最近、いろいろな場面で「旦那を教育する(調教する)」的な表現を見聞きする機会が増えてきました。

「でも、それって本当に大丈夫…?」と他人事ながら、不安になることが多いです。

もし、それを男女逆転して同じ表現をした瞬間に、現代社会において炎上することが必須なわけだから、今の社会の中ではそれが肯定的に受け入れられたとしても、また時代が変われば「キャンセル」の対象となって、男性中心社会の二の舞いであることは間違いない。

にも関わらず、現代社会において拍手喝采で世間から喜ばれるという理由から、そんなデジタルタトゥーを現在のこのタイミングで残しておいて果たして本当に大丈夫なの…?と思ってしまいます。

もちろん、それを言及したくなる理由というのは、とてもよく理解しているつもりです。それぐらい、これまでに理不尽な扱いを受けてきたという自覚があって、復讐せずにはいられないということなんだと思うんです。

そして、実際にそうやって言及すればするほど、似たような境遇にあったひとたちが「よくぞ言ってくれた!」と、そのリップサービスに喜んでくれて、そのようなコメントばかりが求められるようになるからより一層盛った感じで語るようになるという構造だと思います。

そうすると次第に、たった数千〜数万程度のSNSの反応だけが、世界の反応のすべてだと感じるようになるわけですよね。

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一方で、僕らぐらいの世代の男性においては、子供時代に90年代〜ゼロ年代にかけて、それこそ「浮気は文化だ」みたいなことをワイドショーの記者たちに散々言わされて、バッキバキにデジタルタトゥーを全身にいれた著名人たちを見てきました。

それが、2010年代に入って突如ことごとく手のひらをかさえされて続々とキャンセルされた歴史を見てきたので「同じ轍を踏まないぞ」と思っている30代〜40代の男性は多いと思います。

ある意味、僕らは「テレビ」という教科書に、墨を塗られた世代なわけです。戦前と戦後ぐらいそこには隔世の感のようなものがある。

そして、今まさに女性陣の中で、僕らがみてきたあの90年代が起ころうとしているなあと思いながら眺めてしまいます。だとすれば20〜30年後、一体何が起きるのかも何となく想像がつく。

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一方で、恐いぐらいに物分りの良い素直な男性陣が最近はものすごく増えたなあと思います。

それはきっと「理解した」ということなんだと思う。

じゃあ何を理解したのかと言えば、その「ルール変更」を理解したということだと思うんですよね。

で、僕には、そんな男性たちがみんな全力で将来的にキャンセルするための言質を取っているようにしか見えなくなってきてしまいました。

具体的には「あなた以前、自分自身の口で言いましたよね?はい、退場してください」と将来言い放つために。

相手にわざとマウントを取らせて、淡々と関節取ろうとしているというような。つまり、今まさに起きている世の中のルール変更に対して虎視眈々と調整しあわせているように、僕には見える。

こういうとき、日本男児の怖さを感じます。よく語られる「日本男児は、ずーっとニコニコヘコヘコしているけれど、どこか臨界点を超えた瞬間に、突然斬り掛かって周囲にいる人間皆殺しにするみたいなこと平気でする」というあの逸話です。海外のひとたちがそれを不気味がって語り継いだ理由もなんとなくよくわかる。

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で、このようなことを漠然と考えてきたなかで、社会的な中における男の”男らしさ”(※男性性の話ではない。男の持つ特有さみたいな意味)について、僕らはもしかしたら何か大きな誤解しているのではないかと、思い始めてきました。

ここからは、書き手の性別の立場関係なく第3の視点から読んでほしいと願わずにはいられないのだけれど、この世界では、それが絶対にできないのがジェンダーの問題のむずかしさだから、それを甘んじて受け入れた上で書きはじめるのだけれども、

今思うのは、男のその”男らしさ”というものは、ルール変更に対して常に敏感であり、その新たなルールの中で「勝つ」ためにはどうすればいいのかを常に考えて、それを無意識に実践してしまうことなんじゃないかと。

「はいはい、OK。次はそういうルールなのね」という中で、淡々と変更され続けるルールの中でどうやって勝ちにいくことができるのか、それを自然と求める性質が、男性の中には間違いなくあるなあと思います。

