ひとが、「自分はこれまで何かに流されて生きてきた。自由からの逃走をしてきただけなんだ」と気が付き始めて、私はいま初めて覚醒したと感じるようになると、今度は「自己の確固たる価値観」のようなものを探し始めようとします。

そんなふうに、常識や世間の同調圧力に流されずに「自分の価値観」を大切にしようと思い始めると、「絶対的な価値観」を追い求めて、何か特定の信仰を盲信したり、特定のイデオロギーに染まるようになり、逆にドンドン意固地になっていく。

そもそも、それまで自分で何も考えてこなかったのだから、他者の強烈な考えに相乗りさせてもらうしかないですからね。

だから、世間の大多数はまだ気づいてはなさそうな、でもそこに何か真実が隠れていそうな他人の意見を「私の確固たる価値観」にして、それを盲信したくなるのでしょう。

最近だと、ヴィーガン論争や脱成長に関する論争なんかを観ているとまさにそのような印象を受けます。

でも、本当に大切なことは、常に自己をアップデートして、問い続けることのほうにあるんだと僕は思うのです。

つまり「状態」ではなく、その絶え間ない運動や循環それ自体に価値がある。

言い換えると、この世の絶対的な真理として安住できる答えなんて、この世には一切存在しないということを本当の意味で理解すること。

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そのためには、常に開かれた状態でなければいけないなと思います。

以下のツイートで書きたかったのは、そういうこと。

どれだけ形式的に「丁寧な態度と言葉遣い」を用いたところで、その開かれた態度が同時に存在していないとダメなんですよね。

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で、そんなふうにちょっとずつ人が賢くなってくると、今度は相手の言い分も理解して尊重しつつ、自分たちの意見もある程度は理解してもらいたいと考えるようになり、行動経済学の「ナッジ」の概念を用いて、他者を上手に、気づかれないうちに誘導しようという話になってくる。

参照:生を全うすることの本質は、私を含めた環境全体の絶え間ない「変容」による「循環」である。

でも、僕はこの一般的な「ナッジ」を用いようとする感覚にも、非常に強い違和感があるんですよね。(面倒くさくてホントにごめんなさい)

なぜなら、それは相手を操作しようとしているからです。

つまり、完全に相手をナメている状態になってしまう。

これは僕よりも千葉雅也さんのツイートが、それを端的に言い表してくれているので、ここで引用しておきます。
どれだけ、そこに敬意が込められていて、開かれた問いになっていたとしても、その「他者をコントロールしよう」という魂胆がある時点で、もう完全にアウトです。

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決して誤解してほしくないのは、僕は「ナッジ」を用いるべきではないと言いたいわけではありません。

ナッジとは本来、他者への敬意と尊重から発せられる「祈り」のようなものであるべきだとは思っているということです。

決して、相手を自分の意のままにコントロールしようとするような形であってはならない。

この点、最近素晴らしいなあと思った「ナッジ」のような施策は、Rii2さんの以下のお話です。
文章で説明するのはなかなかに困難を極めるため、気になる方はぜひVoicyの本編を聴いてみてください。

Rii2さんのお話、その内容だけではなく言葉選びや話し方からも、その「祈り」のような感覚がヒシヒシと伝わってくるかと思います。

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もちろん、今日の内容は、僕の「美意識」の問題でしかありません。

このように考えないひとのほうが世間では大多数であるということも、重々承知しています。

ゆえに、自分たちにとって都合の良いツールやサービスをつくりだしては「これはあなた達にとって得なことですよ、メリットのあることですよ」と、ナッジを用いてコントロールしようとするひとたちが後をたたないことも知っている。

最近お話した内容であれば、「ギブアウェイに対する違和感」の回で言いたかったこともこれに非常に近い問題意識だったのかもしれません。
もちろん、「良いナッジ」と「悪いナッジ」を判断する上で、明確にどこかで線引きできるような話ではありません。

それは完全にグラデーションになっていると思います。

そして、たとえまったく同じナッジを用いる場合であったとしても、時と場合、受け取る人間によって、その良し悪しの判断は大きく変わってくる。

常に、仕掛ける側と仕掛けられる側の両者の間に存在する「敬意」と相手を「尊重」する態度によって、その都度その意味合いは変化してくものだと思います。

そのことを理解したうえで、私が私自身に対して、常に問い続けなければいけないことだと思います。

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だからこそ、冒頭の話に戻りますが、そのためには「開かれた対話の場」が必要なんだろうなあと思います。

Wasei Salonが「私たちの”はたらく”を問い続ける」というテーマをおいて活動し、他者との「対話」を何よりも重視しているのも、まさにそれが理由だったりする。

操作しようとしない、あくまで「置き手紙」のラインで留めておく。

「ここに置いておきますね、気が向いたら読んでみてください」としつつ、自分から読みに来てもらうしかない。

もちろん、私も誰かがそうやってどこかに置いてくれている「他者がつくった置き手紙」を、積極的に自分から読みに行こうとする姿勢を保つしかない。

なぜなら、本当に節度のあるメッセージというのは、決して他者に強いるような形では置かれていないからです。

決して隠されてはいないけれど、自分から能動的に読もうとしない限り、その内容が目に入ってこない場所に置かれてあるのが、真に節度あるメッセージだと僕は思います。

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さて、今日の話はたぶん、ほとんどの人には理解されない話だと思っています。

冒頭の「自分の価値観を持つ」、その川を今まさに飛び越えようとしているひとが大半であり、対岸でその飛躍に逡巡しているひとが大多数にもかかわらず、「ナッジ」の部分的な否定なんてまったくもって意味不明なはずです。

でも、それでも、今日のお話が100人にひとり、いや1000人にひとりでも、その真意を理解してくれて、これが私のなかに存在していた漠然と感じていた違和感だったのかもしれない、そんなふうに感じてくれて、何かしらの考えるきっかけにしてくれたら本当に嬉しいです。

それが僕の祈りでもあるわけだから。

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