本の読み方を聞かれることがよくあります。

その場合、形式の話が問われることが多いなあと思います。具体的には「紙ですか、電子ですか。それともオーディオブック?そして、それらを一体どのような場面で使い分けていますか」と。

また、合わせて「どのような状況下で本を読むのか」という話もよく聞かれます。本を読む時間帯や場所、細切れの時間で読むのか、まとまった時間を確保して読むのか、などです。

きっと本を読もうとすると、そこが最初のハードルであり迷うポイントでもあって、目の前に立ちはだかる壁だと感じるから、これは当然と言えば当然のことなのかもしれません。

でも僕は、それ以上に本の「読み進め方」に、読書の肝があるなあと思っています。

そしてもちろん、ここには正解などは存在しない。それぞれのたどり着いたスタイルが存在するだけです。

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で、この点、僕は本を読み進めるとき必ず同時並行して、何冊も行ったり来たりをしながら本を読むようにしています。

メインの軸となる本が3冊程度あって、そこに付随して5冊〜7冊程度あり、合計10冊近くが常に同時並行的に読み途中として存在している感じ。

そして、それぞれが全くバラバラのジャンルであることも、自分にとっては非常に重要な要素です。

同じジャンルの本を複数冊読み終える必要があっても、それらの本を同時並行的に何冊も読むということはあまりしません。

たとえば、「食に関する健康」の本を読むとしても、そればかりを何冊も同時並行的に読むことはしない。そのジャンルは常に1〜2冊だけが進行中の中に存在し、ソレを読み終えたらまた次の「健康」の本に行き、数カ月間ずっとそのジャンルを追い続けるというようなことをします。

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そして、このような読み方がいつも、お酒のチェイサーみたいだなあと思っています。

もう自分自身は、お酒をやめて4年近く経つので、ある程度思い出すようにして書くことにはなるのですが、強いお酒を飲むときに、横においておく和らぎ水や、ビールやサワーなど、ちょっと弱めのお酒をチェイサー代わりに飲む感覚に非常に近い。

で、これって結局何をしているのかといえば、チェイサーと同じく脳内で「中和」をしているということなんだろうなあと思う。

で、この中和という作業が、一体何をしているのか。自分でも今まであまりよくわかっていなかったのですが、きっとひとつのイデオロギーに縛られないようにしたいってことなんだろうなあと思いました。

ここが今日一番強く伝えたいポイントです。

一冊だけ(もしくは同じジャンルだけ)を読み進めると、どうしてもそのひと、そのひとの思想やジャンルの思考がそのまま一つの正義となってくる。

そして、自分の中にそれまであったほかの価値基準が、見事に一掃されてしまいます。

ときに、それが功を奏することもあるのだけれども、熱病に冒されたような感じにもなるのであまりよろしくないというか、好きではない。

Kindleに表示される進捗度合いで言えば、一般的な本の分量における10%も読めば、一度その本から離脱したい。

『カラマーゾフの兄弟』のような長編小説も、僕にとっては本当に強い強いお酒のようでもあったので、第4巻の1冊を読むだけでも、新書レベルの本を6冊同時に読み終えた感じです。

そうじゃないと、絶対に読み終える事ができなかったなあと、今振り返ってみても思います。それは、何度も何度も息継ぎをするために、水面に顔を出すようなイメージにも近いんですよね。

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さて、今この瞬間も、3冊の本をメインに複数冊の本を同時に読んでいるのですが、その3冊が何かと言えば、一冊はこれまでに何度か言及しているウォルター・アイザックソンの『イーロン・マスク』の下巻。

そして、もう一冊は、いつもご紹介している内田樹さんの新刊である『街場の成熟論』。

そして、最後の1冊は、東浩紀さんの新刊『訂正可能性の哲学』です。

めずらしく、ここ最近に発売されたばかりの本が3冊並び、それらを同時並行的に読んでいるわけだけれども、これもまさに中和であって「弁証法」のようなことを、自分の中で行っているなあと思いました。

具体的には、感情むき出しで少年のような『イーロン・マスク』の本が正だとすれば、それをいなすような反作用としての『街場の成熟論』が存在する。

そして、それらを統合するためには実際どうすればいいのかを深いレベルで考えているのが、まさに東さんの『訂正可能性の哲学』であって、これが止揚の部分にあたるなあと。

気づけば、大体いつもこのパターンに落ち着いているような気がします。

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さて、こうやって改めて自分の本の「読み進め方」を言語してきてみて、一番おもしろいなあと感じているのは、この軸となってくる3冊というのは、読んでみないと絶対にわからないということなんです。

自分の中でどの本が、どの立ち位置を占めるのかは、そのときになってみないとわからない。

本当にバラバラに読んでいるうちに、自然とそのような状況に自然とおさまっていく感覚があるんですよね。このときに、あまり恣意的な理性というのは働いていない。

もちろん、その3冊の周辺に広がる、残りの7冊も自然に定まっていく感じです。

一見すると乱雑に見える机の上が、実は本人の中ではものすごく精緻に秩序だっている話と非常に良く似ています。

あれも、本人が意識して(コントロールして)そうしているわけではなく、たまたま偶然の積み重ねでははあるのだけれども、そのたまたまの偶然が、ものすごく本人の中では秩序立っているというような。

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逆に言えば、一冊を最初から最後まで読み続けるということは、僕には絶対に不可能な所業なのです。

どれだけ簡単な本であっても、たぶん一冊の本を最初から最後までは1冊だけを通読することはもう絶対にできない。(一方で、他の本と混ぜながら、一日の中で通読することはよくあります)

読書好きと自称しつつ、それができないんだから、本当におもしろいなあと思います。

読書が苦手なひとの悩みで、一生懸命それをしようとして「いつも読みきれなくて挫折するんです…」と辛そうに語っているのを見ると「いや、僕もそれは絶対にできないんだけどなあ…」と思いつつ、そこはあまり言及しません。

どうしても、自分のスタイルを強要するような形になってしまうから。こればっかりは本人の行き着くスタイルに身を委ねるしかないだろうなあと思っています。

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ちなみに、これはオーディオブックでも全く同じで、オーディオブックでも大体5冊程度同時並行的に聴いている。

だから常に合わせて10〜15冊前後の本が読み途中のまま、自分の中で存在しています。

もはや、今自分が何を読んでいたということさえも、アプリを開くまで完全に忘れていることもしばしばです。

でも、本当にそれでいいと思っています。

そしてこれは完全に蛇足ですが、逆に言うと「映画鑑賞」の良いところは、ひとつのテーマを最初から最後までぶっ通しで突き通してみせてくれるところ。特に、映画館でみる映画はそうです。

だから映画と読書は、全く異なる体験を与えてくれるから素晴らしいなあと感じています。その分、映画には熱に浮かされやすい部分もある。それがハレとケにおける、ハレのような感じがしてまた一興なんですよね。

今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの参考となったら幸いです。