔さんの『14歳の教室    どう読みどう生きるか 』という本の中で「言葉」について、以下のような記述がありました。

言葉を大事にするということは、自分の人生そのものを愛しむことにほかならない、というのです。    

 仮にここで私が、君たちに乱暴な言葉を 吐くとします。一度でなく、何度も。最初、君たちは傷つくかもしれませんが、だんだん君たちは私を 軽蔑 するようになるでしょう。この人は、言葉を丁寧に手渡すことを知らず、投げつける人だと思うでしょう。君たちはそれに 抗うような 叡知 の 盾 のようなものを作り出すに違いありません。    

そのいっぽうで、乱暴なことをいった私は、どんどん強く乱暴な言葉を口にする。君たちはもう、私の話など真剣には聞いていません。しかし、私は、私の声を常に聞いているのです。その刃物のような言葉は、自分を傷つけるのです。     ですから、言葉を用いるときは、いい方に気を付けるだけでなく、言葉そのものを大事にしなくてはなりません。それはときに人を救うことすらあるからです。


これも本当に強く共感するお話です。

繰り返しますが、本当に大事なことは、私達がそれをどのように見立てるのか。

何をメタファーとして言語化するのか、です。

言い換えると、言葉の力によってディストピアを見立てればディストピアが立ち現れてきて、ユートピアを見立てればユートピアが立ち現れてくる。

これは、今が過去のうえに積み重なっているということも、強く実感できる話です。

たとえば、今のNFTを言語化するときに「VALUがあったから」や「ジョン・レノンの『イマジン』があったから」と語れば、これが既にひとつのメタファーになっている。

先人たちによるその基礎工事がなされた状態のうえで、その設計をスタートすることができるのです。これって本当に凄いことだと思いませんか。

ここに引っ張られて、世界は実際にそうなっていくのです。そのための「手立て」からこうじていくことができるのです。

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「呪い」と「祝い」が表裏一体だという話も、その理由がここにあると思っています。

言葉には、未来を固定化していく力がある。

この点、最近「もっと脳内を垂れ流したほうがいい」とVoicy内で語られることが増えてきましたが、果たして本当にそうなのでしょうか。

僕は、言葉を持つ力を、もっともっと本質的に理解したほうがいいと思っています。

それはVoicyの社内の人々もきっと気づいていないことだと、僕は思っています。

そんなに軽々しく言葉を扱っていいものではない。

テキストから、音声や動画にシフトして、無邪気に言葉を用いるひとがあまりにも増えすぎた気がしています。

文章にする場合には、絶対にそんな言葉用いないであろうという言葉を、ものすごく安易に、リップサービスのように用いてしまう。

これは実際に、自分が話す側になれば「なぜそうなってしまうのか?」を手にとるようにわかります。

本当に文字通り「魔が差す」のです。この魔力には本当に凄まじいものがある。

トークイベントや、その場限りの言葉がたゆたう場であれば、多少の魔が差したとしても許されるかもしれないけれど、情報やデジタルデータとして刻まれる場合は、もっともっと慎重になってもいいかと思います。

その言葉は絶対に変化しない形で刻まれて、時空を超えるのだから。

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そもそも、世界中どこを探しても脳内垂れ流しで喋っている首相なんて誰一人として存在しませんよね。

それは、なぜか?

彼らは、自分の言葉が世界を動かすことを理解しているからです。

自分が何をメタファーとしてどのように言語化するかによって、世界がそちらに動いてしまうことを腹の底から理解しているからです。

にもかかわらず、なぜ企業やコミュニティの長が脳内を垂れ流しして、魔が差す恐れがある中で、その場の思いつきで語ってしまっていいのでしょうか。

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言葉が持つ力を軽視するひとが増えてきてしまっている今の世の中だからこそ、僕はもっともとっと言葉の持つ力を大切に扱っていきたいなあと思っています。

もちろん、それによって私の本心を言えなくなってしまうことは本末転倒だと思うけれども、それぐらい言葉というのは強い力を持つものだと、常に頭の片隅に置いておきながら、動画や音声内でも自らの本心を丁寧にお話していきたい。

そもそも、リップサービスをしないと耳を傾けてもらえない話なんかは、そもそも最初から価値のない話なんだと肝に銘じて。

今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの参考となったら幸いです。

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