決してその時代における、何かひとつのルール自体を「絶対視」しているわけじゃないんですよね。一時代を切り抜くとホモソーシャルの世界の中でそのようなことをしているように見えるのですが、連続体として見たときは、決してそうじゃない。

一番わかりやすいのは戦前と戦後の「武力戦争→経済戦争」のルール変更なのだけれども、日本の飛鳥時代から令和までを考えてみても、男はずっと小賢しく何度も何度もそのルール変更自体に対応し続けているわけで。

言うなれば、次の「勝てば官軍」が何かを、ずっと探っているような状態。

ただ表面上、その錦の御旗を掲げるだけで、決してその旗が掲げる正義やルールに忠誠を誓っているわけではない。「御恩と奉公」のようなことも口にはするのだけれども、それも将来の「勝てば官軍」側につくための口実として言うわけです。

わかりにくい話ではありますが、「新しいルールの中で勝てる存在に忠誠を持ち続ける変わり身のはやさ」自体に忠誠を誓うことが、男の”男らしさ”のように思えてきたという話です。

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これは、ひとりの男性の生涯において考えてみても、きっとそうで。

「お手伝いできるから偉いね」から始まり、小学校では足が速いになり、中学校ではおもしろいかヤンキーかという価値基準が加わり、その後高校では勉強ができるになり、出世競争からのお金稼げる&権力を持っているかどうかにつながっていくわけで。

そのライフステージごとに全く別々のルールを、その都度乗りこなすことが求められる。

一方で女性の場合は、大体いつの時代も同じような役割を一方的に担わされてきたし、ルールの波乗り行為自体が社会的に是認される行為とはなりえない。(褒められるような行為にならないという意味)

そして、そもそもそのようなルール変更に対して、あまり得意ではなさそうです。当然ですよね、もっともっと普遍的なものを、ずっと大切にしてきたのですから。

そういう意味で家庭っていうのは、本来“普遍”で“本質”のはずなんですよね。飛鳥時代から令和まで、女性たちが担ってきた役割って、まさにその共同体やコミュニティの維持管理と、家事育児みたいな人類の継続に必要不可欠なことを担ってきた(一方的に担わされてきた)がゆえに、逆に社会側の変化に弱いというか、ルール変更に臨機応変に対応していくということが「美学」には絶対にならない。それは、宇沢弘文の言う「社会的共通資本」に資する事柄である、みたいな話なんです。

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さて、もちろん、このルール変更によって時代の転換点ごとに、固有名のある権威的存在の男性、その個人はちゃんと失墜していくのだけれども、結果的に、その中でまた新たなルールに最大限に適応した男性たちが再び台頭してきてしまう。

そして、本当の問題というのは、「ここ」にあるんだろうなと思うわけです。

決して「ルールそれ自体」に問題があるわけじゃない。

どうしても僕らは、男性中心社会の前時代的な悪いルールがあって、そのルールさえ刷新すれば、世界は男女平等になり絶対に良くなると信じている。

でも、その従来的なルールを変えても、そもそも男性はルール変更自体に忠実に、最大限に適応してくる。つまり、簡単に乗り換えてくるということです。

それは、昨日まで電通の鬼十則を掲げていたひとたちが、次の日にはSDGsのバッジを付けるみたいなことが象徴している。今も「ジャニーズ」を巡ってもまったく同じようなことが起きています。

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だから、「現状のルールが間違っている」という理由で、どれだけ倫理的な基準へと、そのルール自体を変更をしても、あまり意味がないというか、変更すればするほど、むしろ結果として、残念ながら男性優位社会に回帰してしまうんじゃないだろうかというのが、ここで提示したい問いなのです。

だからこそ、ここをどうやってルール変更における「男性の優位性」を生み出さずに、ルールを変更するのかが現状の課題ではないかと思います。

とはいえ、それは完全な語彙矛盾に陥ってしまって、本当にむずかしい問題だなあと思います。もちろんここにも答えはありません。そして、新しいルールに適応しようとすること自体が必ずしも善ではないことも、今回ハッキリと理解できました。それがむしろ問題をより複雑にする可能性もあり得ると。

引き続き、考えていきたい事柄だなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなっていたら幸いです。